11,花火
 八月九日のばん、ゆいがはまのうめたてで、花火をしました、ぼくも見にいきましたが中々やりませんでしたすこしすると、しゆっずどんと、空高く上りましたそれは、かはり星でした色色にかはりました、つぎは早うちでした、しゆっしゆっしゆっと上りましただいだい色のぼうが出ましたぼうのさきでどんとなりましたきれいなばらがさきましたこんどはしかけ花火でした、色色なものが上りました、つぎはしだれやなぎでした、ほんとうのようにきれいでした、すこし見てゐるうちにねむくなったのでかへりましたが花火のことばかりかんがへて中々ねむれませんでした。
 これは、ひらがなで書いた最初の綴り方です。
 以後はすべてひらがな。どうやら当時は、第二学年からひらがなを教えて、九月の二学期から実習に入ったのだな。
 あるべき句点がなくて、最後に一つだけマルとある。句読点が呑みこめていない状態は、以後も続きます。
 はるか後年、山下清の『裸の大将放浪記』を通読した折に気づいたが、写真版でみる原文には、句読点も改行もいっさいなかった。日記もハガキも、用紙の右上から左の下端までびっしり書くのが通例でした。どうやら彼は、小学校低学年の綴り方の要領で、生涯を押し通したらしい。
 この二年一組小沢信男の綴り方も、いくらか山下清的だぞ、と懐かしい気持ちになります。

 当時は毎夏、鎌倉へ避暑に行っていました。漁師さんの家の離れの一間とか、どこぞを借りてひと夏をすごす。町場の子はとかくひ弱につき、せめて夏場は海辺で鍛える。というのが、一種の流行でした。
 じつは銀座の隣町の京橋で、父の従兄の山田さんが日英舎という印刷所を営んでいた。同郷の一番身近な親類で、父はなにかと頼りにしていたらしい。山田家には六人の子がいて、やはり夏ごとに鎌倉へゆく。その山田家に、わが家は見習ったのでした。
 某日、父は鎌倉へゆき、不動産屋の案内で二三の物件をみて、七月下旬から借りる契約をしてくる。ある夏は海辺に近い汐の香のつよい部屋で。ある夏は表通りに板塀をめぐらした家で。ある夏は江ノ島電鉄片瀬駅の裏手の、にぎやかな家だった。毎夏なじみのお家を借りる手もあったろうに、年ごとに環境が変わるのも、おもしろいのでした。

 夏休みに入るや、母と子ども一同と女中さんと、全員の夏布団一式と鍋釜茶碗まで、大きな布団袋に詰めこんで、新橋駅からチッキ(鉄道小荷物)で送りだす。なかば引っ越しのような騒ぎでした。
 その部屋へたどりつくと、おおかた一間に濡縁の庭付きくらいの部屋でしたが。狭いところでごちゃごちゃ暮らすのは生まれてこのかた慣れている。台所つきか、母屋と共用だったのか、炊事して暮らしだすと、肉屋や魚屋の御用聞きがまわってくる。顔見知りで、今年はこちらですか。よろしくね。などと母と挨拶している。
 さっそく山田家と連絡をとり、両家で連れ立って、大仏さんなどへお参りにゆく。
 山田家の六人の子は、みんな学区外の泰明小学校へ越境通学した。泰明学校の印刷物を日英舎も請負っていて、なにかと融通がついたのでしょう。長女はもう大人っぽいお姉さんで、五番目の子が、私と同学年でしたが、クラスがちがって彼は男女組の二組だった。
 毎日、天候さえよければ、水着姿で浜辺へゆき、山田家のパラソルへ合流する。山田のおばさんは大柄の肥躯(ひく)で、わが家の母は中柄の肥躯で、この二人でパラソルの下はほぼ満員だ。母たちも水着になった折がないではないが、おおかたは浴衣姿で悠然としていました。
 子ども同士で波に乗り。砂浜のブランコを漕ぎ。私は泳ぎがへたくそで嫌いで、波うち際の砂遊びが大好きでした。
 ヨシズ張りの休み茶屋が軒をつらね、そこの手漕ぎのシャワーはだれもが使えた。ヨシズの日陰から、波うち際までの広い砂浜が、日盛りには熱く、裸足(はだし)ではアッチッチとやけどしそうでした。

