18,僕の弟
京橋區泰明小學校   
第三學年一組      
小澤信男      

 僕の弟は、きよ年の十月十三日の夜生れたばかりです、僕がその日に、兄さんとぐつすり眠つてゐると、なんだかごとごとと、音がするので、びつくりしてそつとのぞくと、おさんばさんがゐるので、またびつくりしてしまひました、さうして女中に聞くと「しづかにしなくちやだめですよ、赤ちやんが生まれましたよ」と、いつたので、またびつくりしました、僕はこれで三どびつくりしました、僕は男か、女かどつちか見たくなつたので、女中に聞くと、女中もまだわからないとみへて、だまつてゐました、すこしたつと、おさんばさんが、赤ちやんをだいてきました、見ると男の子でした、僕は男の子だとわかつた時には、天にものぼるほど喜びました、それからお湯にいれました、外の赤ちやんならいやがつて泣くはずなのに僕の弟はうれしさうなかほで泣きませんでした、お湯から出ると急に「おぎやアおぎやア」と泣きました、僕はお湯へ入るのが一番きらひで上ると氣がせいせいします、所が弟はそのはんたいで、お湯に入ると喜び、出るといやがるのです、僕はこの子はすこしかわつてゐるなと思ひました、すると女中が來て「もうお休みなさい」といつたが、僕はねたくなかつた、お母さんは、おくのへやでお休みになつてゐます、すこしすると僕もねむたくなつたので、ねどこの中へもぐりこみました、だがねむれません、赤ちやんはどうしてゐるか、心配だからです、僕はおきたりねたりしてゐました、そんなことをしてゐるうちに、とけいが三時のかねをうつた、僕はとうとうねむつてしまつた、ふと目をさまして見ると、まどから明るい光がもれてきました、僕は夜が明けるのが早いなと思つた、赤ちやんはお母さんと一しよに、すやすやとねむつていました、その赤ちやんは今敬三といふ名でみんなにかわいがられてゐます。
 上記の文章は、二年生のときの「つづりかた」とは、まず読点の打ちかたが違う。前年までの手さぐりみたいなでたらめさがない。歴史的かなづかいの間違いも「とうとう」は「たうとう」、「かわいがられ」は「かはいがられ」、「ねむっていました」は「ゐました」、ぐらいだ。一年の進学で、かなりに上達している。
 しかし。促音や拗音の「っ、ゃ、ゅ、ょ」の類は小さく書くのが自然だろうに、まったくそうしていないのは、小学三年のガキの仕業(しわざ)とはおもえない。当時の印刷物の慣例によるので、つまりこれは、印刷された文章でありました。

 当時、「東京毎夕新聞」という新聞があり、けっこうの古手らしく、昭和十一年十二月二十日号には第一万二千八百三十四号とある。三百六十五日で割れば三十五年と二ヶ月で、さかのぼれば明治三十四年頃の創刊となります。
 その昭和十一年十二月二十日号の、三頁目が全面「コドモページ」で、小学生たちの綴り方、習字、図画をならべた。読者勧誘対策に、新聞はおりおりこういうサービスの頁を設けるのだな。その現物が、もはやボロボロに変色しながら手許にある。折り目の切れかけたのを、そっと開いてみると、作品のおおかたが泰明小学校児童のもので、わずかに綴り方六本のうち二本が京橋小学校、習字九枚のうち一枚が下谷大正小学校とある。その「作品」欄のトップに「僕の弟」が載っているのです。学校・学年の肩書きつきで。名前も「小澤」と正字体で。
 五頁目が「江東版」で、本所、向島、江戸川あたりの記事を載せているので、下町向けの配達版だったのか。四頁と六頁は広告だらけ。「コドモページ」の下段は「どりこの」の広告で、大日本雄弁会講談社商事部発売の滋養飲料でした。

