5,トホクワイ
 ベントウガ、スンデカラ、センセイガ、コレカラ、日枝神社ヘ、トホクワイ、ニ、イキマス、ト、イヒマシタ、ミンナガ、ボウシ、ヲ、トリニ、イッタ、ソシテ、ウンドウバノ、松ノ木、ノ、所、ニ、ミンナアツマッタ、ソシテ、校長センセイニ、レイ、ヲ、シテ、デカケタ、山下橋ヲ、ワタッテ、王クン、ノ、ウチ、ノ、前ヲ、トホッテ、コンドハ、中澤君、ノ、ウチノ、前ヲ、トホッテ、ヒビヤコウヱンヲ、トホリヌケテ、デンシャミチ、ヲ、トホッテ、マタ、マッスグ、イクト、センセイガ、ココデ、ヒトヤスミ、シマス、ト、オッシャッタノデ、ソコデ、ヒトヤスミ、シマシタ
 泰明小学校二年一組小沢信男の、綴り方第四作の前半です。この調子で改行もなしにつづくので、とりあえず小休止のところで区切って申しあげます。
 タイトルは、徒歩会。歴史的かなづかいはむずかしい。先生に教わったままにト・ホ・ク・ワ・イと、この二年生は書いたのでしょう。  徒歩会は、折々にありました。町場の子は運動量がすくないので、体位向上のために。二年生になって、これが第一回目。昼食後に、廊下の帽子掛けから帽子をとって、ランドセルは置いたまま出かけるのが、めずらしかったのだ。
 校庭は全面コンクリート打ちながら、校舎の裾に一部、細長い植込みがあり、根づいた蔦が、三階建ての壁にどんどん枝を這わせていた。その植込みに、小松でもあったのか。校庭のその片隅に、二年一組、二組、三組の総勢百二十名ほどが集合した。

 いざ出発。上履きと履きかえる靴箱がならぶ玄関口から、みゆき通りへ出て、右へ。すぐの外堀に架かるのが山下橋。
 この外堀も橋も、江戸切絵図に描かれています。江戸が亡んだ慶応四年(1868)から六十七年目。あたりは激変しつつも、旧跡もそれなりに現役なのでした。この堀が埋め立てられたのは、さきにも申しあげたが昭和三十九年(1964)の東京オリンピックの時です。

 その山下橋をわたり、鉄道の煉瓦造りのガードをくぐれば、麹町区。ゆくての左に帝国ホテル、右に東京宝塚劇場と、有名な建物があるのに、この二年生はてまえの小さな店々に注目する。まず王クンの家。中華料理屋で、当時はシナ料理屋といった。
 王クンは活発な少年で、クラスで人気者のほうでした。ときにニンニクの臭いがして、たじたじだったが。いつとなく居なくなった。昭和十二年七月にシナ事変がはじまったとき、われらは四年生でした。そのころに王クン一家は当地を立ち去ったのでしょう。

 そのならびの店々は、浮世絵や骨董を商っていて、間口は狭いながら、帝国ホテルの外人客や、宝塚少女歌劇団の袴姿のスターたちが冷やかしていた。その一軒が中沢版画店。中沢クンはそこの御曹司でした。
 泰明小学校は京橋区で、ここらは麹町区だから学区がちがったはずだけれど、せっかく目の前に学校があるのだもの。便法をもちいて越境の子たちが、けっこういました。

 中沢クンは小太りの、やはり活発な少年でした。戦後に長じて当主となるや、いよいよ快活な事業家となった。同窓会は中年以降に、にわかに復活するもので、一組の男組、二組の男女組、三組の女組が合同の集いとなる。そうでなくてはつまらない。
 この中沢クンや、鼈甲屋の米本クンが世話役で、ひところは例年ひらいた。聞けばそのころは、お宝拝見の鑑定士のような役目で折々ロンドンなどに往き来する、ということでした。

