〈最終回〉虎屋自動車商会

 小学生時代の綴り方の全文十七本と、それに関連する図画のご紹介は、前回をもって終わりました。もうネタ切れです。この間、ご笑覧くださいました方々と、おもいがけずこういう機会を設けてくださった芸術新聞社に、厚く御礼申しあげます。
 十七本の綴り方と図画たちのなかで、たびたび舞台となった虎屋自動車商会と、その一家を、ひとまとめに撮った写真があります。
 それをご覧にいれつつ縷々(るる)ものがたって、長めのあとがきというか、「私のつづりかた」最終篇といたします。

 上掲の写真は、撮影年月日のメモはないが、昭和十三年(1938)四月ごろにちがいない。虎屋自動車商会の消滅にあたり、小沢家が勢揃いの記念写真です。
 まずは右から、父と下の妹の節子。母と敬三。兄の義則。上の妹の栄子。そして信男。従兄で住込み助手の小林健一。従姉で女中の小沢美代子です。
 車は四台あるはずだが、一台はガレージの中か。まんなかのはやや旧型ながら、左右の二台は当時流行の流線型で、おそらく自慢の商売道具だ。それがよく写るように配置した。
 隣家の松竹理髪店の窓には、「皇軍萬歳」としるした日の丸型のポスターが貼られ、前年暮れの南京陥落当時のご時勢を示す。そして赤白青の広告塔が静止しているのは、開店以前の早朝を示します。
 手前は16番の市電のレールで、そのレールの間近、まだ閑散とした朝の大通りに三脚を立てて、この写真は撮影されたのでした。

 どうして虎屋が消滅するのか。昭和十二年七月に支那事変(日中戦争)が勃発するや、いきなりガソリンが払底する。統制されてわずかな配給では小店はやっていかれない。木挽町(こびきちょう)に二十三台をそろえた最大手の川鍋自動車商会を中心に、界隈の業界統合がすすむ。ついに虎屋をはじめ銀座七、八丁目あたりの四店も併合され、七十三台持ちの日東自動車株式会社が発足した。それが昭和十三年四月なのです。
 ちなみに、この日東自動車は、敗戦の昭和二十年末に日本交通株式会社となる。そしてこんにちもなお、日本交通の社長は川鍋さんです。創業者から三代目の。

 新会社成立の四月当時の、これは撮影なのだ。小沢家一同の身なりも、夏でも冬でもない。秋でもなくて、これは春着です。
 というのは信男の左胸にバッジが付いていて、これは副級長の印でした。学期ごとにクラスの選挙できめるのだが、四月からの一学期は伊井義一郎君が級長に、私が副級長に選ばれるのがほぼ恒例で、五年生のこの年もそうでした。
 いならぶ一家九人のうち、まんなかの兄が、すでにいちばん背が高い。商業学校の二年生になりたての伸び盛りでした。
 前回の図画に、ここでちょっと立ちもどります。あの灯火管制の六畳間にいる母、兄、弟の三人の、これが実物写真であります。似ているでしょう。あるいはこの年に描いたのだろうか、という気がしてくるのだが。
 いや、やはり、この一年後の写生なのだろう。兄はよりノッポになり、母は虎屋時代の繁忙が消えて、むしろホッとしていたのだな。灯火管制下ながら。

 つまり虎屋は、日東自動車の営業所にはならずに、小沢家の住まいになったまででした。表看板は、角に突きでた「トラヤ」のネオンの文字板をはずした。目立ちすぎるものね。ほかはこのままに過ごした。
 車たちは、やがて並木通りの市場跡に日東自動車の大きなガレージができて、運転手ごとそちらへ移った。父も、その営業所や、木挽町の本社へ通うサラリーマンとなり、肩書きだけは取締役でした。
 ガレージはがらんどうのまま。事務所もからっぽとなり、父は大工さんを入れて、畳敷きの部屋に改造した。この部屋へ、近所の一組の同級生たちが集まって勉強会やカルタ会に使ったりしました。
 こうしてなお三年ほどは暮らして、昭和十六年八月に世田谷区代田へ引っ越したのでした。

