6,カラス森ジンジヤ
 ボクガ、ウチノ、中デ、アソンデヰルト、ボクノ、ニイサンノ、オトモダチガ、ノブオチャンカラス森ヘ、イカウ、ト、イヒマシタ、ボクガ、ニイサンノ、所ヘ、イッテ、ニイサンカラス森ヘイカウヨ、ト、イヒマシタ、ソウシテ、ボクト、オトモダチト、ニイサント、三人デ、カラス森ジンジヤヘ、イキマシタ、ソウシテ、一バン、サキニ、パイプ、ヲ、カイマシタ、ソウシテ、キンギヨツリヲ、三ドモ、ヤッタリ、イロンナモノヲ、カッテ、オモシロク、アソビマシタ、ソウシテ、ウチヘ、カヘッテ、キマシタ、ケフモ、カラス森ジンジヤヘ、イキタクナッテキタ。
 泰明小学校二年一組小沢信男の、綴り方第五作の全文です。
 まず仮名づかいについて。イカウは行こう、ケフは今日です。ソウシテは、歴史的仮名づかいではサウシテが正しい。
 このとき「ボク」は二階にいた。二階の部屋で遊んでいる子に、他所の子がどうして声をかけられるのか。じつは隣家の松竹理髪店の二階が、大家の飯田さんの住まいで、その窓と、わが家の八畳間の窓の間は、物干し台へゆく半間幅ほどの板張りの通路があるだけでした。
 おりから初夏。たがいに開けはなてば筒抜けの窓越しに、タケチャンが呼びかけてきた。飯田武夫、やはり泰明小学校の、兄と同級の五年生です。なかば身内みたいな仲好しで、三人そろって烏森神社の縁日へでかけたのでした。

 烏森神社は、現にJR新橋駅の西側の、ひしめく飲み屋街のただなかに鎮座します。表通りをせわしく往き来きしていては、まず気づかないが。
 駅の南口をでて、烏森通りを西へ。ニュー新橋ビルのさきの路地口に、(のぼり)が立つのが目印で、ほそながいその路地が表参道。突きあたりの、三段と十五段の階段の上に、本殿がけっこう広く美々しく飾りたてられている。総体がコンクリート造りで、お守り袋やみくじ売場も、社務所もある。右も左も飲み屋だらけの路地奥に、どっしりとなにやら超現実的な風格です。

 銀座八丁の路地の諸処にも、小さな稲荷の(ほこら)が、たとえば資生堂ザ・ギンザ裏の豊受稲荷神社とか、意外にひそんでいるのだが。この社は格段にちがう。由緒は古く、なにせこの界隈十五町の氏神さまです。例年五月五日をはさんで大祭がある。
 私の出生地は、戸籍によれば東京市芝区南佐久間町二丁目十七番地で、上記の十五町に含まれる。つまり赤ん坊のころは、この神社の氏子なのでした。西銀座でものごころついたときには、もう日枝神社の氏子でしたが。

 当時も今も、場所はおなじだが。あのころは本殿が、すなおに地べたに建っていて、表の烏森通りから見通しでした。
 敗戦後の焼け跡闇市時代には、この境内にさえバラック長屋風の飲み屋が両側にひしめきならんだ。酔客往来の路地が、そのまま参道だという、それなりに風情のある姿がながらくつづいたが。先年来ぼちぼち廃業して取り壊し、火災で二軒消えたりして、いまは数軒が残るのみ。竹垣にかこわれた猫の(ひたい)的な境内が、いくらか復活しています。