 その同窓会も、絶えて久しい。呼びかける世話人たちがいなくなり、もはやわれらは絶滅危惧種か。中沢家のあたりも様変わって、間口を拡げたビルがならぶのみです。
 いや、そこに現に、間口の狭い店が一軒、ビルの一偶ながらもある。浮世絵屋の酒井好古堂。明治八年(1870)の創業で、さかのぼれば和紙屋として安藤広重ともゆかりがあったという。間口にくらべて、おそろしく奥行きが深いお店だ。こういう老舗が、激変のなかにけっこう生き伸びているのが、古い町場の貫禄でしょう。徒歩会のときにも、中沢クンの家の隣に、酒井好古堂はあったのだ。

 一同は日比谷公園へ入る。カーヴする園路を通りぬけた先は、霞ヶ関の官庁街です。
 ここらで電車が通る道は、桜田門から虎ノ門へぬける桜田通りだ。そこを横断して、さらに直進したところで小休止となった。そして、それから、この幼い二年生は、辻褄の合わぬことを記しております。
 「マタ、スコシ、スルト、シュッパツ、ノ、フエガ、ナリマシタノデ、ミンナガ、タチマシタ、マタスコシイクト、コンドハ、ドウゾウガ、アリ、マシタ、センセイガ、コノ、ドウゾウワ、カイグン、チユウヂャウ、ニレイ、カゲノリ、ト、ユウ、オカタデスト、オシエテ、クダサイマシタ、ソノ、ドウゾウ、ヲ、トホリヌケテ、マタ、マッスグ、イクト、サカミチガ、アリマシタ、ソノサカヲ、オリテ、イクト、ホソイ、ミチガ、アリマシタ、ソコヲ、マッスグ、イクト、日枝神社ヘ、ツキマシタ。」
 この銅像は仁禮景範(にれいかげのり)。薩摩藩出身の海軍中将で、横須賀鎮守府長官、海軍大臣などを歴任した。歿後九年目の明治四十二年(1909)に銅像落成、海軍省の角地に建てられた。白い台座の上に、勲章ごてごての第一級礼装で、軍刀を杖のように前に立て、皇居のほうを向いていた。原形は若き朝倉文夫の出世作の由です。
 こんなことは、こんにちただいまグーグルで調べているので、証拠の写真も容易に見られる。実物はさきの戦中の金属供出で消えてしまっていますが。

 当時、海軍省は、桜田通りに面して、外務省と向きあって建っていた。いまの農林水産省が入っている合同庁舎一号館のところです。
 つまり、電車道へ出たとたんに銅像が立っていたのだ。それを休憩のあとで出会ったと、この二年生は大きな思い違いをしている。なぜなんだ。当時の地図を参照しつつ、恐縮ながらこのさい、こんにちの私が成り代わって訂正を試みます。

 徒歩会の一行は,桜田通りの電車道にさしかかるや停止して、そこらの歩道をいっぱいに埋めて銅像をみあげた。先生の説明を聞いて、銅像の人の姓名もしっかりおぼえた。
 それから電車道を横切って、外務省の横の、なだらかな坂をまっすぐゆく。外務省の裏手に霞ヶ関離宮と、当時の地図にはある。現在の地図で申せば、都心環状線と、国会前庭のあたりです。ここら一帯は、戦後に全面的に道路を拡げ、新たに開通もした。離宮とあらば人の気はなさそうで、百余人のガキどもが道端で休憩したのはここらにちがいない。

 やがて出発の笛が鳴る。一同が腰をあげて、マタスコシイクト、コンドハ、たしかになにかがあって、先生がまた説明をしてくださったのだ。それはなにか。国会議事堂だね。坂をのぼりきれば、いやでも突きあたるのですから。
 国会議事堂の竣工は、昭和十一年十一月で、慶祝の花電車がでた。それは内装のすべてをふくめてのことで、本体はとっくにできていた。周囲はまだ工事中ながら、すでに東京新名所だ。引率の先生は、ここでまた野外教育をなさった。