 写真にもどります。表看板の右横書きの屋号の上に、白塗りの大きな板が張ってある。いったいこれはなにか。
 じつはこれには「銀座ドライブクラブ」という屋号が、やはり右横書きで書かれていた。せっかく副業に掲げたものの、ほどなく挫折。さきごろ塗りつぶしたばかりの白さなのです。
 昭和十一年か十二年ごろ、国産の小型車ダットサンが大人気でした。この運転には免許証不要で、多少の心得があればだれでも乗れる。モダンボーイたち向けのレンタル屋が諸処に開業する。父もさっそく飛びついて、早いもの勝ち、ダットサンを三台そろえただけで銀座を代表するような看板をかかげた。
 開業にあたり、広告マッチをたくさん作って、銀座通りで配りまくった。一家総出で、もちろん私も勇んで手伝った。そのときの情景もドキドキする気分も、思いだせばよみがえる気がします。
 案のじょうお客はついた。けれども、結局は儲けにならなかったのでは。初心者にはベテランの運転手を付けねばならず。常連のモダンボーイたちもけっこう事故を起こしてくれる。当時のダットサンは、いきなりカーヴを切ると、ときにコロッと転げた。電話が入って、また転んだぞと現場へ引きとりに車を飛ばす。
 強引な開業ではありました。だいいちガレージは先刻満杯で、ダットサンたちは表通りに路上駐車。横の路地に置きもした。松竹理髪店や大塚自転車店に、さぞや嫌味を言われながら。
 よくもそれで認可になったものだが、国産奨励の時流には叶った。しかも昭和モダニズムにもぴったり叶った。

 おもうに満州事変このかたの軍需景気が、あのころ昭和モダニズムの最後の華を咲かせていた。エノケン、ロッパ、淡谷のり子、藤山一郎の「東京ラプソディ」。楽し都、恋の都、夢のパラダイスよ、花の東京の「銀座ドライブクラブ」。
 父は新事業の開拓期のつもりでいたのだな。とにかく始めて、軌道にのればさらに台数をふやし、ガレージもどこかに工面したかもしれません。
 ところが、支那事変が勃発するや「ガソリンの一滴血の一滴」。すべては戦力へ、遊楽に費やすとはなにごとぞ。もはや副業どころか、本業が危うい。
 見切りも早くて、ダットサンを手放し、看板を塗りつぶした。この白ペンキの下には、いうならば夢のパラダイスの「東京ラプソディ」が閉じこめられているのでした。

 そもそも虎屋は、いつどうしてここに生まれたのか。このさい、やや復習になるが、父の半生を手短に申しあげます。
 山梨の山奥の農家の、末っ子の五男坊に生まれた父は、この地でのわが身の行く末に見切りをつけた。高収入を(うた)われる新時代の花形の、自動車運転手になるぞと宣言して上京。品川で住込みの新聞配達をしながら、大森の自動車学校に通った。
 卒業し、営業所の助手として働きながら、大正九年(1920)に免許証を取得する。実技のほかに、自動車の構造などの筆記試験があり、運転就業規則の全文を暗記しておかないと面接試験で落とされたという。警視庁発行の「自動車運転免許証」の番号が1224号。つまり管下のドライバーとして千二百二十四人目だ。その程度の花形でした。ときに数えの二十三歳。
 当時は、車の所有者のみが免許証を取れたという。これには便法があったはずで、たとえば営業所のポンコツ車を頭金払ってひとまず譲ってもらい資格を取り、以後は高収入から月賦を納めているうちに、名実ともに一台持ちの運転者になった。

 大正十一年に、山梨県勝沼の葡萄作りの農家の娘と結婚。翌十二年(1923)九月一日に関東大震災襲来。新妻を実家へしばらく避難させ、自身は陸軍麻布連隊区司令部に雇われ、約三ヶ月働いた。
 このときの感謝状が、現に世田谷代田に居住する弟の家の廊下に、額入りで飾られていて、文面が妙に具体的なのですよ。抄出すれば、昼夜を分かたず晴雨を問わぬ劇務のなか「小澤ハ聊モ倦怠ノ色ナク常ニ快活ニシテ奮励努力周到ナル用意ト巧妙ナル操縦トヲ以テ些少ノ故障タモ生セシムルコトナク」しかも余暇があれば「書類ノ印刷発行等ノ業務ヲ手伝へリ」その功績は誰もが認めて「謝意ヲ表ス」という次第。
 察するにボロ儲けのチャンスを、三ヶ月も軍隊給与に甘んじたことへ、司令部はせめてお世辞で埋め合わせたのだな。しかしこのとき父は、じじつ快活に奮励努力したのではなかろうか。父にかぎらない、当時の運転手諸氏に、ほぼ共通の体験ではなかったか。

