八月九日のばん、ゆいがはまのうめたてで、花火をしました、ぼくも見にいきましたが中々やりませんでしたすこしすると、しゆっずどんと、空高く上りましたそれは、かはり星でした色色にかはりました、つぎは早うちでした、しゆっしゆっしゆっと上りましただいだい色のぼうが出ましたぼうのさきでどんとなりましたきれいなばらがさきましたこんどはしかけ花火でした、色色なものが上りました、つぎはしだれやなぎでした、ほんとうのようにきれいでした、すこし見てゐるうちにねむくなったのでかへりましたが花火のことばかりかんがへて中々ねむれませんでした。
これは、ひらがなで書いた最初の綴り方です。以後はすべてひらがな。どうやら当時は、第二学年からひらがなを教えて、九月の二学期から実習に入ったのだな。
あるべき句点がなくて、最後に一つだけマルとある。句読点が呑みこめていない状態は、以後も続きます。
はるか後年、山下清の『裸の大将放浪記』を通読した折に気づいたが、写真版でみる原文には、句読点も改行もいっさいなかった。日記もハガキも、用紙の右上から左の下端までびっしり書くのが通例でした。どうやら彼は、小学校低学年の綴り方の要領で、生涯を押し通したらしい。
この二年一組小沢信男の綴り方も、いくらか山下清的だぞ、と懐かしい気持ちになります。
当時は毎夏、鎌倉へ避暑に行っていました。漁師さんの家の離れの一間とか、どこぞを借りてひと夏をすごす。町場の子はとかくひ弱につき、せめて夏場は海辺で鍛える。というのが、一種の流行でした。
じつは銀座の隣町の京橋で、父の従兄の山田さんが日英舎という印刷所を営んでいた。同郷の一番身近な親類で、父はなにかと頼りにしていたらしい。山田家には六人の子がいて、やはり夏ごとに鎌倉へゆく。その山田家に、わが家は見習ったのでした。
某日、父は鎌倉へゆき、不動産屋の案内で二三の物件をみて、七月下旬から借りる契約をしてくる。ある夏は海辺に近い汐の香のつよい部屋で。ある夏は表通りに板塀をめぐらした家で。ある夏は江ノ島電鉄片瀬駅の裏手の、にぎやかな家だった。毎夏なじみのお家を借りる手もあったろうに、年ごとに環境が変わるのも、おもしろいのでした。
夏休みに入るや、母と子ども一同と女中さんと、全員の夏布団一式と鍋釜茶碗まで、大きな布団袋に詰めこんで、新橋駅からチッキ(鉄道小荷物)で送りだす。なかば引っ越しのような騒ぎでした。
その部屋へたどりつくと、おおかた一間に濡縁の庭付きくらいの部屋でしたが。狭いところでごちゃごちゃ暮らすのは生まれてこのかた慣れている。台所つきか、母屋と共用だったのか、炊事して暮らしだすと、肉屋や魚屋の御用聞きがまわってくる。顔見知りで、今年はこちらですか。よろしくね。などと母と挨拶している。
さっそく山田家と連絡をとり、両家で連れ立って、大仏さんなどへお参りにゆく。
山田家の六人の子は、みんな学区外の泰明小学校へ越境通学した。泰明学校の印刷物を日英舎も請負っていて、なにかと融通がついたのでしょう。長女はもう大人っぽいお姉さんで、五番目の子が、私と同学年でしたが、クラスがちがって彼は男女組の二組だった。
毎日、天候さえよければ、水着姿で浜辺へゆき、山田家のパラソルへ合流する。山田のおばさんは大柄の
子ども同士で波に乗り。砂浜のブランコを漕ぎ。私は泳ぎがへたくそで嫌いで、波うち際の砂遊びが大好きでした。
ヨシズ張りの休み茶屋が軒をつらね、そこの手漕ぎのシャワーはだれもが使えた。ヨシズの日陰から、波うち際までの広い砂浜が、日盛りには熱く、
あぁ、こんな思い出話は、きりもないなぁ。鎌倉ゆきは小学生のときかぎりの数年だったのに、なにか無尽蔵に楽しかった気がします。その後は諸般の事情で、避暑どころでなくなりました。
毎朝、浜辺へラジオ体操にゆき、遅刻しても出席のハンコさえもらっておけば、夏の終わりに褒美がもらえた。
昼のうちは海ばかりか、麦藁帽をかぶってトンボやバッタを追いまわした。もちろん少しは宿題もやった。
宵にまた浜辺へゆけば、歌唱大会や映画上映や、毎晩なにかがある。砂浜に立てた白布のスクリーンは、混みあえば裏側にも観客が坐りこむ。役者の着物の襟も、腰の刀も左右が逆になり、丹下左膳が右膳になるのだけれども。さほど気にならないのでした。
それにしても、この夏のあいだ、銀座のわが家では、どうしていたものか。父と、住込みの助手と、男手で炊事や洗濯をしていたのか。
おおかた、そうです。いや、女中のお姉さんが、おりおり銀座へもどっていた。母は終始鎌倉にいた。わりと悠然としていた。
日々遊ぶことばかりに熱中していたが。おもえば鎌倉暮らしは、母にとっても、おおいに骨休めだったのでありましょう、たぶん。
あるいは父にとっても案外に。父はなんでもできる人で、弱年で上京して新聞配達の住込みから叩きあげている。女房子どもが消えたにわか独身が、サバサバと気晴らしの面もあったのではあるまいか。つまり、やはり、親の苦労などをガキが気づかうことはないのだ。
二月八月は商売がヒマな時期だし、父もときに、稼業は番頭格の山口さんに託して、鎌倉へ一泊の骨休めにくる。
