1,シケンヤスミ
 まず、小学二年生の綴り方をおめにかけます。
 ボクハ、シケンヤスミニ、ウチノ人ト、イナカヘ、イキマシタ、中デモ、一バン、オモシロカッタノハシンジュク、カラ、チュウオウセン、ニ、ノッテ、カツヌマ、マデ、 イクウチニ、トンネル、ガ、四十一、アリマシタ、大月カラ、大ゼイ、ヘイタイサンガ、 ノリマシタ
 いまは春休みというのだろう。むかしは試験休みといった。三学期が終わり新学年へ進級する間の、三月末の一週間ほどの休暇を。
 上記は、二年生になったばかりの、満年齢七歳の少年の綴り方です。やたらと読点が多いのは、ことばをならべて文にしてゆくことを、こうして習いおぼえる手始めだな。
 少年は、中央本線の新宿駅から勝沼駅までの間のトンネルの数をかぞえた。暗いトンネルへ突っこむたびに、手帖に鉛筆で正の字をつくってゆく。それが八つと一本になって四十一と、数がかぞえられた達成感が「一バン、オモシロカッタ」らしい。人生の初歩とは、こういうものでしょうか。

 大月駅から兵士たちが大ぜい乗りこんできたという。鉄道は明治このかた文明開化の牽引役と同時に、そもそも軍事施設の側面があって発達してきた。軍隊の移動にはとうぜん無賃で使われてきたので、一般客と相乗りもあったのですな。
 そんな状景にもでくわしたこの綴り方が、書かれた時節は、昭和十年(1935)四月。場所は、東京市京橋区銀座西五丁目(現・東京都中央区銀座五丁目)の泰明小学校二年一組の教室。と確定できるのは、右の少年の名が小沢信男、なにを隠そう私自身でした。
 試験休みに「ウチノ人ト、イナカヘ」行ったのは、母と、兄と、妹二人と、私の計五人です。勝沼駅にすぐ近くの、葡萄畑をもつ農家が母の実家で、休み中は泊まって従兄弟たちと遊ぶのが、例年の楽しみでした。

 ほぼ八十年も前の綴り方が、ただいま八十六歳の私の眼前にある。それを忠実に引き写して上記の通りです。さいわいに現存する、そのいきさつから申しあげます。
 綴り方は、読み方の時間の折々にあり、遠足とか運動会とかの課題のときと、自由作文のときとあった。くばられた用紙に時間一杯に書いてだすと、つぎの読み方の時間に、担任の先生が赤鉛筆で二重丸や三重丸をつけて返してくれる。三重丸に二重丸をのせたダルマの五重丸もあり、ときおりそのダルマを私はもらった。ちなみに上記のは三重丸です。
 綴り方は、たぶん二年生からはじまったので、その第一作を返すときに先生は、二ッ折りの茶色い綴じこみ用紙を配った。表紙に「私のつづりかた」と印刷されたそれを、先生に言われたとおりに帰宅してそっくり父に渡したのでしょう。
 以来父は、綴り方を持ち帰るたびに二つの穴をあけ凧紐でかがってくれていた。おかげでこの学年中の十六本が、茶色い用紙に綴じこまれて現存する。「二年一組 小澤信男」という正字の署名も父の手で、凧紐の蝶結びも、当時の父が結んだそのままに。

 わが家はそのころ、銀座の西のはずれの土橋の袂で、自動車四台持ちのハイヤー業を営んでいました。路上で客を拾うタクシー業にたいして、ハイヤー業は顧客の注文を受けて配車する。タクシーがその場の現金取引なら、ハイヤーは月末集金が慣例で、この業態は、現在も変わりはしません。
 ふりの客の一見さんは、現に車が遊んでいてもお断りしていた。その代わり、いつ注文が入るかわからない。朝、二階の寝床で目がさめたときも、夜にお休みなさいと寝床にもぐりこむときも、父は階下の事務所にいた。ほぼ一年中、そうなのでした。
 夜中に便所へたつと、父も枕をならべているので、あぁやっぱり寝てるんだ。安心して便所の帰りに、父の寝床へもぐりこんでそのまま眠ってしまうこともありました。