 あぁ、こんな思い出話は、きりもないなぁ。鎌倉ゆきは小学生のときかぎりの数年だったのに、なにか無尽蔵に楽しかった気がします。その後は諸般の事情で、避暑どころでなくなりました。
 毎朝、浜辺へラジオ体操にゆき、遅刻しても出席のハンコさえもらっておけば、夏の終わりに褒美がもらえた。
 昼のうちは海ばかりか、麦藁帽をかぶってトンボやバッタを追いまわした。もちろん少しは宿題もやった。
 宵にまた浜辺へゆけば、歌唱大会や映画上映や、毎晩なにかがある。砂浜に立てた白布のスクリーンは、混みあえば裏側にも観客が坐りこむ。役者の着物の襟も、腰の刀も左右が逆になり、丹下左膳が右膳になるのだけれども。さほど気にならないのでした。

 それにしても、この夏のあいだ、銀座のわが家では、どうしていたものか。父と、住込みの助手と、男手で炊事や洗濯をしていたのか。
 おおかた、そうです。いや、女中のお姉さんが、おりおり銀座へもどっていた。母は終始鎌倉にいた。わりと悠然としていた。
 日々遊ぶことばかりに熱中していたが。おもえば鎌倉暮らしは、母にとっても、おおいに骨休めだったのでありましょう、たぶん。
 あるいは父にとっても案外に。父はなんでもできる人で、弱年で上京して新聞配達の住込みから叩きあげている。女房子どもが消えたにわか独身が、サバサバと気晴らしの面もあったのではあるまいか。つまり、やはり、親の苦労などをガキが気づかうことはないのだ。
 二月八月は商売がヒマな時期だし、父もときに、稼業は番頭格の山口さんに託して、鎌倉へ一泊の骨休めにくる。
 好機到来! この日こそ父にまつわりつく。浜辺には、軒をならべる休み茶屋のほかに、射的、楽焼き、ベビーゴルフ場などがある。それらを一度に全部とはいわない。父がくるたびにねだっていけば、夏ごとに全部が楽しめたのでした。

 近年の鎌倉は、どうなのか。ときたま鎌倉文学館などへ季節はずれに行ったついでに眺めると、道路がやたらに整備され、砂浜は哀れに縮んでいる。これが由比ヶ浜!? 落ち目だなぁ。とはいえ、むしろ滑川(なめりがわ)のさきの材木座の浜へもひろがって、夏場は一面にピーチパラソルの花園だとか。
 一間貸しの風習などは、いまや昔。当世むきの滞在施設がさまざまに備わって、ますます盛大に賑わっておいでなのでしょう。花火大会も恒例らしい。

 綴り方へもどります。
 花火大会は当時も夏ごとにありました。おおかた舟から打ち揚げ、仕掛けのナイヤガラ瀑布などは火の粉が波間に散って壮観でした。この年は、あるいはこの年までは、埋立地でやったとみえます。
 沖へむかって右手に、稲村ヶ崎の岬がせりだし、その山裾の広い埋立地が、いまは坦たる道路だが。当時は草茫々(ぼうぼう)の、バッタどもの住処(すみか)でした。その草の原へ、花火の筒を据えたのでしょう。
 母にせがんで、はやばやと浜辺へきたものの、だいぶ待たされたとみえます。そのうち、しゅっずどんと、いきなりはじまった。

 その日は八月九日であった。
『明治大正昭和世相史』の、昭和十年(1935)の頁には、この日の前後に次のような事項が並んでいます。
 8・3 各学校へ「国体明徴」訓令される
 8・12 永田鉄山少将、相沢三郎中佐に軍刀で刺殺される
 9・1 第一回芥川賞に石川達三「蒼氓」

 時あたかも、こういう世情国情であった。
 それぞれに註を添えれば。この年の春に、従来の定説だった天皇機関説が、にわかに異端の学説とされ、その機関説を代表する美濃部達吉の著書は発禁になり、当人は不敬罪に問われた。それは起訴猶予になるが。そもそも昭和天皇は美濃部達吉を支持し敬重していたという。してみればむしろ不忠の輩どもの政府が、天皇主権説の「国体明徴」を宣言し、各学校へ、さよう心得よ、向後(こうご)機関説などを教えたらタダではおかぬぞ、と通達したのですな。そしてこれは十年後の、とことんの敗戦にまでひきずった「国体護持」へつながるわけだ。
 当時、市ヶ谷の高台にあった陸軍省の軍務局長室で、局長の永田鉄山少将が刺殺される。軍部の権力争いが起こした事件で、統制派の中心人物を皇道派の将校が襲った。下手人の相沢中佐は秘密裁判で死刑となって消され、争いはいよいよ熾烈となる。戦争を任務とする軍の中枢が、ともに尽忠報国を唱えつつ刃傷沙汰におよぶ。あえて単純にかたづけるならばエリート派と民草派が、はでに抗争して天下を脅かしつつ、国の権力を握って戦争また戦争へなだれこむ。
 そして十年後の敗戦を迎え、この市ヶ谷の高台で、極東軍事裁判がひらかれた。その後は駐日米軍司令部となって星条旗がはためいていたけれども。幾星霜をへたただいまは、防衛省の所在地です。
 芥川賞は、こんな騒動のさなかに発足しました。第一回受賞作の石川達三『蒼氓(そうぼう)』は、ブラジルへむけて神戸港を発つ移民たちの仮の宿「国立海外移民収容所」の数日間を描く。食うにも食えず郷土を離れる東北農民たちの窮状の、ルポルタージュ的な描出が新鮮でした。芥川賞は、こういう作品でスタートした。
 当時この国の支配層は、中南米への棄民政策のかたわら、中国大陸へ満州傀儡国をつくり、さらなる武力進出を画策していた。

