7,海軍記念日
 一時カンメニ、ボクガ、シュウシンダ、ト、オモッテ、マッテヰマシタ、スルト先生ガ、伊井君ニ、修身、ノ、カケズ、ニ、ヒロセ中佐、ノ、オハナシガ、アリマスカ、ト、イヒマシタ、伊井君ガ、カケズヲ、メクリナガラ、サガシテイルト、戸田君ガ、アリマセント、イヒマシタ、ボクハ、ガッカリシマシタ、スルト、先生、ガ、ソンナラコンド、カイテクル、カケズ、カモシレナイ、ト、オッシャイマシタ、スルト、センセイガ、海軍キネン日ノ、オ話、シッテイル人、手、ヲ、アゲナサイ、ト、オッシャイマシタ、スルト、ヱビツカ君ガ、ハイ、ト、イッテ、手オアゲマシタ、先生ガ、エビツカ君、ユッテ、ゴランナサイ、トオッシャイマシタ、ヱビツカ君ガ、タッテ、イマカラ、三十年前、ニ、日ロセンソウガ、アリマシタ、ソウシテ、バルチックカンタイガ、ドコオクルカ、ワカラナイノデ、カンチャウサン、ダチガ、大ゼイデ、ソウダンヲ、シマシタ。ト、エビツカ君ガ、イヒマシタ、ソノ、ホカ、カメオカ君ヤ、伊井君ガ、海軍キネン日、ノ、オ話ヲ、シマシタ
 修身は、数ある課目のなかで、いちばんつまらなかった。この日の第一時限がそれなので、覚悟していると、あらわれた担任の先生が、広瀬中佐というではないか。そこで、このボクは、がぜん興味を催したのですな。
 二年一組小沢信男の綴り方は、とかく前段にくどくどとヒマを食う癖があって、恐縮です。だが、それでみえてくることもなくはなくて、修身という課目用の掛け図があったのだ。特大のカレンダーのようなそれが、黒板の脇あたりに掛かっていた。中身は忘れた。二宮金次郎とか、ナイチンゲールとか、定番の教訓画が綴じ込みになっていたものか。
 その旧来の掛け図には、軍神広瀬中佐の図はなかった。旅順港外で弾丸雨飛のなか、荒波洗うデッキの上で「杉野はいずこ、杉野は居ずや」と探している図柄が、改訂版には入ったのでしょう。

 教育資材の変化の一例です。満州事変に突入の昭和六年(1931)このかた、世は着々と軍国主義へ傾いてゆく。国語読本の第一巻も、冒頭の「ハナ、ハト、マメ、マス」が「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」へ、私らが入学した昭和九年から変わった。修身の掛け図の改訂も、その足音の一つでしょう。昭和十年五月某日の一時限を、先生は海軍記念日の予習にあてたのでした。

 海軍記念日は五月二十七日でした。明治三十八年(1905)のその日に日本海海戦があり、東郷平八郎大将のひきいる連合艦隊が、強敵バルチック艦隊を撃破する。かくて日露戦争は、赫々たる勝利をおさめた形で講和にいたった。じつは精根尽きた辛勝だったにせよ。
 記念日の当日には、全校生徒が講堂に集まる。そして校長先生の訓話と、来賓の眠気をもよおす長い話と、従軍した在郷軍人の手柄話を聴いた。
 ちなみに陸軍記念日は、奉天大会戦に勝利し入城した三月十日で、その日も同様に講堂へ集合しました。

 掛け図をめくった伊井君は、級長でした。アリマセンと言った戸田君は、たぶん掛け図にいちばん近い席にいて、手伝っていたのだな。
 伊井義一郎君は、細身の少年で、六年間を通じて成績一番の優等生でした。級長と副級長は学期ごとに選挙するのだが、一学期の級長は彼が選ばれるときまっていた。麹町の米屋の長男なのに力仕事の家業は継がずに、医師となり、国会の参議院を多年担当していました。参議院議員のみなさまは、体調不良の折々に伊井君のお世話になったはずです。いまは引退して、健在でおります。

