3,カツミ
 それにしても、カツミクンなんて呼んでいたかな? 近所ではみんな、ちゃん付けで名前を呼びあっていました。たいてい兄弟ぐるみで、苗字などは役に立たない。
 業種で呼ぶことはあった。床屋のカツミちゃんとか、虎屋のノブオちゃんとか。魚屋のカッコちゃんときたらおてんばで、縄飛びは巧いし、自転車の手放し乗りもやってのける。それでいて歳下の子たちに優しくて、界隈一のヒロインでした。

 学校では、クラスのみんなが、苗字をクン付けで呼びあった。住まいは銀座八丁に散らばっていて、学区外から来ている子もけっこういた。赤坂の菓子舗虎屋の子の黒川クンも、木挽町(こびきちょう)の佃煮屋貝新の子の水谷クンも、たぶん銀座通りに支店があるのを口実に。
 地元の子たちと、学校友だちと、二つの交際圏があって、低学年のころは地元が主だが、進級につれて学校友だちが大事になる。そんななりゆきでした。
 綴り方は学校で書いているので、カツミクンと、ちょっと体裁をつけたのだな。

 地元の往時の面影を、前章につづけて申しあげれば。わが家の横には、自転車が楽に通れる広い露地が、裏通りまで突きぬけていた。一見は遊び場むきのようだが、地べたが土で蝋石が使えない。おもな遊び場は裏通りでした。
 その露地をはさんだお隣が、大塚自転車店。狭い店内に売り物の自転車が、天井からも吊り下がっていた。子どもは女の子ばかりがごちゃごちゃいた。大塚さんは茨城の出身で、若い店員を郷里から呼ぶらしかった。
 わが家でも、住み込みの助手はたいてい縁故の山梨からきた。働きながら、試験を受けて、やがて免許証をとる。運転手となれば、おおかたよそで働くのでした。
 カツミの家は、たしか千葉が故郷でした。お彼岸には、自家製のお萩を、お裾分けしあう。ははぁ、ヤツの田舎じゃこんな造りか、などと父は品評していたが。近県出身の、年ごろも似た同士の、両隣のつきあいでした。

 大塚自転車店の向こう隣は、洋食屋で、年中コック姿の太った店主は、近所と折れ合いがわるかった。再々そこらで口論しているうちに、ふいに引っ越し。あとは改造して三壺堂(さんこどう)という書店になった。
 父は、毎月の「主婦の友」と「少年倶楽部」を、この店から届けさせていたのかな。事務所の棚には「キング」や「日の出」や、挿絵つきの仏教説話本などもあった。雑誌も本もおおかた総ルビだったので、私は手あたり次第に読んでいました。

 三壺堂の隣は、奥山商会という小型のビルで、女の子が一人いた。
 その隣のビルは間口が広くて、一階が「たくみ」。民芸品店でした。ここに、たくさんの菰包(こもつつ)みの荷が運びこまれたのを、たしかに見た記憶がある。大きな瀬戸物屋が新しくできたのに、父も母も関心がなくて、わが家の日用品とは物がちがうらしかった。
 記録によれば、柳宗悦たちによる創業は昭和八年とある。してみればあれは、学齢前の記憶なのだ。
 この「たくみ」は一区劃北へ移って、間口はやや狭くなったが、現にご盛業です。往時の面影が、こうしてどこかに片鱗のようには残っている。

 「たくみ」の隣は、利久庵というそば屋で、泣き虫の女の子がいた。
 その脇に、やはり幅広の露地が裏通りへ抜けていた。この露地いっぱいまでがリクルートビルになった。その先は、当時もいまも事務所ビルです。

 裏通りへゆきます。土橋の側から、ガソリンスタンドと並びの角は、ただの事務所ビル。
 その隣りは、小体(こてい)な二階家の芸者置屋で、屋号が中恵比寿(なかえびす)。テリア種の細くて白い犬がいました。
 その隣が、金融業の木田さんの家で、玄関も庇も和風ながらビル仕立て。界隈一のお金持ちという噂でした。わが家とは背中合わせで、夏に二階の裏窓をあけると、あちらの上等そうな二階座敷が丸見えに覗けました。

 広い露地をはさんだ隣は、木造二階建ての大きな旅館で、玄関脇に狸の置物があった。その先は、小料理屋が何軒かならび、夕刻ちかくに戸口に盛り塩をする。
 その先にカッコちゃんの魚屋。さらにその先の経師屋にも、かわいい女の子がいました。

 この裏通りには、物売りもいろいろきた。豆腐屋のラッパ。煮豆屋の振り鐘。羅宇屋(らうや)の汽笛。そして紙芝居屋の拍子木。
 紙芝居屋は、背広の優男ふうのおじさんだったのが、あるときから法被(はっぴ)でがに股のこわそうなおじさんになり、セリフ回しもがらりと変わった。気にくわないが毎日みているうちに慣れてしまった。自転車を立てる場所は、ときどき移動し、そのうち経師屋の向かいの料理屋の、白壁の脇が常場所になった。

 そのならびに、黒板塀の家もあった。この家にふしぎな女の子がいて、ときたま門の脇で、子どもらが遊び騒ぐのをつまらなそうにみくだしている。ある夏、鎌倉で、大きな別荘の前を通りかかると、「ノブオちゃん」と声がして、その子が庭にいるではないか。呼びこまれてしばらく立ち話をしたが、一方的なお喋りやさんで、こっちは息もつけぬほどにたまげていた。あれは小学四年生のころです。