 烏森さんといえば、当時は一の日と五の日に縁日が立った。烏森通りの車道の両側に、ずらりと屋台が、鍋、釜、茶碗、シャツ、猿股、(ほうき)、踏み台、額縁、ステッキ、玩具、古本、綿飴、焼そば、金魚すくい、等々々。日常雑貨から、買い食い、賭け将棋の類まで、ごちゃまぜにならんだ。
 (あか)りは、どこからかコードをひいて電灯煌々(こうこう)の店と、突っ立てたほそい筒の先から青白い焔を吹くアセチレンガスの灯りの店とあり、これは臭くて、チカチカ(まぶ)しかった。
 おかげで烏森通りの全体が、宵闇をはねかえす明るさで、見飽きない。ただし赤煉瓦通りのあたりは、植木屋さんばかりで薄暗かった。

 烏森通りは、さまざまなお店がならぶ商店街です。その鼻先に、いわば出張スーパーがならび立って、格安でお客を吸い寄せる。一日(ついたち)五日(いつか)、十一日、十五日、二十一日、二十五日と、月に六日(むいか)も。しかし賑わってなにがわるいか。棲み分けて平和共存していたのでしょう。

 綴り方にもどります。
 これは並みの縁日ではないね。五月四日(よっか)の宵宮から六日までの大祭のうちの一日で、しかも学校が半ドンの土曜日か、日曜日だったのだ。
 明るいうちだから、子どもらだけでゆくのを親も許す。年に一度の大祭だもの、隣の子とも三人連れだし、父はそれなりの小遣いをはずんで兄に渡したとみえます。豪遊だぞ、これは。

 まずは薄荷(はっか)パイプを買った。セルロイド製の小さなパイプの筒に薄荷の粉が詰めてあり、吸うと、口から鼻までスースーして気持ちがいい。リリヤン風な紐がついていて、首から下げられた。
 大人たちがぷかぷか煙草を吸っている。その真似なので、パイプの持ちかた、くわえかたまで、そのつもり。大人ぶるたのしみに、この二年生は、まず飛びついたのだ。ひとしきり吸って、薄荷が切れればそれまでよ。そのくせ縁日がくれば、またこれを欲しがったのでした。

 つぎは金魚すくいの店にむかった。四角い白い水槽に、赤い金魚がひらひら泳いでいるのを、針金の輪に紙を貼った小さなラケットで、もう片方の手のボール鉢にすくいとる。水に濡れれば、じきに破れる道理だが、半分でも紙があるかぎりは挑戦できる。輪っかだけになってもねばるのは反則です。

 金魚すくいには、じつはかなり私は自信がある。二十代になっても、縁日に出会うとむらむらやる気になり、たしか新宿花園神社の祭りで、十一匹すくった。これが最高記録で、それきりやめて、自信だけを保っています。
 縁日のたびに親にせがんだのだけれど、兄も妹も、みんなでやるのだから、せいぜい一回しかやらせてもらえない。その欲求不満が青年期にまで尾を引いていた気でいたが。この日は、なんと三回もやっているぞ。
 ケチな親がいないだけにのびのびと堪能した。折々に、こんなチャンスもあったのだ。それなりに元手のかかった自信かなと、いまさらに気づく。

 ほかになにを買ったか。山吹鉄砲だな。竹の筒の先と元に、山吹の白い芯を小さくちぎって、ちょっと舐めて詰める。そして芯棒で押せば、ポンと音がして山吹の(たま)が飛びだす。あれこれ狙い撃って、飽きないのです。
 それから塗り絵だな。紙に線描のミッキーマウスや、ベティちゃんや、軍艦や、飛行機や、二見ヶ浦なんかもあったかな。何枚か袋に入っているのを買って、クレヨンで塗りこんでゆく。これも飽きない。

 それから綿飴か、キャンディか、買い食いをしたにきまっている。
 古本屋も、五年生の兄たちは冷やかしただろう。つきあって二年生もしゃがみこみ、絵本でもひらいたか。四、五年生ともなれば、文庫サイズの猿飛佐助や、柳生十兵衛や、講談本を吟味した。中身と表紙が無関係の、とりあえず表紙をつけたやつもあるのでした。

