2,ツマラナイ
 昭和十年の春に小学二年生になった少年の、綴り方第二作です。
  ボクハ、ツマラナイノデ、タタミノ、トコロデ、ネコロンデ、ヰルト、オカアサンガ、ソンナニ、タイクツナラ外へ、イツテキナサイトイッタ、ボクハ、外ヘ、イッタガ、ツマラナイノデ、トナリノ、カツミクンヲ、ヨビニイッタガ、ドッカヘ、イッタ、ヨウデ、ヰナカッタ、ボクハ、ツマラナイノデ、マタ、ウチノナカヘ、ハイッテイッタ。
 これも自由作文ではあるな。なんでもいいから、ちかごろ楽しかったこととか、よくおぼえていることを書いてごらん。というふうな先生の指導があってとりくむものでしょう。その証拠に第一作の「シケンヤスミ」は「一バン、オモシロカッタ」ことから書き起こしている。ところがいきなり「ツマラナイ」とは?
 全十六本の綴り方のうちで、正直、いちばんつまらない。それがいきなり二番目で恐縮です。だが。おもえばこれらが人生最初の自由作文ではないか。二年一組の教室で、そのときいちばん書きたいのが、このことだった!

 そうなんです。いいようもない、母も汲みとってくれないあのときの気持こそが、いちばんいいたい。もだえる気分で鉛筆にぎって、半ペラ十二字六行の綴り方用紙にむかっていたのを、かなり後年まで、思いだせた気がします。おりおりこの綴り方の束を見るたびに復習していたあんばいで。八十年後のいまも、ほのかに見当ぐらいはつく。
 幼い体中に満ちてくるなにかがあって、いっそ畳にぶっ倒れ、じたばたしていたのだな。母親にさえ「ソンナニ、タイクツ」としかみえなくても、当人はそれどころでなかった。だがこの七歳児の気持を、その後に相応の言葉数はおぼえたはずの私が、どれほど代弁できるだろうか。
 たとえばの話、存在の不安とか、実存的苦悩とか。そのてのものが七歳児にあってなんのふしぎがあろうか。それにしても、あぁ、言葉ないし文字という道具は、しょせん貝殻で海の水を掬うようなことだろうか。七歳児はこのとき「ツマラナイ」という貝殻で、いうにいえないなにかを、懸命に掬いとろうとしていたのだと存じます。

 さて、実存少年は、戸外へ出る。表通りは、16番の市電がチンチン走る並木道でした。
 当時は、銀座八丁をぐるりと堀がとりまいていた。西の端のここらには、土橋(どばし)という堅牢な石の橋がかかっていた。市電は、この橋を渡って左へ曲がったところが終点で、土橋停留所といった。この16番の行き先は、たしか大塚だったが、そんな遠くへまで乗っていったことはついぞない。おおかた土橋界隈を駆けずりまわって育ったのでした。
 この堀には、ボート乗り場があった。お台場行きの舟の発着所もあった。十人も乗れば満杯の小さなポンポン蒸気船で、築地魚市場と浜離宮の石垣の間から、じきに海へでる。けっこう波に上下して、お台場へつくとホッとする。スリリングな乗り物でした。
 堀の水面には、ぷくぷくとメタンガスの泡がふいていた。上げ潮引き潮の流れぐらいしかなくて泥が溜まりこむ。ときおり浚渫船(しゅんせつせん)がやってきて、クレーンのような機械を上げ下ろしては底の泥を掬いあげる。堀端の手摺につかまって、その様子をながめているのが、けっこう飽きないのでした。

 銀座八丁をめぐる堀がすっかり消えたのは、昭和三十九年(1964)の東京オリンピックのおかげです。外来のお客様をおもてなしの首都大改造と称して、埋め立てられた堀の、長い長い屋上が東京高速道路となり、その下がさまざまな商店街とはなった。
 そうしてこんにちに至るので、土橋も高速道路の下の暗い通路になりはてた。くぐって銀座の西の端へ歩み入れば、全面鏡のようなガラス張りのスマートな建物がそびえている。リクルートGINZA8ビルです。
 わがふるさとです、ここが。このビルが占めている地所に、当時は、二十軒余りの家々が背中合わせに建ちならんでいた。おおむね木造二階屋で、三階程度の小型のビルも三、四はあった。家々に人が住み、さまざまな商いをして、子どもたちもうじゃうじゃいたのでした。そこがいまや、ただ一棟のリクルートビルだ。なんとも様変わり。