 話は飛ぶが、上野不忍池の弁天島にたちならぶ碑のうち、本殿の左の池畔(ちはん)に「東京自動車三十年会記念碑」というのがあります。この業界に三十年以上かかわった面々の名が百余名ずらりと碑面に刻まれ、父「小沢義詮(よしあき)」も入っていて、その碑文に曰く。「大正十二年の大震災では、汽車、電車などあらゆる交通機関が途絶した際、自動車のみは大活躍してその機能を発揮し、国民から大きな称賛と感謝を受けた」云々。
 昭和五十年(1975)の建立で、いかにも手前味噌ながら。高収入めあてに多年を過ごしてきたみなさまが、あのときこそは世のため人のために汗水流したなぁ、と半世紀を経てもなお共通の誇りにした。そういうことでしょう。
 震災直後は朝鮮人の大量虐殺と、無政府主義者暗殺などの陰惨な事件が渦巻いたが。焦土から復興の明るい足取りもあった道理でした。

 四ヶ月目からは、おそらく父も稼ぎまくった。おかげでほどなく名実ともに一台持ちの運転者になれた。そういう一台持ち同士が寄り合って独立の店をつくってゆく。虎屋自動車合名会社もその一例で、四人で設立した。大正の末年でした。
 正確に何年何月だったかは、あいにく聞き忘れてしまったが。当時、土橋(きわ)のここらは丸屋町といい、道幅も狭かった。その西裏通りに建ちならぶバラックの手ごろなのを借り、ガレージに改装して看板をかかげた。

 するとそこへ帝都復興の都市計画がやってきた。西裏通りはいきなり幅二十八メートルの、こんにちの外堀通りに化けて、それまで西の堀端を通っていた市電のレールが、まっすぐにここに敷かれる。
 通りの東側が、大幅に削られた。大通りに面するのは稼業にぜったい有利だから、虎屋もなんとかバックして割り込まねばならない。そのすったもんだへ重ねて、昭和二年(1927)の金融恐慌がおこり、次いで世界恐慌へ。
「おまえが生まれたころは、それは不景気でなぁ」私の誕生に話がおよぶたびに、父は嘆息まじりにこうつぶやく。私になんの責任があるものか。ぷっとむくれて、ついこの時分のことをまともには聞きはぐれたのですが。
 要するに、合名会社の四名のうち三名が、このダブルパンチに嫌気がつのった。いっそ自家用車の運転手に雇われたほうが気楽だぞ。故郷(くに)へもどってトラック稼業でもやるか。手放す車を、父はつぎつぎに借金しては買いとった。
 こうして個人営業の虎屋自動車商会が、この地に出現した。それから職住合体へ改築をめざした。

 大震災から七年目の昭和五年三月に、帝都復興祭が催された。同月に銀座の三十二町が、銀座八丁へ整頓される。丸屋町、八官町、日吉町あたりはまとめて銀座西八丁目へ。そうして同年、この三番地三号に、上掲の写真の総トタン張り、ガレージに住居付きの独創的な二階屋が落成した。
 そのくせ借地の借家でした。老舗の履物屋の地主と、関西料理店の家主に、代金を父の名代で息子の私が届けたことがあります。たいした金額ではなかったのでしょうが、そのときもふしぎに思った。よほど地上権が強かったのか。はるか後年に知ったことだが、あの八階建て本建築の松屋や松阪屋デパートにさえ、保険会社の家主がいた。当時はそういうものらしいのでした。

 父は、やがて本籍を山梨からこの地に移した。ここに根を据え、骨を埋め、稼業を子孫に伝えるココロだったのか。ときにこんなことを言った。「うちの本籍は、ほんとうはあの道路の上なんだ」
 西裏通りの一角に、合名とはいえ独立のしるしの虎屋の看板を、はじめてかかげたときこそが、裸一貫で上京してより達成のひとつの峠。その峠が父の目には、電車道の上に見えていたのでしょう。

