キノフ、ボクタチハ、トホクワイデシタ。學校ヲデタノガ、〇時三十プンデシタ、スコシイクト、ボクノウチガ、見エマシタ、ボクハ、ダレカ、イルカナ、ト、オモヒマスト、ダレモヰマセンデシタ、土橋ヲ、ワタッテ、スコシイクト、シン橋ガ見ヘマシタ、マタ、ドンドン、イクト、ガードガ、アリマシタ、ソノガードヲ、クグッテ、イキマスト、川バタ君ガ、タルノワ、ニ、ヒッカカッテ、タヲレタノデ、ボクガ、オコシテヤリマシタ、ソノ時、二組ノ、ホサカ先生ガ、来テ、川バタ君ヲ、オコシテクダサイマシタ、ソコヘ、高橋先生ガ、来テ、一バンウシロノ、伊井君、ト、一ショニ、イキマシタ、マタ、イクト、ヤハリ、ガードガ、アリマシタ、ソノ、ガードモ、クグッテ、イクト、水タマリガ、アリマシタ、ソノ、水タマリノ、所ニ、イタガ、アリマシタ、ソノ、イタヲ、ワタッテ、シバノ、オンシテイエン、ニツキマシタ。
またまた徒歩会です。5章の日枝神社へむかったときと同様に、昼の弁当をすませてからの出発だった。今回は、芝離宮恩賜庭園が目的地です。浜松町駅の海側へすぐ隣だから、有楽町駅に近い学校から、JR山手線で二タ駅分を歩いたわけだ。
一ト駅目の新橋駅を過ぎたあたりで、目の前の同級生が転がった。どうやらこれが今回唯一の出来事らしい。つまらない綴り方で恐縮ですが。あらためて道筋をたどりなおせば、どっと湧く思い出が、あることはあるのだ。
この日は、西銀座の電車道へでた。いまの外堀通りです。この西側の歩道を、二学年の一組から三組まで百二十人余りの行列が、ぞろぞろ歩いた。六丁目、七丁目、八丁目。
この道は、入学から卒業まで六年間の私の通学路でした。表通りばかりを往き来したのでもないけれど。当時は両側がほぼ二階家のならびで、角々に大きなビルがあった。
七丁目の、いまはリクルート本社ビルのところが、当時は国民新聞社、黒っぽいビルでした。玄関脇の立読み所の、ガラス張りの額に収めた日々の新聞を、朝に夕に
あのころは大相撲が一月の春場所と、五月の夏場所の二場所きりで、そのときは立読み所にならんで臨時の衝立が建った。幕内の取組みを告げる力士の名の木札が、ずらりと上下に掛かり、それが朝風にカタカタ鳴るのが、登校のおりの風情でした。
下校が道草くって遅れると、負けた力士の札が裏返って赤字になっている。それをおぼえて飛んで帰り、誰それが負けたよ! とか、勝ったよ! と叫ぶ。つけっぱなしのラジオで父も事務所の連中も先刻承知していても、けっこうこれで道草がごまかせたのでした。
国民新聞社の向かいは、八階建ての電通本社で、新築まもないぴかぴかの白っぽいビルでした。界隈で最高の高さだし、この電車道を、電通通りとも呼んでいました。
本社はやがて築地へ移ったが、この銀座電通ビルはほぼそのままに健在です。この通りで当時のままの建物といったら、近年みるみる減って、もうこのビルぐらいです。
こんな思い出話は、きりもないな。急ごう。八丁目、土橋の手前までくると、電車道のむこう側に、大塚自転車店、虎屋自動車商会、松竹理髪店などの小店がならんでいる。
知った顔が佇んでいれば、手を振ってみせるのだが、あいにくだれもいない。わが家のガレージはがらんと出払って、商売繁盛中だったとみえます。
土橋を渡って直進すれば、新橋駅がみえてくる。赤煉瓦造りの、東京駅を小型にしたような駅舎が、東口広場に面して建っていました。
現在は新橋駅といえば、西口広場のほうが代表的だが。あれは七十年前の空襲の焼跡に、敗戦直後から闇市が立った。それ以来の広場です。以前の駅裏はいきなり家々が建て込んでいた。処女林という大きなキャバレーがあって、大人になったらここへ入ろうと私は夢を抱いていました。
