9,エンソク
 ボクハ、ヱンソクノ、前ノ日ニ、泰明学校、ヘ、アソビニイッテ、カヘッテ来タ、トキハ、モウ、ユウガタ、デシタノデ、大イソギデ、リックサックヲ、出シテモラッテ、オカアサント、ボクト、ニイサント、チカテツヘ、イッテ、マズ、一バン、ハジメニ、ニイタカドロップト、サクマシキドロップヲ、カヒマシタ、ツギニ、ボクガ、ピース、ヲ、カウト、イヒマスト、ニイサンガ、ソレヨリ、コレガ、イイ、ト、イッテ、ピース、ノ、トナリ、ノ、ヲ、ユビデ、サシマシタ、ボクハ、オカアサニ、オネダリ、ヲ、シテ、ソレヲ、カッテ、モラマシタ、ソレカラ、明ジドラゼー、ヲ、カッテモライマシタ、ソレカラ、明ジキャラメルヲ、カッテ、モラハウ、トシマシタラ、ソンナニ、カウト、センセイガ、イッタヨウニ、オナカ、ヲ、コワシマスヨ、ト、イッテ、カッテ、クレマセンデシタ、ソレダ、ケニ、シテ、ウチヘ、カヘリマシタ、ソウシテ、ウチヘ、カヘルト、ボクノ、イモウト、ガ、ドロップヲ、ホシガルノデ、五ツ、アッタノガ、四ツシカ、ノコラ、ナカッタ、ボクハ、チカテツ、デ、カッテ、キタノヲ、ミンナ、リックサック、エ、イレタ、ソレカラ、ネマキニ、キカヘタガ、ナカナカ、ネラレナカッタ
  「エンソク」という課題は、遠足に行ってきたからこそ出たのでしょう。だのに二年一組小沢信男は、またもその前日のことをごたごた書いている。  しかも脱字や読点だらけ。ソレダ、ケニ、とはなにごとだろう。いまさらやむをえません。順につきあって見てまいります。
 放課後に、いったん帰宅してランドセルを下ろし、身軽になってまた学校へもどった。広い校庭は、おおかた上級生たちが走りまわっている。付属の小公園に砂場もブランコも滑り台もジャングルジムもあって、たぶんそちらで遊んでいたのでしょう。

 放課後の校庭に、遊ぶ子どもらの声がひびくのは、どこの小学校もご同様でした。戦後も、団塊の世代たちの育ち盛りには。
 やがて都心部は過疎になり、学校も統廃合が進んだ。そうしていまや泰明小学校の校庭はシィンとしている。小公園との境目には網を張って、立入禁止の無人の境です。

 おもえば当時は、そこらじゅうに子どもらがいたのだな。犬も猫も気ままに歩いていた。あるときお隣の松竹理髪店で雌犬を飼ったら、界隈の雄犬どもが日参してくる。登校するわれらとすれ違いに、のそのそ日参組がやってくる。
 そんな町場の暮らしむきの頃のことであります。

 さてそこで。明日の遠足にそなえて、なんで地下鉄へドロップを買いにゆくのか。これにも一くさりご説明が要るでしょうなぁ。
 そもそも東京の地下鉄は、浅草─上野間が昭和二年の歳末に開通した。私は昭和二年六月の生まれ。同年輩であります。始発の浅草駅と乗り換えの上野駅はひとまず地下二層だが、おおかたは地べたを掘りさげレールを敷いて蓋をする単純な一層でした。
 その方式で神田まできて、次の三越前で完璧な二層となり、地下一階はデパートの地階への入口だ。その伝で、日本橋、京橋、銀座と順調に延びて、新橋駅の開通が、昭和九年六月のこと。
 プラットホームは地下二階に。地下一階は省線電車に乗り換える通路で、そこに屋台風な店がならんだ。いうなら地下の露店だ。
 地下鉄は、夏に涼しく冬は暖かい、という触れ込みでした。なにしろ出来たてのほやほやの施設だもの。キャラメル買うにも母子そろって地下鉄ストアへ、いそいそ土橋を渡ったのです。

 新高ドロップ。佐久間式ドロップ。ドロップ界の双璧でした。家庭用は縦長の缶入りで、丸い小さな蓋をあけて傾けると二粒三粒がころっと出てくる。携帯用は現によくある筒状の包みだったはずだが。まずはその新高と佐久間式を買ったのだ。
 台湾の玉山は海抜3952メートル。日本統治時代は富士山よりも高いので新高山(にいたかやま)と名づけて日本一でした。つまり最高のドロップという意味合いの名称だな。
 そして「ニイタカヤマノボレ」は、日本海軍の暗号で、昭和十六年(1941)十二月八日未明の真珠湾攻撃は、この号令ではじまった。あげくに敗戦。台湾はじめ旧植民地はみな手放して、もはや新高ドロップどころでない。歴史のなかの一齣です。
 かたやサクマ式ドロップは、現存するのですね。佐久間さんというどこかのお菓子屋さんが創始したのであろうドロップのほうが、はるかに長命の名称なのでした。