 東京毎夕新聞記者が、下町の学校をおとずれて、先生がたから提供された作品を、あれこれ按配してつくった頁にちがいない。綴り方はすべて改行も句点もなくて、促音拗音を小書きにしない。スタイルを統一していて、つまり記者の仕業でした。読点の打ちかたにも手が入っているのかもしれません。
 畳語(じょうご)の「ごとごと」「おぎやアおぎやア」の類は、下半分を「く」を倍に伸ばした記号になっているのだが。ここでは横書きにつき、やむなく文字を重ねました。

 十二月二十日といえば、二学期が終わる年の暮れだ。
 昭和十一年のこのころ、年表によれば十一月七日、永田町に帝国議会議事堂(現・国会議事堂)の落成式とある。その二日前の五日の項には、軍部提出の議会制度改正案にたいして、社会大衆党が反対声明を出し、斎藤隆夫ら民政党有志代議士も、軍人らの政治干渉を排撃、の決議をしたとある。二・二六事件をひとまずかたづけた軍部が、国政へ露骨な干渉をはじめていた。それに断固反対の動きも、あるべくしてあったのでした。
 その軍部は、満州国境から中国本土へ、小競り合いの戦火で勝ったり負けたりしていた。抗日運動がまきおこるさなかに、西安事件が発生。十二月十二日、西安へ行った蒋介石が張学良に監禁され、そこへ周恩来がきて、三者会談をする。国民党と共産党と内輪喧嘩をしているときか、対日共同戦線を張るべし、という趨勢だ。
 さらには、十一月二十五日、日独防共協定がベルリンで調印される。この年八月のベルリンオリンピックこのかたヒットラー人気が急上昇だ。十二月五日には、モスクワで臨時のソ連邦ソビエト大会がひらかれ、スターリン起草の新憲法が採択される。こうしてのしあがった独裁者ヒットラーもスターリンも、当時は救国救世の英雄たちでした。

 風雲急なる地球上ながら。目下は「東京毎夕新聞」の第三面です。
 学校に届いた新聞を、先生からいただいて、三年一組小沢信男は、たぶんびっくりした。同級の伊井義一郎君の綴り方も載っていた。「朝の宮城」と題して、毎朝走って宮城へ参拝にゆく。楠公(なんこう)銅像のところで犬連れの二人の大人が、犬を喧嘩させているのを見物して、走って帰宅し、それからたべる朝飯がじつに旨い。ということを、さすがは級長さん、てぎわよく書いている。伊井君の家は麹町区の米屋で、わりと宮城に近いのでした。
 三学年からは一組の担任は高野茂家という太った大柄の先生になって、六学年の卒業まで持ちあがった。その高野先生が、「僕の弟」と「朝の宮城」をえらんで、新聞記者に渡したのでしょう。

 わが家に持ち帰ると、八頁立ての中の四頁分だけを父はしっかり保存してくれた。「僕の弟」の周囲を赤いクレヨンで囲ってあるのは、ここを読めと、知り合いにみせびらかしたのではあるまいか。この無造作なクレヨンの跡は、父の手だ。
 私の文章が印刷された、これが(へそ)()切って最初であります。綴り方は得意科目だという自負が、このあたりから生まれたのであろう。以来幾星霜がありまして、ボロボロ新聞をひろげると、父のクレヨンの跡があらわれる。弱年より親に心配をかけ通した不孝者めが、しばし眺め、だまってたたみなおして袋にもどす。

 けれども、しゃべらねばなりませんなぁ、このさいは。この綴り方は、当時の出産の様子の、かなりナマな記録であります。あのころはおおかた誰もがこんなふうに、日々の住まいのなかで産まれたのだ。
 いや、ほぼ同年輩の友人にも、たとえばお茶の水の病院で産まれた、という連中もいますが。おおかた彼らはイイトコの子だ。上流ないし中流の上ぐらいの階級です。
 わが家では、奥の六畳間を産室にした。臨月となって、子どもらは手前の六畳で、兄と私、妹二人が、それぞれ一つ布団に寝たのだな。
 深夜だろうが産気づけば、産婆さんは駆けつけてくれる。この夜は、女中さんも住込みの助手も、寝るまもなしに台所で湯を沸かしたりしていたのだろう。いよいよとなって子どもらをたたき起こし、布団を脇へ押しやり、ゴザでも敷いて(たらい)を据え、にわかの産湯の場となった。
 時は昭和十年十月十三日の夜中。その様子を、ほぼ一年後に綴り方に書いたのです。