徒歩会の一行は、もちろん東口の広場をゆく。赤煉瓦駅舎の前をドンドンと通過した。
するとそこに、二股のガードがある。手前へ鋭角にくぐるガードの先は、烏森通りです。道なりに斜めのガードをくぐれば、その先は、にぎやかな日陰町商店街でした。
二股のガードは、いまもそのままにあります。だが日陰町の面影はもうない。しかも新開の大通りに、いきなりぶち切られている。占領軍総司令官マッカーサーが、アメリカ大使館から竹芝桟橋まで100メートル幅の軍用道路を造れと命じたのが発端とかで幻のマッカーサー道路。その後に幅40メートルに改めて、徐々に用地を買収し、やっと昨年に開通した。2020年の東京オリンピックに備えるという環状第2号線の一部です。
往年の日陰町は、古着屋が軒をならべていた。神田の柳原通り、上野広小路裏の上野町通りなど、東京のところどころに古着屋でにぎわう町があった。
その古着屋の町筋が、にわかにニュース種になったのは、昭和十一年の初夏でした。阿部定なる三十女が愛する四十男と荒川区
逃亡中に、上野の古着屋に現れ、着ていた結城袷と羽織を売り払って、
この事件は、私が小学三年生のときで、子供心にも感銘し、生涯になお忘れがたいです。
しかしこの徒歩会は、その前年だ。そんな騒ぎの場になろうとは、まだ誰も知らない。
斜めのガードをくぐって、さて、一行はどの道を進んだのか。日陰町は、京浜国道の一本西の裏通りで、その商店街のにぎわいへ百二十人もの子供らの列が押し通るのはいかがなものか。表通りの国道には、品川から浅草雷門までを往来する1番の市電が走っていた。たぶんその電車道へ出た。すると、いきなり川端君が、樽の輪に足を取られて倒れた。
おもえばあのころは、路上になにやかやと落ちていたものです。釘が必要ならば、そこらをまめに探せば、たいてい拾えた。店ごとに仕入れの荷を、おおかた路上でばらすのが通例でしたから。
樽のタガのような輪が落ちているのを、先頭の連中はさっさと跨いでいったのだ。川端君は小柄で、むしろ敏捷な少年でしたが、脇見でもしていたのだな。ばったり倒れたすぐうしろにボクがいた。助け起こす気でいっしょにもつれていると、後続の二組の先頭の保坂先生が駆け寄った。一組の高橋先生も駆けもどってきた。そして、もたもたしている二人を、級長の伊井君に託した。
というなりゆきだったのでしょう。なににつけても、たのもしい伊井君でした。
やがて増上寺の大門通りとの四つ辻にきた。左折すれば、ゆくてに浜松町駅のガードがある。くぐれば芝離宮庭園の入口は目の前です。その手前に水たまりがあって、応急に置かれたらしい板の上を、こんどは脇見せずに渡ったのでした。
さて、目的地に到着して、どうしたか。おそらく庭園の池のほとりで一同しゃがんで一休みしたくらいで、浜松町駅から二タ駅分を省線電車(いまのJRを当時はそう呼んでいた。鉄道省管轄の路線の意)に乗ってもどり、ぶじ帰校したのでしょう。
この徒歩会という行事は、泰明にかぎらない。当時はどこの小学校でも、必修の行事だったのではあるまいか。すくなくも東京では。
というのは、さきの日枝神社ゆきの小文「トホクワイ」を読んだ知人が、こう感想を述べたのです。彼女はすこし年下の、国民学校の時期の世代ですが、「あたしたちのときもありましたよ。泰明の子たちみたいに街中でなくて、長い水道道路を歩いたの。道ばたに家庭菜園があったり、草むらから先生がアカザを採って、これは食べられますと教えてくださった。でも徒歩会とは言わなかった。コウグン(行軍)と言っていました」
さすが国民学校! 時あたかも太平洋戦争たけなわの、食糧難で代用食の流行期でした。