 そうして、鎌倉は花火大会です。
 まずは「かはり星」が夜空にいろいろに変化した。それから「早打ち」で、と次々に記しているけれども。ほんとうかね。
 この綴り方は、二学期の教室で書いている。花火の夜からたっぷり一ト月は過ぎている。そんな以前の状景をこの二年生は、用紙の枡目にひらがなをならべながら、どうやら脳裡に再現しているらしい。
 その再現によれば、「しだれやなぎ」のあともなおすこしみるうちに、ふいに眠くなった。熱心に見つめすぎてくたびれたか。部屋にもどって、しばらく気絶したように眠れば正気づく。寝床のなかで、また花火の様子をありあり思い浮かべて、眼が冴えてしまったのですなぁ。

 この二年生が、いまの私は、いくらか羨ましい気がします。
 その後、諸処の花火大会をみてまわった。両国の川開きの花火をみたのは青年期で。それが休止して、やがて上流の隅田公園と駒形橋下流の二ヵ所で再開されたころは中年で。それから多摩川の花火、荒川、江戸川、月島の花火、熱海の花火、などと諸処をみてまわるうちに、壮年から老年になりました。
 隅田川の花火が、いちばん長いつきあいになります。いったん止んで再開したころが華であったかも。悪臭で死にかけた隅田川が復活の祝砲でもありましたから。その夜は辻々に縁台がでて、歩行者天国の道路にゴザをひろげた。川沿いの町々がいっせいに歓呼の声をあげるさまを、眺めてまわるのも楽しみでした。
 ある夏は、隅田川べりの運動場に陣取ったら、風向きで火の粉やカケラまで降ってきて、アッチッチ。花火を浴びるたのしさでした。
 そんな野放図が、だんだん消えた。川べりにビルがにょきにょき建ちならびだすにつれて、つまらなくなってきた。地べたで暮らす無数の民草(たみくさ)たちが随所で盛大にロハで楽しんだ花火が、高層ビルの窓々からエリート族がご覧のものになるような。
 くわえて寄る年波。もう何年も現場には参りません。せめて谷中の寓居で、隅田川花火大会の音を愉しむ。高く打ちあげたやつの上半分ぐらいは屋根越しに、二階の物干場からみえます。東京湾の花火も音だけは聞こえる。ある年は大晦日にやたら音をひびかせやがった。真冬の花火なんて、打ちあげる連中も着ぶくれているんでしょう。

 それにしても、打ちあげる花火の順序などを、いったいだれがおぼえるものだろう。まして一ト月後に、まがりなりにもくりかえして想起できるとは。初心とはこういうものか。
 おもえばこの鎌倉の一夜が、わが花火見物史の事始めでありました。この二年生の頭を、撫でてやりたく存じます。

「七里ヶ浜の絶景」
 このたびは模写の絵を三枚ならべます。
 まず浜辺の景二枚は、エハガキを画用紙に拡大した。三年生のときのクレヨン画です。
 さしずめ稲村ヶ崎の高台から、東を見晴らしたのが「由比ヶ浜の朝」。回れ右して西を見晴らしたのが「七里ヶ浜の絶景」です。
 この右横書きのタイトルが、いかにも当時のエハガキらしい。由比ヶ浜はこんなにも広い砂浜でした。
 茶色いのは漁舟です。浜に三艘、沖からもどってくるのがやはり三艘ほど。この絵は、しかし細部は省略している。砂上の舟たちは、鉄道の枕木のようなものを何本もならべた上に乗っていました。海へでるときは、枕木を前へ前へと移して、波間へ押しだしてゆく。もどれば逆に、浅瀬から枕木をならべて、順に移しながら砂上へ押しあげる。いましも波打ち際にきた舟には、そうして立ち働く人々の姿があるのでした。
 ときには、海水浴連中が群れるなかで、地引き網を揚げることもありました。水着の若者たちも引き縄にとりついて手伝った。
 そもそも鎌倉の浜は漁村だった。この絵は、その朝の景です。

