10,人形ノオツカヒ
 木曜日ニ、米国カラ、ミスター・アメリカ、ミセス・アメリカ、ガ、泰明学校ノ、カウドウヘ、来マシタ、カウドウヘ、ハイッタ、時、ミンナガ、手ヲ、タタキマシタ、サウシテ、人形ガ、イスニ、コシカケマシタ、サトウサンガ、カミニ、ナニカ、カイテアルノヲ、ヨミマシタガ、ヨクワカリマセン、ヨミヲハッテカラ、米本君、ノ、兄サンガ、オムカヘノコトバヲ、ヨミマシタ。一バン、シマヒニ、米本海ゾウ、トキコエマシタ、米本君ニ、キクト、泰ゾウダ、ト、オシヱテモラヒマシタ、コンドハ、六年ノ、スギ田、ト、ユウ、人ガ花タバヲワタシマシタ、ソウシテ、ミスター・アメリカ、ノ、方、カラ、レイヲシテ、カヘリマシタ、アトカラ、ミセス・アメリカ、モレイヲ、シテカヘリマシタ、ボクハ、ナンダカ、チョット、ツマラナイキガシタ。
 まずはかなづかいから。講堂は歴史的かなづかいではカウダウ。オシヱテはオシヘテ、ユウはイフ、ソウシテはサウシテが正しい。例によって、歴史的と現代と、ごちゃまぜに書いている。しみじみ現代かなづかいこそ、平易で使いやすいですなぁ。

 ミスター・アメリカ、ミセス・アメリカ。ともに等身大の、大きな人形でした。友好親善使節としての、ご光来でした。
 各地の小学校や幼稚園などを歴訪したのだろうか。たぶんその手はじめあたりに泰明へやってきた。帝国ホテルに近いせいか、外国貴賓の視察などがときたまはあった。そのたぐいの出来事です。
 ときは昭和十年七月。この次の綴り方は夏休みにみた花火のことを書いているので、これが一学期の最後のもの、つまり七月だ。

 このときの状景を、とくに人形が講堂へ入ってきたときの様子を、さながらにいまも思いだせる気がします。
 泰明小学校は三階建てだが、数寄屋橋公園側の外壁が丸くなっている一角は、おなじ高さで二階建て、下が雨天体操場で、上が講堂。ともに天井が高かった。
 その講堂へ、いきなり全校生徒が集められた。木曜日の何時限かの授業をつぶしてのことだから、なにごとかと期待はある。
 講堂の扉を入ると、奥の演壇にむかってたくさんの長椅子が整列している。そこへがやがやと生徒たちが収まった。
 と、うしろの扉から、二体の人形が、人に担がれて入ってきた。男は黒い服、女は裾のひろがった礼服だったかな、なにやら型通りの身なりで、背筋を棒のようにのばし、手足はぶらぶら揺れていた。
 その二体が、まんなかの通路を、斜めになって担がれてゆくのを、われらは拍手でむかえた。そして壇上の用意の椅子に据えられて、上記の通りの式次第が進行したのでありますが。

 正直な話、大きいばかりでむしろ無細工なこんな人形が、どうしてお客さまなんだろう。もっとしゃれたマネキン人形たちが、デパートのウインドウにいくらでも並んでいるではないか。
 お迎えの言葉も、花束贈呈も、六年生の男女の優等生が選ばれて用意されていたわけだ。型通りのそれだけのことで、人形は退場する。斜めにひっ担がれてでてゆくのを、われらはまたお義理に拍手して送った、のであろう。
 二年一組小沢信男は「ナンダカ、チョット、ツマラナイキガシタ。」
 八歳児の語彙でぎりぎりの表現だな。いまの私が代弁すれば、このときこの少年は、ナンダカ異様な思いがした。大人たちは時にまったく気が知れない。わざわざこんなことを仕組んで、それでいったなにがどうなんだ? チョットどころでないツマラナさが、こんにちに残る印象となったのでした。

 文中、ふしぎなくだりもあって、サトウサンとは、何者か。生徒なら上級生とでも書くだろう。先生なら先生と書く。さては来賓か。サトウと名乗る人物が、この催しの趣意書のたぐいを読みあげたのかもしれません。お迎えの言葉に先立つ、さいしょの発言だもの。
 せっかくのその発言が「ヨクワカリマセン」。この八文字の横に、赤鉛筆で丸が八つ添えてあるのが、ふしぎなのです。
 担任の高橋先生は、ときおりこういう丸々をくださった。たとえばさきの「エンソク」では結びの、寝床に入っても「ナカナカ、ネラレナカッタ」のところに。その前の「トホクワイ」では、転げた川端君を「ボクガ、オコシテヤリマシタ」のところに。(さもあろうね)とか、(感心、感心)とか、丸々を添えて褒めてくれるのです。
 しかし「ヨクワカリマセン」のところが、さもあろうね、感心々々、というのは? さては高橋先生にも、サトウサンの趣意書の読み上げが、呑みこめなかったのではあるまいか?