 ピースは、煙草ではなくて、白い薄荷(はっか)ふうの丸い菓子でした。だが、兄が勧めるままにその隣の、たぶん似たようなものにした。そのくせそれを兄と分け合った気配はない。弟にねだらせて、兄もちゃっかり自分の分を買ってもらったのではないか。
 明治ドラゼーとは、どんなものだったか覚えがないが。どうやら携帯用の薄い缶入りのドロップの類いらしい。どれもこれも五銭程度。キャラメルは大小で五銭と十銭とあった。
 グーグルで検索すると、往年の明治ドラゼーの小さな空き缶一つに、アンチークオークションで二千八百円の値がついております! 茫々八十年を跨いだお値段だ。

 明治キャラメルもねだったが、それはあきらめて帰宅する。すると五歳と三歳の妹に、どっとからみつかれた。母をひっぱりだして、なにかいい思いをしてきたのにちがいないのだから。
「五ツ、アッタ」とは、新高ドロップ。佐久間式ドロップ。兄の勧めたもの。明治ドラゼー。この四つに、さてはピースも、やはり買ってもらったのだな。
 このうち一つだけ妹にゆずって「四ツシカ、ノコラ、ナカッタ」とは、なんという言い草だろう。その四つはさっさとリュックサックへしまいこむ。これ以上取られてなるものか。
 せまい家に、兄妹(きょうだい)四人で育っていれば、一種のこれも生存競争の鍛え方でしょうか。

 そうして寝床に入っても、すぐには寝つけない。明日への期待。とはいえ、いったいどこへ遠足に行ったのやら、もっぱらドロップをなめることに盛りあがっているあんばいではないか。
 この綴り方に、担任の先生は、三重丸のうえに二重丸をのせたダルマの五重丸をつけている!

 なんという優しい先生に、このガキはめぐりあっていたことだろう。綴り方はこれでいいのだよ、脱字だらけも読点の打ちまくりも踏みこえてドンドンお書き、と励ましてくださっている。
 八十年をへだてて、このガキの成れの果ては、いま、ふと、なみだぐむ思いでおります。ありがとうございました、高橋先生。

エンソク
この画題は「エンソク」です。せっかく遠足をしたのだもの、担任の高橋先生は、それを綴り方にも図画にも課題にされた。そこで二年一組小沢信男は、この絵を描きました。
 先生を先頭に、一組の男子たちが四列縦隊で、いましも橋にさしかかるところ。渡り終えてこっちにくるようでもあるが、それならば目鼻を描くだろう。やはりむこう向きなので、それを後方上空からの俯瞰図で描いている。
 こんな視点で絵を描くことを、八歳児がもう心得ているのだな。写生ではない。絵を空から描く、いわば絵空事なので、どこか奇妙です。
 第一に、こんな整然たる四列縦隊で、園内を歩いてはいなかった。もっとごちゃごちゃしていたのに、団体行動の建前で描いたものだから、行く手の橋が、それなりの広い幅になってしまった。
 実態は、ほんの小橋でした。大池と小池をつなぐ水路なのだが、さながら川ではないか。どうしてこんな絵になったのか。

 行き先は、小石川植物園でした。数寄屋橋の停留所から貸切りの市電に乗ってゆき、たぶん帰りも同様だった。貸切り電車は規定のコースにこだわらず、適当にレールをたどって目的地へ運んだ。市街電車には、そういう便利さもあるのでした。
 小石川植物園は、高台に樹林、低地に大小の池をめぐって梅林などがひろがる。その日本庭園のはずれで、高台の裾の小橋を渡った。それが土橋だという。
 なるほど、土の道がそのまま橋の上につづいている。丸太を敷きならべた橋桁の上に土を盛りあげて、縁も丸太だ。やぁ土橋だと、めずらしがる街場のガキどもに、そうだよ、これが土橋です、と先生が保証したのだったかな。
 このとき、私は仰天していた。

 土橋といえば、どっしりと大きな石橋にきまっていた。市電がチンチン、トラックもがんがん渡ってびくともしない。歩道の四角いコンクリート敷石は、端から端まで四十二枚。それをぴょんぴょん跳ねて数えて渡るのが習慣でした。
 ところが、こんなお粗末なちっぽけな橋が、ほんものの土橋なのだとは! ではものごころついてこのかた馴染みの土橋は、ニセモノなのか?
 つまりは、西銀座の土橋は固有名詞で、植物園で出会ったのは普通名詞の土橋であった。と文法的に整理できたのは、はるか後年のことです。固有名詞と普通名詞が衝突のおどろきを、おそらくこのときにはじめて体験したのだ。
 遠足の画題で描くとなれば、もっとも衝撃的なこの場面だ。けれどもどう描いたものか。道からのつづきで橋の上をぜんぶ土色に塗らなければ。とすればそれは俯瞰図になる。高台のほうが林で、下のほうは平地だった。そこを遠足の隊列がゆく。
 そうして描きあげてみたら、隊列の行く手に茶色い大きな板が立ちはだかったようでもある。描きは描いたものの、途方に暮れた気分で提出した、ような気がします。

 小石川の植物園に、この土橋は現にあります。入口からはずっと奥の行き詰まりに、瓦屋根で紅白の壁の旧東京医学校の洋館があるが、その手前です。中年のころは大塚に居住した時期もあって、折々におとずれた。そのたびにこのかわいらしい土橋の上で、しばしたたずむ。
 西銀座の土橋は、とっくに高速道路の下の、ただの通路です。まさかここが橋だったとはお気づきにならないかもしれないが、残像はなくはなくて、通りかかるとやはり私は、つい瞬時たたずみます。
──作者敬白

↑ページトップへ