好機到来! この日こそ父にまつわりつく。浜辺には、軒をならべる休み茶屋のほかに、射的、楽焼き、ベビーゴルフ場などがある。それらを一度に全部とはいわない。父がくるたびにねだっていけば、夏ごとに全部が楽しめたのでした。
近年の鎌倉は、どうなのか。ときたま鎌倉文学館などへ季節はずれに行ったついでに眺めると、道路がやたらに整備され、砂浜は哀れに縮んでいる。これが由比ヶ浜!? 落ち目だなぁ。とはいえ、むしろ
一間貸しの風習などは、いまや昔。当世むきの滞在施設がさまざまに備わって、ますます盛大に賑わっておいでなのでしょう。花火大会も恒例らしい。
綴り方へもどります。
花火大会は当時も夏ごとにありました。おおかた舟から打ち揚げ、仕掛けのナイヤガラ瀑布などは火の粉が波間に散って壮観でした。この年は、あるいはこの年までは、埋立地でやったとみえます。
沖へむかって右手に、稲村ヶ崎の岬がせりだし、その山裾の広い埋立地が、いまは坦たる道路だが。当時は草
母にせがんで、はやばやと浜辺へきたものの、だいぶ待たされたとみえます。そのうち、しゅっずどんと、いきなりはじまった。
その日は八月九日であった。
『明治大正昭和世相史』の、昭和十年(1935)の頁には、この日の前後に次のような事項が並んでいます。
8・3 各学校へ「国体明徴」訓令される
8・12 永田鉄山少将、相沢三郎中佐に軍刀で刺殺される
9・1 第一回芥川賞に石川達三「蒼氓」
時あたかも、こういう世情国情であった。
それぞれに註を添えれば。この年の春に、従来の定説だった天皇機関説が、にわかに異端の学説とされ、その機関説を代表する美濃部達吉の著書は発禁になり、当人は不敬罪に問われた。それは起訴猶予になるが。そもそも昭和天皇は美濃部達吉を支持し敬重していたという。してみればむしろ不忠の輩どもの政府が、天皇主権説の「国体明徴」を宣言し、各学校へ、さよう心得よ、
当時、市ヶ谷の高台にあった陸軍省の軍務局長室で、局長の永田鉄山少将が刺殺される。軍部の権力争いが起こした事件で、統制派の中心人物を皇道派の将校が襲った。下手人の相沢中佐は秘密裁判で死刑となって消され、争いはいよいよ熾烈となる。戦争を任務とする軍の中枢が、ともに尽忠報国を唱えつつ刃傷沙汰におよぶ。あえて単純にかたづけるならばエリート派と民草派が、はでに抗争して天下を脅かしつつ、国の権力を握って戦争また戦争へなだれこむ。
そして十年後の敗戦を迎え、この市ヶ谷の高台で、極東軍事裁判がひらかれた。その後は駐日米軍司令部となって星条旗がはためいていたけれども。幾星霜をへたただいまは、防衛省の所在地です。
芥川賞は、こんな騒動のさなかに発足しました。第一回受賞作の石川達三『
当時この国の支配層は、中南米への棄民政策のかたわら、中国大陸へ満州傀儡国をつくり、さらなる武力進出を画策していた。
そうして、鎌倉は花火大会です。
まずは「かはり星」が夜空にいろいろに変化した。それから「早打ち」で、と次々に記しているけれども。ほんとうかね。
この綴り方は、二学期の教室で書いている。花火の夜からたっぷり一ト月は過ぎている。そんな以前の状景をこの二年生は、用紙の枡目にひらがなをならべながら、どうやら脳裡に再現しているらしい。
その再現によれば、「しだれやなぎ」のあともなおすこしみるうちに、ふいに眠くなった。熱心に見つめすぎてくたびれたか。部屋にもどって、しばらく気絶したように眠れば正気づく。寝床のなかで、また花火の様子をありあり思い浮かべて、眼が冴えてしまったのですなぁ。
この二年生が、いまの私は、いくらか羨ましい気がします。
その後、諸処の花火大会をみてまわった。両国の川開きの花火をみたのは青年期で。それが休止して、やがて上流の隅田公園と駒形橋下流の二ヵ所で再開されたころは中年で。それから多摩川の花火、荒川、江戸川、月島の花火、熱海の花火、などと諸処をみてまわるうちに、壮年から老年になりました。
隅田川の花火が、いちばん長いつきあいになります。いったん止んで再開したころが華であったかも。悪臭で死にかけた隅田川が復活の祝砲でもありましたから。その夜は辻々に縁台がでて、歩行者天国の道路にゴザをひろげた。川沿いの町々がいっせいに歓呼の声をあげるさまを、眺めてまわるのも楽しみでした。
ある夏は、隅田川べりの運動場に陣取ったら、風向きで火の粉やカケラまで降ってきて、アッチッチ。花火を浴びるたのしさでした。
そんな野放図が、だんだん消えた。川べりにビルがにょきにょき建ちならびだすにつれて、つまらなくなってきた。地べたで暮らす無数の
くわえて寄る年波。もう何年も現場には参りません。せめて谷中の寓居で、隅田川花火大会の音を愉しむ。高く打ちあげたやつの上半分ぐらいは屋根越しに、二階の物干場からみえます。東京湾の花火も音だけは聞こえる。ある年は大晦日にやたら音をひびかせやがった。真冬の花火なんて、打ちあげる連中も着ぶくれているんでしょう。
それにしても、打ちあげる花火の順序などを、いったいだれがおぼえるものだろう。まして一ト月後に、まがりなりにもくりかえして想起できるとは。初心とはこういうものか。
おもえばこの鎌倉の一夜が、わが花火見物史の事始めでありました。この二年生の頭を、撫でてやりたく存じます。