 グーグルで検索すると、昭和二年(1927)に日米友好親善のお使いとして、人形の交換がおこなわれた。アメリカの子どもたちから日本の子どもたちへ、素焼きのベビー人形が約一万二千体も贈られてきて、それを全国各県の小学校や幼稚園に配分したという。
 日本からは返礼として、上等な市松人形が五十八体、鏡台や箪笥もそえて、日本の各県からアメリカの各州へむけて、という趣旨で贈られた。当時は船便の往来で、日本からはパスポートと一等船客切符を調えたという。荷物にあらず、使節として人間なみに扱ったのでした。

 アメリカ側の提唱者は宣教師シドニー・ギューリック。日本側の仲介者は渋沢栄一。当時アメリカでは、低賃金で働きまくる日本移民を締め出すべくいわゆる「排日移民法」が1924年(大正十二年)に成立していた。そんな憎しみ合いよりも、末永き友好を。というかなり本格的な民間外交事業であったようです。
 あちらで排日移民法が成立した年に、こちらでは大正大震災があった。諸外国から救援が寄せられたなかで、アメリカから飛びぬけて厖大な義捐金(ぎえんきん)がきた。そのカネの一部を使って、焼死者十万の被服廠(ひふくしょう)跡の隣に、同愛病院が建てられた。まさに友好の時節でもありました。

 その後、日本は昭和六年に満州事変という侵略戦争をはじめて、列強諸国の非難を浴びる。昭和八年には国際連盟を脱退する。
 けれども国内的には、活動写真とレコードの普及期で、ジャズが流行った。子どもらの人気者も、ポパイ、ミッキーマウス、ベティちゃん、みんなアメリカ渡来だ。むしろ親米気分の日々でしたよ。
 国際的には孤立すればこそ、日米友好の民間親善外交の夢よふたたび、という活動が起きても、さほどふしぎはない。
 そこで泰明小学校に、ミスター・アメリカ、ミセス・アメリカの人形のお使いがやってきた。ということなんだろうが。この昭和十年の出来事は、グーグルでも空振りで、なんの記録にもお目にかからないのです。どういうことか?

 あるいは、この活動はじきに挫折したのかもしれません。泰明をはじめ試みに出向いた先々で、期待したほどの反応は、たぶんなかった。意図はどうあれ準備不足、ないしは認識も不足だったのか。
 そして時勢は急変した。翌昭和十一年二月には二・二六事件が勃発する。この国はいよいよ軍国化へ傾斜して、昭和十六年十二月八日には、日米開戦となってしまうのですから。

 以来、星霜七十余年。こんにちでも、昭和二年の人形のお使いに関しては、かなり詳細な記録があります。約一万二千体のベビー人形は、戦争中にあらかた破砕された。なにしろ鬼畜米英の落とし子だもの。
 しかし、さいわいに三百数十体は、諸処に現存するという。アメリカ側には四十体ほど現存する由。おりふしに話題の、新聞種にもなっておりますね。  ところが昭和十年の人形のお使いには、さっぱりなにもみあたらない。ほんとうにあったことなんだけれどもねぇ。
 やむえない。せめて上記のツヅリカタの、その後の報告をしておきます。

 お迎えの言葉を読みあげた米本泰造氏は、同級生の米本和夫君のお兄さんでした。兄弟ともにがっしりした体躯で、兄さんのほうが背高で、かっこうよかった。
 米本家は「すみや」という有名な鼈甲(べっこう)店で、銀座七丁目の表通りに、資生堂とならんでありました。間口はごく狭いが奥行きが深いお店で、その狭い入口の壁に、鼈甲がまるごと一匹、つやつやに磨かれて掛かっていた。
 鼈甲の品は、耳掻きだって貴いのに、それがまるごと一匹ですものね。みあげるだけでも後光が射すようでした。
 その有名店の御曹司の泰造氏は、長じてやがて学窓より予備学生として海軍将校となり、南方戦線へおもむいた。ミスター・アメリカたちと戦う身となったのでありました。
 ほどなく敗戦。捕虜となる。収容所における某月某日、ミスター・アメリカの将校たちと、1935年(昭和十年)の「人形のお使い」を歓迎したことを、語りあう機会などが、あったかもしれません。