 一階は、車四台を入れるガレージと事務所が大半を占め、その奥に四畳半の宿直部屋、台所、便所などがある。二階は、八畳と六畳の二タ間きりの居住区で、やや大きめの物干し台がガレージの上にのるかたちであった。防火のためガレージも外壁も総トタン張りで雨が降りだすとやかましい家でした。
 事務所は、隅の机が父の居場所で、その横に壁掛けの電話器がある。三和土(たたき)の床に小さく切った囲炉裏のまわりが、通いの運転手さんたちの溜まり場でした。
 ときにお得意さんもたちよれば、物売りや、物乞いや、お巡りさんもくる。ここでにぎやかに世間話がもりあがっているのは、家業がひまな証拠なので、車も人も出払ってがらんとしていれば忙しいのでしょうが。子供の印象としては逆におもえた。
 そもそもわが家の玄関口も兼ねていて、登校も下校もここを通る。この事務所の明け暮れの様子が、幼い私はわりあい好きでした。

 父は、山梨県の甲府盆地をみおろす峠のようなところの農家の末っ子に生まれ育った。やがて単身上京して、新聞配達をしながら大森の自動車学校に通い、営業車用の運転免許証千四百何十何番かを、大正九年に取得した。満二十二歳でした。そのころは東京市中に車が運転できる人が、千四百人ほどしかいなかったわけですなぁ。
 大正十二年(1923)の関東大震災のときは、自動車商会の雇われ運転手で、新婚まもなかった。それからが復興の気運に乗じた。ほどなく一台持ちの運転手となり、同様な一台持ちの仲間四人で合名商会を設立する。
 ところがそこへ恐慌がきた。その昭和二年(1927)に私は生まれたのですが。不景気のさなかに仲間がつぎつぎに脱落。その車を借金しながら買いとって、ついに四台持ちの営業主となり、虎屋自動車商会の看板をかかげた。虎は千里を行って千里を帰る。ぶじ運行のおまじないのような屋号です。

 そのころに私はものごころがついたので、世の中はこういうものと受けとっていたけれども。おもえば父は、奮闘努力の来し方であったのだな。当年三十七歳のそのころもさぞや日々多忙であったろうに、小倅のつづりかたを、千枚通しで穴をあけ紐を通して、よくぞ綴じこんでおいてくれたものです。
 父には整頓癖がありました。事務所の戸棚には、修繕用の工具類が、ねじ回しやスパナやハンマーなどが行儀よく整列していた。たぶんその伝だ。もしもその後の学年でも綴じこみ用紙が配られたら、六年生の綴り方まで残ったかもしれないが、それはなかった。
 なぜか図画は、一年生のクレヨン画からから六年生の水彩画まで、たぶん飛び飛びながら無造作に綴じられて現存する。いま見直すと、一年生のが奔放でおもしろく、上級になるほどにへたな写生でつまらない。

 昭和十二年(1937)七月に、日中戦争がはじまる。当時はシナ事変といっていた。たちまちガソリン欠乏で商売がやっていられない。お米とともに統制されて、銀座や木挽町(こびきちょう)一帯の自動車屋が合併して会社となった。その会社が会社を吸収合併して大会社へ。そうしてこんにちの自動車業界へ発展してゆくのですが。
 ともあれ父は、にわかに会社員となった。ガレージはがら空き。たまに廃車かクラシックカーの置き場になるくらいで、もう銀座にいる必要がない。
 昭和十六年の夏に、郊外住宅地の世田谷区代田二丁目へ引っ越した。そのときに私は中学二年生でした。
 そして、わが家のあたりは空襲もまぬがれて、昭和二十年(1945)八月の敗戦をむかえた。

 そのごに私自身は居場所を多少は転々とする時期もありましたが。そんなわけで綴り方も図画も、代田の父の家の戸棚に、ながらく保管されてきた。
 ようやく夫婦二人きりの小さな世帯をもつようになって、手許へもらい受けてきた。そしてこんにちに至り、ただいま眼前にある次第です。

 この十六本の綴り方を、これより順次にご紹介してまいろう。ざっと八十年前の満七歳児の文章なんて、さながら他人事ですよ。それなりに、当時の小さな記録ではあるだろう。読みかえせば、まざまざと蘇るものもある。つられておもいうかぶあれやこれやを、いっそ気儘(きまま)に語ってゆこう。おつきあいいただければ幸いです。では第二作へ。
第一回