 バルチック艦隊の一件を語った海老塚君は、母一人子一人の育ちながら、明朗で、長身の美少年でした。東郷元帥や、乃木大将や、広瀬中佐や、日露戦争にまつわる逸話ぐらいは、小学二年生でもおおかた心得ていた証拠の一例です。
 それにしても進んで一席、よどみなく喋ったらしいのは、はしこい街場の子にしてもとりわけませていた一例か。海老塚君は後年、姓を改めて一流会社の社長になりました。

 亀岡君は、有名な医院の子で、父君は、たしか校医もしておられた。銀座で指折りの名家のひとつでした。ただし、不運にもこの十年後に、彼は亡くなる。
 昭和二十年一月二十七日午後一時過ぎに、米軍のB29爆撃機の編隊が襲来。以後つづけざまになる東京の市街区空襲の皮切りでした。第一陣は本郷、上野、浅草方面を爆弾・焼夷弾混用で襲撃。第二陣が新橋、銀座、京橋の線に爆弾投下。たちまち諸処に黒煙があがった。泰明小学校には二百五十キロ爆弾が三発落下、うち一発は不発、二発が屋上から一階までを貫いて爆破、職員室の女ばかりの先生四人が殉職、二人が重傷を負った。
 正確にはそのときは泰明国民学校であった。昭和十六年四月から、全国の小学校が国民学校と改められた。さらに昭和十九年の夏より学童疎開がはじまり、都会の子は三年生から六年生まで各地方へ移された。泰明の子たちは埼玉県深谷のお寺に分宿し、男の先生たちはそちらへ付き添っていたのでしょう。残留の一、二年生たちも、この日は土曜日の半ドンで帰宅していた。
 こうして銀座の諸処を吹っ飛ばした爆弾の一つが、亀岡家を直撃した。五体飛散した亀岡君の頭部が、かなり離れた家の物干し台に落下していたという。当時は被害状況の告知などありはしなくて、口から口へ、同窓生に語りつがれてきた秘話にして悲話です。

 海老塚君が「イマカラ三十年前ニ」と語った通りに、この年、昭和十年(1935)は日露戦争から三十周年の節目であった。記念の催事がおそらく諸処でひらかれ、五月二十七日の講堂の行事も、例年よりも念入りだったことでしょう。この講堂には、中央に天皇・皇后のご真影、袖に東郷平八郎揮毫の「忠孝」の大きな縦額が、かかげられていました。

 そこで「海軍記念日」が、綴り方の課題にもなったのではないか。六月に入ったある日の教室で、これは書かされたのだ。ところが、この二年生は、当日よりもその前の、教室での予習のほうをテーマにした。なぜか。
 察するに、このボクは、先生の問いかけに手をあげる気はまるでなかった。それだけに、海老塚君や、亀岡君や、伊井君たちが、雄弁に、または訥弁に、あれこれ語り聞かせてくれたことに、かなりたまげたとみえます。つまりこのときから、彼にとっての「海軍キネン日」ははじまった。そこでその前段から、くどくど書きださねばならないではないか。