 やがてぶじに復員、家業を継いだ。資生堂がザ・ギンザヘ拡大改築する折に、その一角へ入って「すみや」のコーナーを設けた。鼈甲に装身具に、弟の和夫君ともども家業を発展させたのでありました。
 ザ・ギンザは、その後さらに改築改装を重ねた。「すみや」は日本橋へ事務所を移し、経営主もつとに世代交替した、と聞いていました。

 平成二十五年(2013)一月末日、とつじょ、米本和夫君の訃報を聞く。享年八十五。二月四日、青山の名刹梅窓(ばいそう)院での通夜におもむく。
 祭壇に、がっしりした体躯の和夫君の遺影が、ほほえんでいる。おもえば泰明学校で駆けずりまわっていたころから、ふだんの顔がほほえんでいる、陽気で優しい少年だったなぁ。
 ご住職の読経、説教のあと、お清めの席で、銀座八丁目の和装小物の老舗伊勢由(いせよし)のあるじ千谷俊夫君と、もと参議院担当医師の伊井義一郎君と同席する。
 伊井君が言う。「だいぶもうクラス会をやってないなぁ」
 千谷君が、飾りなおした遺影のほうを顎でしゃくって「そうさ、あれが動かなきゃ、どうにもなるもんか」
 そうか、元気者の中沢骨董店も閉じたしなぁ、と私がつぶやく。
「ヨネちゃんは面倒見がよかったよ。チーちゃんとはいつも一緒の仲好しだったねぇ」と伊井君。
「ウチが近かったもの」と千谷君。
「どう、バトンタッチしませんか、チーちゃん」と伊井級長。
 フンと鼻でわらって千谷君は、むかしはすらりと長身の美少年だったが、いまや横幅もたっぷりの泰然自若なのでした。
 一人と三人きりのこの集いが、昭和十五年卒業の泰明小学校男子一組の、おそらくは最後のクラス会でしょう。

人形ノオツカヒ
 人形がらみで、雛人形の絵をお目にかけます。これは小学三年生のときのクレヨン画。宿題で、わが家でゆっくり塗りこんだのでしょう。
 ウチには妹が二人いて、例年二月のうちから雛壇を飾った。ふくざつな雛壇を父が手際よく組み立てて、赤い毛氈(もうせん)をかけ、雛たちを箱からだして飾ってゆくのを、はたでわいわいさわぎたてる。空箱の山は、雛壇のうしろの暗がりへ押しこむ。
 六畳と八畳の二間きりの居住空間に、こんなものを飾りたてたら窮屈だったはずなんだが。パアッと部屋中が派手になって、その間はお祭り気分ですごしたのでしょう。

 五月の端午の節句の飾りは、くらべたらよほど地味だった。兄と私と、弟がやがて生まれて男児は三人の多数派なんだが。鎧甲(よろいかぶと)、弓矢立ての武者道具のミニチュアと、足柄山の金太郎の人形などを、手狭な壇にならべる。そのオモチャの弓で矢を射てあそぶうちに、矢数が半減してしまった。
 五月の楽しみは、柏餅が食えることと、菖蒲湯かな。銭湯の湯船に、刀のような菖蒲の葉が浮いている。おりおり三助さんが、新しい葉を気前よく投げこんでくれる。その葉を向こう鉢巻きふうに頭に巻くのは、丈夫に育つようにというマジナイでしたか。

 やはり華やかなのは三月だ。その雛壇の主役たち、妻夫雛と、三人官女を描いた、型通りの図柄ながら。
 このたびみなおして、人形たちの顔に目を惹かれました。上段の男雛と女雛は、いかにもお坊ちゃま、お嬢さま面で、女雛のほうが多少は賢そうかな。
 くらべて三人官女は、三人とも伏し目で、それぞれに表情がある。向かって右の大柄な官女は、眉をひそめてなかば投げやりな風姿ではないか。左の痩せぎすな官女は、なかば諦念なかば沈思の拳を握りしめている。まんなかの官女はもはや泣きべそで坐りこんじゃった。
 ホント! ウソっぽいようだが、つくづくご覧ください。ほらね。なにやら不穏な気配の彼女らにみえてきませんか。
 じつのところ三年一組小沢信男は、黒いクレヨンでチョンチョンチョンと目鼻をつけたまででしょう。そのチョンチョンが、いまの私に語りかける。
 ハッと気づけば、いまさらながら、三人官女も、五人囃子も、美しい日本の宮仕え。左大臣と右大臣に見張られた労働者ではありませんか。残業代なしの超過勤務の日々もあったりして、もうやってられないよの風情でした。
──作者敬白

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