 女中、女中と、頭ごなしに書いているが。わが家の女中さんは歴代、山梨からきた従姉たちで、大きなお姉さん格だから、日頃こっちが頭ごなしにあしらわれている。会話からおのずとうかがえる通りです。
 父母には敬語を用いているが。わが家は日常いわゆる「ため口」の仲で、母が「お休みになっています」なんて、だれが言うものか。文章はよそ行きに書くものだ、という建前のままに鉛筆握ると気取っていたのだな。二年生のときも三年生になっても。

 赤ちゃんは男の子であった。みればわかる。うまれたばかりの丸裸だもの。そこで「天にものぼるほど」喜んだとは月並みな言い草だが。おぼえたての常套句を使うのも背伸びの一種でしょう。
 なぜそんなに嬉しいのか。日ごろ妹たち二人の跳ねっ返りにうんざりしていたのかな。兄も女中のお姉さんもいて、足りないのは弟だけ。それがあらわれた! 子分にしてやるぞ! そんな気持ちだったのだ、たぶん。
 夜が明けると、さっそく母の寝床へ、できたての子分を眺めにいったのでした。

 この弟の命名については、かなりしっかり記憶があります。父は氏神さまの日枝(ひえ)神社へ、安産の御礼参りをして、神主から名前の候補をいただいてきた。三男だから下は三ときめて、上にどんな字をのせるか。いくつかの漢字がならぶ紙をひろげ、父は、どうやら「欣」の字に惹かれる口ぶりでした。兄や姉になる子どもらを集めて相談したのです。
 小学二年生の次男坊が、つまり幼い私がだんこ異議を唱えた。それよりも「敬」の字がいい。なにしろ一の子分の呼び名だもの、「キンゾー」なんて軽っぽい、「ケイゾウ」のほうが重みがあるではないか。
 兄や妹たちは、どうだったのか。結果から推測すれば、多数決で次男坊の主張が通った。そうして「敬三といふ名でみんなにかわいがられて」育ったのでした。

 いまにしておもえば、三人目の息子を得て,父はよほど欣びだったのだな。生涯を通しても、「欣」の字が当たりであったかもしれません。やがて長男は放送界へ、NHKのアナウンサーとなる。次男は零細文筆業で生涯を通す。それぞれ勝手に進んでしまい、この三男こそが自動車業界へ、父が歩んだ道を継いだ。業界最大手の日本交通株式会社の総務部長を勤めあげ、系列会社の常務となった。
 そうして父の九十余年の後半生を、三男の一家がほぼ寝食をともにした。その最期も看取りきってくれた。この三男に、身勝手な兄たちや他家へ嫁いだ姉たちは、「敬」意を払わないわけにいかないのでした。

 

 この水彩画は、わが家の二階の、奥の六畳間の、かなりに忠実な写生です。裏にも表にもサインがないが、たぶん六年生のときだろう。
 水彩の絵具(えのぐ)を使いだしたのは、四年生からか。というのは、父が保存してくれた図画の束は、過半が一年生から三年生までのクレヨン画で、以後はふいに数が減る。慣れない水彩絵具でヘタクソで、保存する気が失せたのではあるまいか。思いあたるフシがあります。