 ではあるが、いっこうに変わらない面もある。大いにあります。銀座八丁の道筋は変わらない。大正十二年九月の関東大震災後に、首都復興計画で区画整理されてより、銀座通り、晴海通りの縦横十文字をはじめ、どの道筋も道幅も、ほぼまったくそのままです。
 土橋は、街路面よりもやや高く架けられていた。子どもの身丈にはみあげるほどだった端詰の傾斜が、大人の身にはさほどでないが現にあって、歩み下って銀座へ入る感じに変わりはない。(たん)と延びる外濠通りに、市電の影もなく、両側に背高ビルが櫛比してはいながら。歩けばやはり、むかしながらの通学路、勝手知った気分にはなります。
 ちかごろは記憶力とみに衰え、一昨日のことさえ忘れるしまつなのに、近年が薄らぐぶんだけ原初がよみがえるのか。あの西八丁目界隈を思い起こせば、リクルートビルなどはたちまち消えて、浮かぶのは裏表二十余軒の面影です。

 では、土橋の袂の西の端から、順に申しあげます。まずガソリンスタンドが、角地を広くみせていた。赤い給油塔が一本立っていて、客の車がくると、塔の上部のガラス筒へ五ガロンのガソリンを噴きあげる。その分をホースで車のタンクへ注ぐので、お客は目に見えて納得する仕掛け。その一部始終を眺めるのも、けっこう飽きないのでした。
 その隣は煙草屋で、白い顔の無口そうなおじさんが坐っていた。近所の噂では、ヤツは肺病だから子どもらは近寄るな。聞けばおそろしくて、煙草屋の前は息をつめて走りぬけたりしました。
 その隣は二軒つなぎの二階屋で、向かって右は印刷関係のただの事務所。真ん中に二階の大家さんの住まいへあがる階段があり。向かって左が松竹理髪店。店主は、松竹撮影所の理髪係をしていたとかで、それが店名の由来。「トナリノ、カツミクン」は、この家の子です。
 つまりその隣が、虎屋自動車商会、わが家でした。リクルートGINZA8ビルの、ちょうど玄関口のあたりになります。
 松竹店主のカツミの父親は、大柄な陽気な人で、よほど店がヒマになると、わが家へきて「おい坊主、髪がのびてるぞ」。連れていかれて椅子に坐らされ、バリカンで坊主刈りにされる。そして「はい、この通り」。小柄な父は「しょうがねぇなぁ」苦笑いしながら代金を払うのでした。
 カツミは、この理髪店の長男で、妹たちがいた。学年は違って、私より一つ年上だったかな。父親に似ずおとなしく、いくじなしのようで、そうでもないようで。なにしろ隣り同士、いちばんの仲好しでした。

 身のまわりに、日々に飽きないことがいろいろとあったのに、なんで「ツマラナイ」のだったのか。やっぱり存在の不安のごときものに向きあっていたのでしょう。このときもしもカツミがいたら、ひょっとして……。この項、次章へつづく、です。
第二回
上掲の絵は、小学一年生のときの作品で、かなり大胆なデフォルメがあります。
第一に、トラヤとトコヤの並びが逆で、事実は、松竹理髪店が向かって右、虎屋自動車商会が左でした。
看板も、漢字の右横書きで、片仮名でトコヤなどとは書くものか。
そもそもトラヤタクシーとはなにごとぞ。わが家はハイヤー業で、それは第1章で申し述べた通りです。
この六歳児は、まだなにもわかっちゃいない。
しかも二階屋を三階建てにしたり、やりたい放題みたいな絵ですが。
そのくせ、トラヤもトコヤも、まさにこんなふうな店の構えではありました。
──作者敬白