 ところが、この幼い二年生は、どうやら上の空でいた。もうくたびれたのか、その証拠に、その後の記述がやたら簡単だ。
 あるいは新議事堂を、父の車に同乗してとっくに眺めていて、興味が薄かったのかな。この日、彼は帝国ホテルや宝塚劇場や、大きな建物には関心が向かなかった。なによりも銅像が、銅像のくせにいっぱい勲章をぶらさげて印象強烈。そこで、先生がながなが語っておられた丘の上にこそ、仁禮中将がそびえていた、と思いこんだ。おそらくそんなことではなかろうか。

 ここからの道筋は、現在ならば議事堂の南通用門の角をまがって、第一議員会館と第二議員会館のあいだの、山王坂の急坂をくだれば、まっすぐ日枝神社につきあたります。
 当時は、この丘の上はまだ工事中で、坂下の永田町は、しずかな住宅街でした。下町にいちばん近い山の手風の屋敷町です。
 一例をあげれば、日本橋育ちの植草甚一はここに居を構え、新宿文化劇場の主任をしていた。昭和二十年五月二十五日の東京最後の大空襲の夜に、宿直の植草主任は消火に奮闘、運よく映画館街と伊勢丹は焼け残ったが、その間に永田町は、議事堂と日枝神社を残してほぼ焼失。植草家も万巻の洋書とともに烏有に帰した。
 徒歩会は、その十年前のことです。そこらの急坂をくだり、住宅街のなかの細道を抜けて、日枝神社の石の大鳥居の前に辿りついたのでしょう。まずはめでたし。

 はて、しかし。帰り道はどうしたのだろうね。もはや歩いて帰る体力も気力もなさそうだが、下校時間までにはランドセルのところへもどらねば。
 おそらく市電に乗ったのか。それとも貸し切りの市バスでも用意していたのかな。思いちがいと記述不足の、歯がゆいつづりかたですが。担任の先生は、三重丸をつけてくださっている。高橋先生といって、とりわけ低学年の子らに優しいという評判の訓導でした。

第5回
 これは東京宝塚劇場の正面最上階あたりの図です。
 三年生のときの作品で、裏に三重丸と、「張出し」と鉛筆で書いてある。図画の時間のたびに、先生が選んだ何枚かが教室のうしろの壁に張りだされた。その一枚だったとみえます。
 東京宝塚劇場は、昭和九年(1934)一月一日に落成開業し、たちまち新名所となった。先年高層化へ建て替えられたが場所はおなじ。白壁に小窓がずらりと並び、角地なのに上層部は丸壁で、華やかな客船のような気分の建物でした。
 白いビルながら、白い画用紙に白いクレヨンでは塗り甲斐がないか、例のデフォルメの彩色でしょう。劇場名もはたして赤色だったのか。
 但し、屋上の丸壁に添って並べられ、最初の「東」の字は、帝国ホテルの側に向き、「京」が丸壁のところにあった。この絵はその「京」を正面口の壁へ寄せてある。つまり絵の左端がその丸壁なので、屋上の手摺のカーブにご留意ください。
 この絵を描いた十年後には、日本は敗戦。焼け残ったこの建物はたちまち接収され、アメリカ駐留軍専用のアーニーパイル劇場となった。そして「ARNIE PYLE」と、丸壁に添ってデカデカと表示され、ARまでは帝国ホテルのほうに向いていたのでした。

 それにしても、この三年生は、新名所ビルの全景ではなくて、なんで屋上部分を描いたものだろう。
 あるいは東京宝塚劇場の記念エハガキのなかに、こんな構図の一枚もあって、それを模写したのだろうか。三年生のこの時期、由比ヶ浜とか江ノ島とか、エハガキを模した絵が何枚かありますので。
 当時は、銀座通りの八階建てのデパートが、界隈で最高の建物でした。松坂屋の屋上からは東京湾がみえて汐の匂いがした。東京中が、じつに平べったい都会であった。その諸処に建つビルディングは、屋上こそが不思議ランドのお値打ちではないか。
 この絵を描いた少年は、よほど屋上に惹かれていたのだな。長じてからも、とかく高いところへのぼるのが好きな奴でした。
──作者敬白