 以上、女の子のお噂ばかりで恐縮ですが、はるか彼方からよみがえる記憶が、こうなんだから致しかたない。
 もちろん男の子たちもいたのだが、同年配はカツミだけでした。頭でっかちの、手足はかぼそい子で、たぶん私もご同様の、似たもの同士だったかな。
 遊びには私のほうが熱中した。馬跳びや押しくらまんじゅうに汗をかいていると、カツミがいない。よく雲隠れする子で、いくじなしみたいで、そうでもないのでした。

 わが家では、母から毎日一銭玉の小遣いをもらって、紙芝居に使う。水飴などを買って舐めながら、冒険物、人情物などの二本立ての続き物をみる。クイズ番組もある。あとはいつも無一文。山王さんのお祭りには五銭玉がもらえて感激でした。
 その穴あきの五銭白銅貨を、ときにカツミはポケットに忍ばせていた。それだけあればお祭りのようなものだが、いったいなにに使うのかときくと、グランドキネマへゆくのだという。五銭で二本立てが見られる、チャンバラものなんかスゴいぞぉ。
 その映画館は、銀座通りも、八丁堀も、昭和通りさえも越えた、はるかむこうにあるという。ふーん。そんな遠くへ、ひとりで行き来するなんて、冒険少年みたいではないか。

 わが家では、新橋の松竹キネマ館へ母に連れられてよく行った。当時は活動写真ともいっていた。チャップリンの「モダンタイムス」は「流線型時代」という題名で、銀座通り八丁目の銀座シネマで、兄と一緒にみた。一番前の席で見あげて、首が痛くなった。
 土橋のならびの橋を難波橋といい、並木通りへ入る袂に、全線座ができたのが昭和十三年四月のこと。西洋のお城のような尖塔のある映画館でした。そのこけら落としが「大平原」で、その次が「オーケストラの少女」だったかな。兄が芝商業学校二年生に、私が小学五年生にぶじ進級したお祝いに、渋い父から入場料をもらって観た。こういう交渉は兄のお手柄で、次男の私は観たい観たいとせがんでいればよかった。
 映画は保護者同伴で観るものだ。デパートへゆくのも、夜店をひやかすのも、たいてい誰かと一緒だ。カツミはたった一人で、しかも五銭玉は、帳場から勝手にくすねるらしかった。月末集金のわが家とちがい、日銭が入る理髪店では、度胸次第らしいのでした。

 グランドキネマ。五銭で映画が二本みられるカツミの楽園は、巷にひそむ桃源郷のイメージでした。現実にどこにあったのか、後年にたしかめ、あらためておどろいた。
 銀座八丁の東には、木挽町がやはり八丁あった。八丁堀がその境でした。現在は両町を一つにまとめて銀座八丁です。その東が築地で、境の堀割が、いまは空堀の首都高速都心環状線。たえまない車の流れです。築地一丁目の中央区役所の前は堀がT字型で、三つ叉の三吉(みよし)橋が架かる。この西の端詰の木挽町一丁目に、それはあった。
 銀座の西の端から木挽町の東の端まで、大人の足でもかなりの道程ですよ。この巷のジャングルを十歳児が、単独踏破してのけていたとは!

 グランドキネマの経営者は、大蔵貢(おおくらみつぎ)であった。この人は、無声映画時代の活動弁士で、トーキー時代がくると映画館の経営者となり、戦後は新東宝の社長にもなった。徹底して大衆通俗路線をつらぬき、毀誉褒貶の多い人であった。
 五銭で二本立てのこの楽園を、カツミはどうして知ったのか。松竹理髪店の若い店員さんにまずは連れていかれたのにちがいない。私がはじめて上野の不忍池でボートを漕いだのも、休日の運転手さんに連れられていったので、おおかたご同様のはずです。
 それにしても。あの頭でっかちのかぼそい子は、そのまま不逞児であったのだな。
 後年、この幼なじみをテーマに一篇の詩を書いた。旧作ながら、再録します。

 よそゆきになった友達

床屋のかつみは学校からもどると
五銭つかんで活動をみにいった
日暮れて帰ると おやじさんに耳をぶたれた
それしきの折檻でくじけるなと
鞍馬天狗や丹下左膳が呼んでいるそうだった
だからこりずに隣り町のシネマ館へ
ひとりで橋を渡ってゆくのだった

かつみは学校をでると
遠い川向こうへ奉公にやられた
けれどもじきに帰ってきた
ご同業の床屋の店で
高下駄はいて修業してきたそうだった
それからまた奉公にやらされた
また帰ってきて またいなくなった

何度目かに帰ってきたとき
かつみは髪をのばしていた
おとなむきの短靴なんかはいちゃって
まぶしいよそゆきのことばで挨拶した
第三回
 上掲の絵は、小学二年生のときの作で、右からわが家、広い露地、自転車屋、洋食屋と、このとおりの家並びでした。前章の一年生の絵よりも、かなり一気に写実的だ。
 わが家のト・ラ・ヤの看板の実体は、道の左右からみえるように三角に突きだし、両面が白ガラス張りで、日暮れには灯りを点した。上半分が屋上へ突きでていたのだが、それを無造作に屋上へ乗せて描いています。
 お隣は、店先に自転車をならべ、天井にも吊していて、自転車屋さんの店構えは現在もまったくご同様ですな。いや、昨今はサドルを上に吊すのが通例だろうが、この絵では逆さまだ。この二年生は随意デフォルメの癖があって油断はならぬが、タイヤのほうを天井へ結びつけるのが容易かもしれず、じじつこうだからこう描いた、のではなかろうか。とすれば、これも市井の一記録ではあります。
 歩道は、四角いセメント板を敷き詰めた石畳ふうの舗装でした。田舎道じゃあるまいし、茶色とはなにごとぞ。とはいえ、灰色に塗るよりもこのほうが、ずばり道らしくはあるな。
 そして当時の紳士たちは、帽子とステッキが身嗜みでした。
──作者敬白