木曜日ニ、米国カラ、ミスター・アメリカ、ミセス・アメリカ、ガ、泰明学校ノ、カウドウヘ、来マシタ、カウドウヘ、ハイッタ、時、ミンナガ、手ヲ、タタキマシタ、サウシテ、人形ガ、イスニ、コシカケマシタ、サトウサンガ、カミニ、ナニカ、カイテアルノヲ、ヨミマシタガ、ヨクワカリマセン、ヨミヲハッテカラ、米本君、ノ、兄サンガ、オムカヘノコトバヲ、ヨミマシタ。一バン、シマヒニ、米本海ゾウ、トキコエマシタ、米本君ニ、キクト、泰ゾウダ、ト、オシヱテモラヒマシタ、コンドハ、六年ノ、スギ田、ト、ユウ、人ガ花タバヲワタシマシタ、ソウシテ、ミスター・アメリカ、ノ、方、カラ、レイヲシテ、カヘリマシタ、アトカラ、ミセス・アメリカ、モレイヲ、シテカヘリマシタ、ボクハ、ナンダカ、チョット、ツマラナイキガシタ。
まずはかなづかいから。講堂は歴史的かなづかいではカウダウ。オシヱテはオシヘテ、ユウはイフ、ソウシテはサウシテが正しい。例によって、歴史的と現代と、ごちゃまぜに書いている。しみじみ現代かなづかいこそ、平易で使いやすいですなぁ。
ミスター・アメリカ、ミセス・アメリカ。ともに等身大の、大きな人形でした。友好親善使節としての、ご光来でした。
各地の小学校や幼稚園などを歴訪したのだろうか。たぶんその手はじめあたりに泰明へやってきた。帝国ホテルに近いせいか、外国貴賓の視察などがときたまはあった。そのたぐいの出来事です。
ときは昭和十年七月。この次の綴り方は夏休みにみた花火のことを書いているので、これが一学期の最後のもの、つまり七月だ。
このときの状景を、とくに人形が講堂へ入ってきたときの様子を、さながらにいまも思いだせる気がします。
泰明小学校は三階建てだが、数寄屋橋公園側の外壁が丸くなっている一角は、おなじ高さで二階建て、下が雨天体操場で、上が講堂。ともに天井が高かった。
その講堂へ、いきなり全校生徒が集められた。木曜日の何時限かの授業をつぶしてのことだから、なにごとかと期待はある。
講堂の扉を入ると、奥の演壇にむかってたくさんの長椅子が整列している。そこへがやがやと生徒たちが収まった。
と、うしろの扉から、二体の人形が、人に担がれて入ってきた。男は黒い服、女は裾のひろがった礼服だったかな、なにやら型通りの身なりで、背筋を棒のようにのばし、手足はぶらぶら揺れていた。
その二体が、まんなかの通路を、斜めになって担がれてゆくのを、われらは拍手でむかえた。そして壇上の用意の椅子に据えられて、上記の通りの式次第が進行したのでありますが。
正直な話、大きいばかりでむしろ無細工なこんな人形が、どうしてお客さまなんだろう。もっとしゃれたマネキン人形たちが、デパートのウインドウにいくらでも並んでいるではないか。
お迎えの言葉も、花束贈呈も、六年生の男女の優等生が選ばれて用意されていたわけだ。型通りのそれだけのことで、人形は退場する。斜めにひっ担がれてでてゆくのを、われらはまたお義理に拍手して送った、のであろう。
二年一組小沢信男は「ナンダカ、チョット、ツマラナイキガシタ。」
八歳児の語彙でぎりぎりの表現だな。いまの私が代弁すれば、このときこの少年は、ナンダカ異様な思いがした。大人たちは時にまったく気が知れない。わざわざこんなことを仕組んで、それでいったなにがどうなんだ? チョットどころでないツマラナさが、こんにちに残る印象となったのでした。
文中、ふしぎなくだりもあって、サトウサンとは、何者か。生徒なら上級生とでも書くだろう。先生なら先生と書く。さては来賓か。サトウと名乗る人物が、この催しの趣意書のたぐいを読みあげたのかもしれません。お迎えの言葉に先立つ、さいしょの発言だもの。
せっかくのその発言が「ヨクワカリマセン」。この八文字の横に、赤鉛筆で丸が八つ添えてあるのが、ふしぎなのです。
担任の高橋先生は、ときおりこういう丸々をくださった。たとえばさきの「エンソク」では結びの、寝床に入っても「ナカナカ、ネラレナカッタ」のところに。その前の「トホクワイ」では、転げた川端君を「ボクガ、オコシテヤリマシタ」のところに。(さもあろうね)とか、(感心、感心)とか、丸々を添えて褒めてくれるのです。
しかし「ヨクワカリマセン」のところが、さもあろうね、感心々々、というのは? さては高橋先生にも、サトウサンの趣意書の読み上げが、呑みこめなかったのではあるまいか?