 おもえばわれらは、勝った勝ったの日露戦争の、三十年遅れの戦後派で育ったのか。

 前回は一年生の絵を二枚ならべたが、今回は、二年生のときの絵が二枚です。
 まずは教室の景。
 この日、図画の時間は、教室正面の写生が課題だった。ははぁ、当時の教室はこんな姿だったのか。教卓が黒板の前から、本棚の前へ移してあるのは、どこからも黒板がそっくり見えるように、ということか。その黒板の右下には白墨入れの抽出し、上に張った黒い線は教材などを吊す金具だ。まんなかの柱や、左右の本箱の角度からみて、二年一組小沢信男の席は、やや左寄りだったとわかります。いかにも忠実な写生だぞ、これは。
 右の壁の地図は、日本列島も、樺太の半分も、朝鮮半島も、台湾も赤色で、ダイダイ色は満州国。往年の大日本帝国の姿を、日々に眺めていたのだな。
 その手前の、置時計のごときものは、数字の配置がばらばらで、たぶん温度計か湿度計だ。
 その下に、掛け図が吊されている。しかしこれが修身用か? 図柄はどうやら、どこかの殿様が、太刀持ちの小姓を従え、屏風を指さして家来になにやら告げている。まぬけな時代劇みたいなこんな図柄が、いったいなんの教材だったのやら。ふしぎとしか、いまは言いようがありません。
 いよいよふしぎなのは、左壁の二枚の額です。図柄はご真影のようながら、天皇皇后のご真影は講堂に秘蔵され、紀元節、天長節、明治節などの祝日にしかひらかれない。
 よくみると右の額は髯面で、さては明治天皇だろうか。左額の、勲章の帯を斜めに掛けた正装の方は、してみると昭憲皇太后だ。
 だが、しかし。こんなご真影に準ずるものを、ひごろ教室に掛けっぱなしだったのか。記憶のかけらもないけれど。このさいあえて推測するならば、この日は、十一月三日の明治節の前後ではなかったろうか。
 先生は、明治節を予習するべく、この二枚を持参して黒板の横にかかげた。本箱の上の鉢植えは、そのお供えにみえます。
 そうか。だからこそ図画の時間に、ふだん見なれた教室正面を、ことさら記念に写生させた。のではあるまいか。
 そう思えば、そうにちがいない気がしてきました。海軍記念日といい、祝祭日の予習にマメな先生だったのだ。
 つぎに国旗掲揚の図。
 こちらは写生ではありません。じつは宿題で、わが家で描いた。泰明小学校は三階建てで、三階の窓は上が円くなっていた。屋上にポールが立ち、祝祭日には国旗をかかげた。その様子を描いたのではあるけれど。
 屋上には、金網が高くはりめぐらされていました。小学校の屋上がこんな無防備であるはずがなくて、現在も金網はそのままにあります。ポールはない。
 はてな。当時もポールが、はたしてあったのか。ないポールを立てるぐらいは、このガキは無造作にやる癖があって油断がならず、それには金網は邪魔にちがいない。つまり描きたいのは国旗の掲揚なのですね。
 かんじんなその日の丸の旗の、まんなかの赤丸が、ややずり下がって見えませんか。見えるよね。この絵が仕上がったときに、じつに心外でした。
 いままさに揚げつつあるところを、この二年生は描きたかった。だから紐も人もちゃんと描いて、旗はまだ上に届いていなかった。
 その画を父が脇から覗いて、いきなり注文をつけたのでした。これはいけないよ、半旗といって弔いごととか不吉な印だ、上までちゃんと揚げなさい。
 だから揚げてる途中なんだよ、と言い張って、知らん顔でいると、じれったくなった父は、どれどれとクレヨン箱をひきよせた。勝手に旗の上部を白く伸ばして描き、ほら、これでいいんだよ。
 この旗の部分だけは、ですから父との合作であります。そのときの悔しさを、この絵をみるたびに思い出す。子の心を親知らず。おかげで八十年を経ても忘れないのですね。私の絵にじかに干渉したのはこのときかぎりでした。
 いまとなれば懐かしい。父は、つまり、私の絵に関心があったのだ。トラヤの絵などは、自分に描くヒマはないから面白かったのかもしれないし。それでマメに綴じ込んでくれたのだろうか。
 ほかの兄弟も、通信簿などはすべて保存されています。習字や満点の試験紙や、それぞれに遺されたはずながら。彼らはどこかで散逸したとみえて、私だけが絵と綴方の一部を現に保存しています。
──作者敬白

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