 図画・工作と、音楽には、専任の先生がいた。音楽はいつも着物姿の女の先生で、ピアノを弾いて、歌を歌うだけの時間でした。図画・工作の浅野先生は、鼻の高い男前で、話がやたらおもしろい。遠足とか火の用心のポスターとかの課題や、図案とか、貼り絵のときもあるが、どれも思いつくままの自由画でした。勝手に描かせておいて、ウソみたなおかしな話を身振り手振りで語る。子どもらがゲラゲラ笑うのを楽しんでおられたのか。だんぜん好きな科目でした。
 その浅野先生が、ふいにお辞めになった。四年生のころだったか。代わりにきた先生は、小柄でちょび髭で、以後の図画の時間は、写生が第一となった。
 その先生は、通勤の電車のなかでも乗客たちをスケッチブックに写生して、それを見せびらかしてくれるのだけれども。扱いにくい水彩絵具で、水をこぼしたりしながら、目の前の壺や果物を写しとる作業が、にわかにつまらない時間になったのでした。
 とはいえ五年、六年と進級につれて、写生にも馴れてきたのだろう。父がわずかに残してくれた水彩画も、ランドセルと学帽を描いたのなどはまぁまぁのできばえです。
 そして、上掲の絵だ。
 まさにこのような部屋でした。右端の一段あがったところが床の間です。つきあたりの低い押入れは、その奥にもう一つ扉があって、あけるとガレージの屋根裏が見えた。なにかの折には出入りできる仕組みでしょうが、そんな事態はついになかった。
 その上の壁にかかるレーンコートは、父のものか。かなりよれよれにみえるのは、つまり写生がそれなりに上達した一例でしょう。

 部屋のなかの三人は、母、兄、弟です。それぞれについて語るまえに、その三人を照らす灯りについて。これぞ灯火管制の図であります。
 防空演習という行事があった。記録では昭和七年からはじまったとあるが、記憶にあるのは昭和十一年あたりから。その日は各戸から人手が集められ、バケツリレーなどの練習をする。電話ボックスほどの木造の小屋を作り、大通りに据えて火をつけて、たちまち燃えあがるのに消防ポンプで水をかける。
 桑原甲子雄(くわばらきねお)写真集『東京昭和十一年』に、その様子が撮られています。防護団(のちの警防団)の制服制帽ではりきる男たち、襷掛(たすきが)けでうんざり顔の女たち。
 小学校では、全生徒が教室に控え、「空襲!」のベルが鳴りひびくや、それぞれの机の下へすばやくもぐりこんだ。爆風で飛散するものからこうして身を守るつもり。次いで一同廊下へでて整列、右手を前に、曲げた肘に左手を添え、つまり前の子との間合いをとって、校庭へでる。そして校長か、退役軍人の防護団長の訓示を聞いて、おしまいでした。
 日が暮れると、家々の灯りが戸外に漏れていないか、防護団員が見張ってまわる。軒並みの商店が、それで商売になるものか。しかし一夜かぎりか、せいぜい二、三日のことだから、てきとうに灯りを落としてつきあっていたのでしょう。

 昭和六年九月の満州事変勃発このかた、中国本土のあちこちを空襲してきた経験からだな。どこに街があるか灯りが漏れると、空の上の敵機にたちまち見破られる、とのことでした。そして昭和十二年七月、当時の呼びかたで支那事変の、日中戦争へ突入このかた、灯火管制が日常のことになってきた。
 部屋ごとの電灯に黒いカバーをかぶせ、ふだんは白い笠の上にあげておき、いざ、となればサッとおろす。便所の灯りにもかぶせた。カーテンは厚手の、黒地っぽいものにする。そもそも電球が、さきの丸いところだけが透明で、裾は黒い製品も現れた。