 回れ右して、七里ヶ浜は、まず砂浜の色がちがった。この絵は茶色に塗りつぶしているが、むしろ浅黒くて、狭かった。波も荒そうで、夏場もろくに人影のない海岸でした。
 その浜辺を江ノ島電鉄が走っていた。たまに乗る車窓からながめるのみだから、ここから富士山がみえるとは気づかなかった。稲村ヶ崎の高台からはこのようにみえて、だからこその「絶景」でしょう。
 そこでそれを模写した。この少年には、一年生のときからデフォルメの癖があるが、まさか富士山を勝手に描きこんだのではあるまい。ただし、省略はあります。むこうの山裾からあらわれる江ノ電の単線のレールが、浜辺をほぼ一直線に通って、停留所だって、エハガキには写っていただろうに。
 こまごまと面倒くさいものは無視して、二つの浜の、砂色のちがいを強調した模写でした。

 もう一枚は、土産物屋の包み紙の模写です。こういう地色の画用紙に描き、裏には「6ノ1 小沢信男N.O.」とある。縦28㎝、横37㎝ほどの大きめの画用紙ながら、包み紙には小さすぎる。つまり、こちらは縮小模写で、六年生のときの水彩画でした。

 鎌倉駅前には、土産物屋が軒をならべていた。その一軒の「からこや」から、なにを買ってきたのだろう。包み紙には「国産玩具 鎌倉彫 節句人形 漆器 寄木細工」の文字がならぶ。
 鎌倉彫のお盆や、寄木細工の小箱などが、わが家のそこらにあったものだが。エハガキも、このお店で買ったのかな。
「からこや」について調べてくださった方がいて、それによると、大正十四年(1925)に玩具店として創業した。上記の品々の「鎌倉みやげ」を商い、三代栄えたが。平成十九年(2007)に閉店された由です。
 してみれば、創業十四年目の包み紙ではないか、これは。

 なんで包み紙を絵に描いたのか。図画の時間の課題でした。
 図画・工作と音楽には、専門の先生がいた。図画の浅野先生は与太話が得意で、画題はたいてい自由画か、図案。勝手に描けばよくて大好きな時間でしたが。五年か六年生のころに、ふいに退職された。代わってきた小柄な先生は、写生また写生で、にわかにつまらない時間になった。
 ときにはクラス担任の先生が図画も受け持った。先生たちにも種々ご都合があるだろう。担任は高橋先生から、三年生以降は高野茂家という太った大柄の先生に代わり、そのまま卒業まで持ちあがった。
 その高野先生のときに、こんな課題がでた。お店の包み紙をつくってごらん、どんなお店でもいいから。
 ワァッと教室中が湧いた。興味と、とまどいと。いろいろ声があがるなかで、ハイと海老塚君が手をあげて言う。「ぼくは小沢君のお家のをつくります」。海老塚家は、わが家の車をよくご利用くださるお得意様の一軒で、仕舞(しも)た屋でした。その親しみで思いついたのだろうが、高野先生が言う。「小沢君の家に包み紙は要るかなぁ」。それはそうだ。
 とつぜんわが家が話題になって、恐縮しつつ、衝撃をうけていた。ひとくちに商売といっても、物品販売業とサービス業のちがいはある。ということに、このときいきなり直面した。おかげで記憶にきざまれて、こんにちに至る次第ですが。おもえばさすが商業地域の学校ではあったなぁ。

 記憶はここで途切れて、さて、どうしたのだろう。この場で描けない者は宿題でやってくる。ということで、この絵ができたのか?
 いやいや。あれは包み紙の創作という課題で、四年生ぐらいのことだった。この絵は、既存の包み紙の写生という、小柄な先生の課題だったのでしょう。

 六年生のこのとき、わが家はもう虎屋ではなかった。昭和十二年七月、四年生のときにシナ事変(日中戦争)が勃発。たちまちガソリン欠乏、翌十三年四月に近在の同業店たちが統合して、日東自動車という株式会社になっていました。車庫も統合されて、車も運転手もそちらへ移った。父は営業主から、会社員へ様変わり。朝から出勤するのでした。
 鎌倉への避暑も、五年生かぎりで、六年生からはもう行かなかったのではなかろうか。翌年の進学のための補習授業が、夏休み中にもありましたし。
 すると、この写生された包み紙は、さいごの鎌倉土産であったのか。
──作者敬白

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