グーグルで検索すると、昭和二年(1927)に日米友好親善のお使いとして、人形の交換がおこなわれた。アメリカの子どもたちから日本の子どもたちへ、素焼きのベビー人形が約一万二千体も贈られてきて、それを全国各県の小学校や幼稚園に配分したという。
日本からは返礼として、上等な市松人形が五十八体、鏡台や箪笥もそえて、日本の各県からアメリカの各州へむけて、という趣旨で贈られた。当時は船便の往来で、日本からはパスポートと一等船客切符を調えたという。荷物にあらず、使節として人間なみに扱ったのでした。
アメリカ側の提唱者は宣教師シドニー・ギューリック。日本側の仲介者は渋沢栄一。当時アメリカでは、低賃金で働きまくる日本移民を締め出すべくいわゆる「排日移民法」が1924年(大正十二年)に成立していた。そんな憎しみ合いよりも、末永き友好を。というかなり本格的な民間外交事業であったようです。
あちらで排日移民法が成立した年に、こちらでは大正大震災があった。諸外国から救援が寄せられたなかで、アメリカから飛びぬけて厖大な
その後、日本は昭和六年に満州事変という侵略戦争をはじめて、列強諸国の非難を浴びる。昭和八年には国際連盟を脱退する。
けれども国内的には、活動写真とレコードの普及期で、ジャズが流行った。子どもらの人気者も、ポパイ、ミッキーマウス、ベティちゃん、みんなアメリカ渡来だ。むしろ親米気分の日々でしたよ。
国際的には孤立すればこそ、日米友好の民間親善外交の夢よふたたび、という活動が起きても、さほどふしぎはない。
そこで泰明小学校に、ミスター・アメリカ、ミセス・アメリカの人形のお使いがやってきた。ということなんだろうが。この昭和十年の出来事は、グーグルでも空振りで、なんの記録にもお目にかからないのです。どういうことか?
あるいは、この活動はじきに挫折したのかもしれません。泰明をはじめ試みに出向いた先々で、期待したほどの反応は、たぶんなかった。意図はどうあれ準備不足、ないしは認識も不足だったのか。
そして時勢は急変した。翌昭和十一年二月には二・二六事件が勃発する。この国はいよいよ軍国化へ傾斜して、昭和十六年十二月八日には、日米開戦となってしまうのですから。
以来、星霜七十余年。こんにちでも、昭和二年の人形のお使いに関しては、かなり詳細な記録があります。約一万二千体のベビー人形は、戦争中にあらかた破砕された。なにしろ鬼畜米英の落とし子だもの。
しかし、さいわいに三百数十体は、諸処に現存するという。アメリカ側には四十体ほど現存する由。おりふしに話題の、新聞種にもなっておりますね。 ところが昭和十年の人形のお使いには、さっぱりなにもみあたらない。ほんとうにあったことなんだけれどもねぇ。
やむえない。せめて上記のツヅリカタの、その後の報告をしておきます。
お迎えの言葉を読みあげた米本泰造氏は、同級生の米本和夫君のお兄さんでした。兄弟ともにがっしりした体躯で、兄さんのほうが背高で、かっこうよかった。
米本家は「すみや」という有名な
鼈甲の品は、耳掻きだって貴いのに、それがまるごと一匹ですものね。みあげるだけでも後光が射すようでした。
その有名店の御曹司の泰造氏は、長じてやがて学窓より予備学生として海軍将校となり、南方戦線へおもむいた。ミスター・アメリカたちと戦う身となったのでありました。
ほどなく敗戦。捕虜となる。収容所における某月某日、ミスター・アメリカの将校たちと、1935年(昭和十年)の「人形のお使い」を歓迎したことを、語りあう機会などが、あったかもしれません。
やがてぶじに復員、家業を継いだ。資生堂がザ・ギンザヘ拡大改築する折に、その一角へ入って「すみや」のコーナーを設けた。鼈甲に装身具に、弟の和夫君ともども家業を発展させたのでありました。
ザ・ギンザは、その後さらに改築改装を重ねた。「すみや」は日本橋へ事務所を移し、経営主もつとに世代交替した、と聞いていました。
平成二十五年(2013)一月末日、とつじょ、米本和夫君の訃報を聞く。享年八十五。二月四日、青山の名刹
祭壇に、がっしりした体躯の和夫君の遺影が、ほほえんでいる。おもえば泰明学校で駆けずりまわっていたころから、ふだんの顔がほほえんでいる、陽気で優しい少年だったなぁ。
ご住職の読経、説教のあと、お清めの席で、銀座八丁目の和装小物の老舗
伊井君が言う。「だいぶもうクラス会をやってないなぁ」
千谷君が、飾りなおした遺影のほうを顎でしゃくって「そうさ、あれが動かなきゃ、どうにもなるもんか」
そうか、元気者の中沢骨董店も閉じたしなぁ、と私がつぶやく。
「ヨネちゃんは面倒見がよかったよ。チーちゃんとはいつも一緒の仲好しだったねぇ」と伊井君。
「ウチが近かったもの」と千谷君。
「どう、バトンタッチしませんか、チーちゃん」と伊井級長。
フンと鼻でわらって千谷君は、むかしはすらりと長身の美少年だったが、いまや横幅もたっぷりの泰然自若なのでした。
一人と三人きりのこの集いが、昭和十五年卒業の泰明小学校男子一組の、おそらくは最後のクラス会でしょう。