 上掲の絵にもどります。部屋の様子が、夏でも冬でもない。六年生のときの絵なら昭和十四年の春か秋の、ある日の宵の口だ。当時はまだ空襲などケほどもないが、灯火管制に慣れきった様子ではないか。
 ちなみに、空襲警報が現実に鳴り響いたのは、太平洋戦争に突入後の昭和十七年から。ひんぱんに鳴りだしたのは、サイパン島陥落の昭和十九年夏以降。昭和二十年三月、四月、五月の大空襲のあとも、連日B29が偵察にくるから警報の鳴らぬ日はなく、灯火管制下の非常事態が連夜の常態でした。
 それが昭和二十年八月十五日の敗戦で、いきなり終わる。灯りも窓もあけっぱなしでいられる。なにもかもあけっぱなしみたいな、あんな解放感の日々は、もう二度とありませんなぁ。

 絵にもどります。日々に働きづめの母が、この部屋に座るときは針仕事に決まっていた、ような気がします。針立ての、平らな板のほうを座布団の下に挿し、赤い布を丸めた針刺しを立て、やおら縫い物にかかる。その針の穴に糸を通すのを、やらせてやらせてとせがんで、糸の先をちょっと舐めて通しては手伝った気になるのでした。
 母は、小太りで、色白で、丸髷(まるまげ)を結っていた。髪結いのおばさんが、さほど日をおかずに通ってくる。芝のほうから土橋を渡ってくるのをみつけると「カンカおばちゃんが来たよォ」と、子どもらが口々に母に知らせた。
 しかしこの絵では、束髪です。やはりもう戦時体制だったのだ。バケツリレーに丸髷ではねぇ。代わりにパーマネントの洋髪が大いに流行った。束髪も洋髪のうちだ。父より一つ年下で、この絵の当時は四十歳になるやならずでした。

 黒い座卓で勉強中の兄は、このとき東京市立芝商業学校の、たぶん三年生です。
 兄は勉強家でした。昭和十二年春に泰明小学校を卒業するときは、父の意向のままに商業学校へ進んだ。やがて家業の帳場を担うはずの身だもの。教科には「簿記」というのもあり、それに使う定規は、なぜか板ではなくて丸い棒なのだ。けっこう重くて、ふりかざせば喧嘩道具にもなりそうでした。
 この二年後に卒業をむかえて、兄は上級校への進学を望んだ。もともと進学のための普通中学校とちがって不利のはずながら、その分を猛勉強でおぎなった。そのときは世田谷区代田の家へ移っていたが、離れの四畳半の、勉強机の畳のところが兄の尻の熱で腐りかけたという。小沢家に語り継がれる伝説のひとつです。そして早稲田大学予科の高等学院に合格した。

 灯火管制下でも、やっぱり勉強していたんだ。この黒い座卓は、わが家の上等な家具で、来客用に父が備えたものだが、方便で勉強机にもなっていた。
 昭和十六年の夏に引っ越した世田谷の家は、畳敷きの玄関や板の間の台所もふくめて九部屋はあり、黒い座卓は奥の八畳間に据えて、ようやく本来の役目になった。
 本棚も同様でした。この絵では、左隅の畳にやや斜めに置かれているが、事実こうだったのにちがいない。壁にぴたりと据えると手前の窓側へはみだして、カーテンの()()てに不便だったのでしょう。
 世田谷では、玄関の脇の洋間に据えて、それなりの貫禄になった。このガラス戸棚に、岩波文庫や白水社の翻訳本などを、兄とともに買いならべてゆくのがたのしみでした。

 母と向きあい、アブチャンを着てちょこんと坐っている子が、弟の敬三です。兄も私も丸刈り頭だったが、末っ子の弟だけは髪をのばした坊ちゃん刈りでした。それがじつに可愛かった。ちゃんとそのように描かれていて、手前味噌ながらなかなかの写生力ではあるまいか。
 この絵が、六年生の昭和十四年に描いたのならば、坊ちゃん刈りのこの子は数えの五歳です。しかしもっと幼くみえるなぁ。
 あるいは五年生のときの作品だろうか。昭和十三年ならば、敬三は満三歳になるやならずだ。そのころに描いたのか。そんな気がしないでもないのです。
 というのは……。

以下は来月に。あまり長文になりますのも恐縮ゆえ。         ──作者敬白

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