 震災直後は、焼け残りの芝区芝浦に下宿していて、大正十三年九月にそこで長男が生まれた。やがて芝区南佐久間町の二階屋に移って、そこで昭和二年六月に次男が、同五年一月に長女が生まれた。そして銀座西八丁目に来てから、同七年四月に次女が、同十年十月に末っ子の敬三が生まれたのでした。
 ここに職住合体の、総トタン張りの虎屋自動車商会を建てたときが、二つ目の峠であったか。それが、わずか八年後に落城しようとは、たぶん夢にも思っていなかった。せめてはその姿を、記念撮影しておかずにはいられないではないか。

 撮影は、江木写真館にお願いした。電車道をへだてたお向かいにあった有名店です。五階建てほどで、土橋際の壁が丸く、モダンで明るい界隈でも目立つビルディングでした。現在は静岡新聞東京支社の、奇妙な黒いビルのあるところです。
 わが家のお得意様でもありました。このときは技師が、朝から三脚を路上へもちだして撮ってくださった。

 ときたまはビルの中のスタジオへゆき、記念撮影をおねがいした。母の兄の一家が満州撫順(ぶじゅん)からはるばる訪れてきたときも、両家そろって正装で。
 そのときソファのならぶ控え室で、壁にかかげた鋭い目つきの紳士の写真をみあげて、父がささやいた。「この人は偉いお方でなぁ。軍人を叱る演説をして、代議士をクビになったんだ」
 斎藤隆夫の肖像写真でした。かねがね軍部の専横と、迎合する政党の弱腰を批判していた斎藤は、昭和十五年二月に衆議院本会議で「支那事変処理を中心とした質問演説」をした。いわゆる反軍演説の、その内容は新聞が伝え、外国にも知られた。翌月、代議士を除名になる。だが二年後に、大政翼賛会が推薦候補をならべた総選挙では、非推薦ながら兵庫県但馬の地元でみごとに最高点当選、復職した。
 ということは後年に調べて知ったまでです。そのときは、なにかショックをおぼえたのだな。戦争に反対する人がいて、その人の写真を、こうして堂々と応接間に飾っているお店があるんだ。父も尊敬しているんだ。でも、そのお店のなかで、息子にむかって、どうしてお父さんは声をひそめるんだ。
 いまにしておもうに、それが自主規制ではないか。その自主規制の大群を、時流というのだろう。こういう父を、敬うべきか、逆らうべきか。

 このとき私は、すでに中学生でした。昭和十五年春に泰明小学校を卒業して、東京府立第六中学校に入学した。満州の伯父一家の来訪は、その年の秋ごろでしたか。
 この進学のコースも、父にはやや不本意なのでした。卒業がちかづいてクラス担任の先生が、父兄たちと面接してゆく。父の番がきて、帰宅すると、不機嫌そうに黙っている。どうだったのとしつこくたずねると、ようやく口をひらいた。工業学校へ上げたいと父が言うのに、高野茂家先生は、普通中学への受験をつよく勧め、とうとう説得されてもどってきたのでした。
 父の望みは、かねて承知です。長男に帳場を受け持たせるべく商業学校へ。次男はガレージの現場で立ち働くべく工業学校へ。そして虎屋自動車商会は発展してゆく。
 ところが、その虎屋がもう消えているのだから、いかがなものか。あるいは、戦争がかたづいたならば虎屋の復興を、ぐらいの腹づもりが父にはあったのではなかろうか。しょせんは夢にせよ。
 その夢が、はやくもほころびた。父の重い口吻から察するに、あなたの息子は工業よりも文業に向いていると、どうやら高野先生は語ったらしいのでした。

 あのとき工業学校へ進んだならば、それなりのむしろ異色な変化は伴いつつ、しょせんは似たり寄ったりの人生でしたろう。あの日より幾十星霜。山あり川あり谷間あり、トンネルの闇をくぐって広野原もあったりして、そうしてこんにちもなお、このような文を綴っております。
 語ってゆけばきりもなし。ここらでやめます。お読みいただき、ありがとうございました。そして、高野先生、お父さん、ありがとう。


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