コノアヒダ、ウチノ人ト、花デンシャヲ、見ニイキマシタガ、人ガ大ゼイ、ヰルノデ、一バン、前ヘ、イッテ、見テ、ヰルウチニ、オ父サンガ、ウシロノ方ガ、ヨクミヘルト、イヒマシタ、ノデ、ボクハ、ウシロヘ、イキマシタラ、見ヘナイノデ、オ父サンニ、ボク見ヘナイ、ト、イヒマシタラ、オ父サンガ、ソンナラオブッテ、ヤラウ、ト、オッシヤッテ、ボクヲ、オブッテ、見セテクレマシタノデ、ヨク、見ヘマシタ、花デンシャヲ、カゾヱテ見タラ、十ダイ、アリマシタ、ソノウチ、一バン、キレイナノハ、一バン、ウシロノデシタ、クジャクガ、ハネヲ、ヒロゲテヰル、トコロデシタ、カヘリニ、花デンシャノ、ヱハガキヤ、マンシュウ國ノ、クワウテイヘイクワ、ノ、ヱハガキヲ、カッテ、カヘッテ、キマシタ、
泰明小学校二年一組小沢信男の、綴り方第三作です。まず表記について申しあげます。ヰル、見ヘタ、カゾヱテのヰ、ヘ、ヱには脇に赤鉛筆で×がついている。先生にチェックされ書き直しているので、もとはイル、見エタ、カゾエテと書いたのだな。しかし直すならカゾヘテなのに、またまちがえている。
先生のチェックにも見落としはあって、クワウテイヘイクワは正しくはヘイカだろう。しかし皇帝がクワウテイとくれば、陛下だってヘイクワとなりそうな気はしますなぁ。
以下、見落としも、直しまちがえも、そのままに写しとります。歴史的仮名づかいを往年の児童が習いおぼえる試行錯誤の一例として。ただし、十六本の綴り方の最後まで、ヰルのヰには赤×がついている。この二年生は何度直されようが「居る」は「イル」と書いて、×をもらいつづけたらしいのでした。
花電車は、いまもないではないようだ。市街電車が東京中からほぼ消えてしまって、唯一のこる都電荒川線に、先年、なんの祝いか花電車が通るのを、大塚あたりでたまたま見た。ふだんの車両を改良した飾りつけでした。往年は、あんなものではなかった。
なにしろ路線は四通八達、乗り換えが効いて、片道七銭。早朝割引は往復九銭。レールの総延長がざっと二百キロメートル。市民の足の花形の時代ですよ。世に慶祝のことがあるならば、それ専用の平らな台車に盛りあげて飾り、ポールを立て、運転席はむきだしで、五台も十台も連なって都大路をゆらゆら練ってゆく。沿道は見物の人垣で埋まった。
記録によれば明治大正期から、例年のように繰りだしたらしい。昭和十年前後の運行記録は、次の通りです。
1,皇太子殿下御誕生奉祝花電車 15輌 昭和 8年12月28〜30日
2,満州国皇帝陛下御来朝記念花電車 10輌 昭和10年4月6〜8日
3,観光祭記念花電車 5輌 昭和11年4月18〜24日
4,東京市電気局二十五周年記念花電車 7輌 昭和11年10月1〜3日
5,新議事堂竣工祝賀花電車 5輌 昭和11年11月7〜9日
6,紀元二千六百年奉祝記念花電車 5輌 昭和15年10〜11,13〜15日
昭和十一年には三回も出て、例外的に多かった。東京市電気局は、そもそも民営の三社で路線を伸ばし、電鉄、街鉄、外堀線と呼ばれてきた市街電車を、明治四十四年(1911)に市が買収して元締めの電気局を設立した。以来「市電」が通称となる。二十周年にも五輌をだし、このたびは七輌。手前味噌みたいな花電車です。
この翌年からシナ事変(日中戦争)に突入して、以後は自粛したのだな。紀元二千六百年の大祝祭にも、わずか五輌だ。これを最後に花電車は中止となった。
以上の六回のうち二番目の「カゾヱテ見タラ、十ダイ」だった花電車の、見物記録です。
昭和十年(1935)四月六日、満州国皇帝は横浜港に上陸し、特別列車で東京駅に到着、プラットホームで昭和天皇の出迎えをうけた。そして駅舎中央の貴賓専用口から、たぶんオープンカーで赤坂離宮にむかったのだろう。それを駅前で歓迎の人垣のなかに、父とともにいたのでした。
東京駅を、たしかこのときにはじめて見あげた。赤煉瓦駅舎のみごとさと、屋上の玉葱型の尖塔がお伽噺の兜のようで、こども心に感じ入った。中央郵便局前あたりから眺めた記憶だけがあって、前後は空白なのですが。おなじ日に、花電車も見たにちがいないではないか。とすれば、場所は堀端の電車道だ。
「コノアヒダ」とは、四月六日だ。してみるとこれを書いたのも四月中ではなかろうか。しかし、学期はじめの月に綴り方を、「シケンヤスミ」から三本もつづけて書かされたものだろうか。二作目の「ツマラナイ」と順序が逆かもしれません。
多忙な父は、二、三本まとめて綴じることもあったのだろう。そのさいの多少の順不同は、いまさら調整しかねるので、これもこのまんまで参ります。