 あれやこれやをおもえば、あぁ、なんだかまた、カラス森ジンジャヘ、イキタクナッテキタ。
 結びに、縁日関連の拙句を二三添えます。句集『んの字』より。
  目を刺す灯くさき灯されど夜店の灯

  薄荷パイプむぞうさに買う素足の()

  口説き下手たくみに金魚すくいけり
金魚屋の店先
 泰明小学校一年一組オザワノブオの絵を、二枚ならべます。
 金魚屋の店先の図だな、これは。頭上の竿に金魚鉢がいくつもぶらさがり、棚にも鉢をならべている。金魚すくい屋は、おおむね水槽ひとつですから、縁日の景ではない。
 人々が表通りを通行していて、するとこれは店内からみた構図だ。
 三つの茶色い水槽は、タガをはめた桶にもみえるが、じつは四角い水槽でしょう。その上に立つ緑の縁取りの長四角が、この水槽を上からみた図にちがいない。左のには黒い出目金が泳ぎ、赤い珊瑚風の飾りでもあったのか。真ん中のには、赤い金魚がひらひらしていて。
 この一年生は、デフォルメが平気な奴だもの。せっかくのその眺めを、描かないでおられようか。たぶん、そんなことです。
 右側の水槽に、その図がないのは、棚や通行人を描いちゃったからね。店の人が柄杓で作業中にもみえるが、浴衣姿とは? さては通行人が、ステッキを突っこんでいたずらしているところか!
 ときは初夏、ある日の町場の光景でした。
夏祭りの家並み
 夏祭りの家並みです。真っ昼間の日盛りです。軒ごとに提灯を、まぁ気前よく吊したものだ。
 赤提灯だらけだが、飲み屋街とはかぎらない。戸障子たてたふつうの屋並のつもりでしょう。まんなかの黒い屋根の家がお神酒所ですね。
 町内で、神酒所をひきうける家はほぼ決まっていて、祭となれば戸障子はずし、がらんどうにして、寄り合い所になり、町御輿の置き場にもなる。現に、御輿が据えてあります。
 据える台は二つあるのに、左の台はからっぽだ。よくみると隣の家の前に、まさにいま御輿をかつぎだしている。けっこう大きく描いているが、これは子供御輿だね。神酒所に町御輿が二台もあるわけがない。担ぎ手が前と後ろの二人きりだが、軽い子供御輿なら、とりあえず二人でも持ちだせた。
 なおよくみると、後ろの人はスカート姿ではないか。これはおどろきだ。
 御輿は男どもが担ぐにきまっていた。女人禁制。神道は、いうなら男社会のものだ。女御輿が現れたのは戦後です。当然のなりゆきです。戦時中の男不足の時代と、敗戦後の大窮乏時代の暮らしむきを支えたのは、全国の女たちの力だもの。たくましい女性たちがかつぐ町御輿が浅草にあらわれたのは、いつごろだったろう。さらに近年は、男女混合でかつぐのが普通のことになっています。御輿のかつぎかたひとつにも、戦後七十年の民主主義、男女同権の歩みがあるのだぞ。
 絵にもどります。あのころも、子供御輿や山車(だし)などには、男の子も女の子もごちゃまぜにむらがっていたのかな。そうかもしれない。
 第一、五年や六年生の上級になると、子供御輿なんかに目もくれず、大人の御輿に交ざりたかった。気のいいおじさんたちが、腕白どもにもしばらくかつがせてくれたりしました。
 子供御輿にも、気のいいおじさんが付き添った。あるいはおばさんも付き添って、幼い子らがむらがってかつぎだした。そのさまを、この一年生は、省略的デフォルメで描いたのか?
 この絵の右上には、三重丸と、「一學期」と鉛筆書きがある。鋲の跡もあり、貼り出されたのでしょう。三重丸は先生だが、旧字体の一學期は父が書き込んだのだろうか。入学まもない初夏とすると、私は六月五日生まれにつき満七歳になったばかり。
 よほど祭が好きだったのか、このガキは。
──作者敬白