父は多忙ながらも物見高い人で、処々方々へ家族連れでよくでかけた。深川の清澄庭園や、小石川後楽園の庭園や、両国国技館の菊人形展へ、営業用の車に家族を乗せてゆく。このとき年中無休の家業は、番頭格の山口さんという古参の運転手に任せてゆく。
旧芝離宮庭園の、青い芝生に小学生の兄と寝ころんで、わくわくするほど楽しかった。学齢前のこんな一齣の情景が、いまもほのかに浮かぶ。芝生の私らや、池畔にたたずむ日傘の母を、父はカメラで撮った。あれは日曜日で、父はモダン紳士を気取ったのだな。日曜は家業も多少ヒマだったとみえます。
旧芝離宮庭園の開園は大正十三年(1924)四月で、震災復興事業の一つでした。清澄庭園は昭和七年(1932)四月に、後楽園庭園は昭和十三年(1938)四月に開園した。皇室や財閥や官営工場の専有だったのが、つぎつぎに一般市民に開放されてゆく。震災後の昭和は、そういう時節でもあったのでした。
父はそのたびにさっそく出かけた。家族サービスを兼ねながら、新名所への道筋をたしかめる、営業の必要もあったのでしょう。
後年、私自身が東京の諸処を歩きまわる身になって、再々おどろきました。あぁ、ここもオヤジと来ているぞ。愛宕山。早稲田の穴八幡。深川不動尊。……
さてそこで、綴り方にもどります。
「ウチノ人ト」見にいったので、やはり家族総出だったのか。運転手つきの車できて、車はすぐ返す。もどりは市電か省線電車か。そんな場合もままありました。
まずは、花電車を待ちかまえて、堀端の人垣に入りこむ。子どもらは最前列へ出る権利があるから、父は、兄を中心にならばせて、自分は遠慮して後列へさがったのだ。
そのときに私は、父にしがみついて一緒にうしろへ行ったのだな。案の定なにもみえない。駄々をこねて父に背負ってもらうことに成功した。兄妹は最前列に控えているのに。
賢兄愚弟の図。それがうれしくて、うしろめたい。というのが、この一文の主題らしくて、くどくどと歯切れがわるいのもそのせいだ。常習犯的お父さん子の弁解でした。
花電車が通過して、群衆は、駅前の沿道へ移動する。皇帝ご乗車の通過をながめて解散する。エハガキは、その場で、つまり東京中央郵便局前で買ったのだな。
この局舎は、昭和四年八月の落成で、耐震構造のみごとなビルという定説でした。できて六年目ぐらいの、これも新風景だった。
先年、その大部分を超高層ビルに建て替えたが、駅前広場に面する部分はそっくり面影を残して、商業施設KITTEとなった。民営化の商売熱心ながら。往年の逓信省だって、郵便局員たちに屋台を張らせて、エハガキを売り立てる商売気はあったのでしょう。
あのころはエハガキの全盛期でもあったのか。皇帝来日の日に、その皇帝と、花電車の、色彩付きのエハガキを売り出す。すばやい視覚情報でした。わが家の小さな本棚の抽出しに、そのてのエハガキが、溢れるほどに詰まっていたのだが。あれらは、どこへ消えてしまったのだろう。

旧芝離宮庭園で兄(右)と
この写真は、おそらく昭和八年(1933)六月の撮影です。なぜならば。
左の垂れ目で味噌っ歯のガキは、服も帽子もみるからに学齢前だ。昭和二年生まれは昭和九年に就学なので、その前年となります。
してみると右の兄は、三つ年上だから小学三年生で、学帽の星印が泰明小学校の校章です。当時は六月一日からいっせいに夏服に衣替えした。帽子には白いカバーをかぶせ、それが新品みたいではありませんか。
七月、八月の夏の盛りなら、半袖シャツにもなっていただろう。上記の推定となる次第です。
このとき兄は、手帳に人のかたちを描いていた。胴体に手足をつけて、これが隣りのタケちゃんで、これがノブオで。それを笑って覗いていると、
「こっちを向いて」と声がして、六月の芝生のむこうにかがみこんだ父が、カメラを構えていたのでした。
この写真は、おそらく昭和八年(1933)六月の撮影です。なぜならば。
左の垂れ目で味噌っ歯のガキは、服も帽子もみるからに学齢前だ。昭和二年生まれは昭和九年に就学なので、その前年となります。
してみると右の兄は、三つ年上だから小学三年生で、学帽の星印が泰明小学校の校章です。当時は六月一日からいっせいに夏服に衣替えした。帽子には白いカバーをかぶせ、それが新品みたいではありませんか。
七月、八月の夏の盛りなら、半袖シャツにもなっていただろう。上記の推定となる次第です。
このとき兄は、手帳に人のかたちを描いていた。胴体に手足をつけて、これが隣りのタケちゃんで、これがノブオで。それを笑って覗いていると、
「こっちを向いて」と声がして、六月の芝生のむこうにかがみこんだ父が、カメラを構えていたのでした。