ざっと八十年もむかしの幼い文章を、だらだらご披露しまして、恐縮でした。ひとまずこれにておしまいです。
せっかくの結びなんだが、読みなおして、ややしらけます。なにやら作為がある、笑いをとろうとするかのような。年端もいかぬガキのくせに。だがまぁ、それなりに記録ではありますので……。
節分の豆は、
豆まきは、やはり節分の宵が、ほんらいの
日暮れとともに、あちこちで声がきこえる。ならぶ商家の風習だ。むしろ農家の風習なのか。千葉県や、茨城県や、山梨県の農村出身のお隣同士が、負けじと声をはりあげる。
おりから雪がふっていた。物干台へゆく通路の大窓を、数えの十歳児があけると案のじょう吹きこんで、「えへっ」と悲鳴になって一同笑った。というのだが。
そもそも窓もあけずにだれが豆まきをするものか。吹きこむおそれのない裏窓を、父は目一杯にあけたのだな。背中合わせの家が木田さんという裕福な金貸しの住まいだから、福はそっちからくるだろう。鬼も一緒にくるかもしれない。そこで家の中へ「福は内」で、窓外へむけて「鬼は外」です。
上の妹が榮子で、数えの七歳。下の妹は節子で、数えの五歳。榮子は控えめで、節子はてきぱきと行動的な子でした。彼女らの生涯を通してみても、そうです。
このときも、やっぱり、だな。しかし、豆の取りっこをしたにせよ、自分らも豆まきをしてみたいまでだろう。父がまいた豆を、きゃっきゃとはしゃぎながら拾いなおして。
それから、年の数だけの豆粒を、あらためて渡される。義則は十三粒、信男は十粒、榮子は七粒、節子は五粒。その下に、生後四ヶ月の弟がいました。数え年ならそれでも二歳になるが、まさか乳飲み子に豆二粒は無用だ。
無病息災祈願の、この豆をかじって節分の行事は終わる。奪いあって食うほどのものではなし、ここらの記述がウソくさいのだ。
食べ物の取りっこは、それはふだんにありました。食パンを手に、アッお兄ちゃんあんなにいっぱいジャムつけてるぅ、とか騒ぎたてながら、ジャムの瓶がちゃぶ台の上を行ったり来たり。おかげで、おいしいものはなおさら食べきるのをためらう、という癖がついてしまった。
そんな騒ぎも節子がいちだんと声高にせよ、猿とあだ名をつけたおぼえはないです。ただし、姉をも負かす活発さを、猿、猿、とひやかすぐらいのことはあったのだな。節子は
「六じよう二ま」は二階の間取りです。そうだったのか。じつは二階は八畳間と六畳間だと、私はずっと思っていました。奥の間には床の間のへこみがあり、大窓も明るかった。梯子段をあがった手前の部屋は、
いや、待てよ。このガキの文章は、まるごと信用できるのか。ウソくさい箇所があるではないか。あるいはこのガキは、間取りなどには関心がなくて、いいかげんに書いたまでかもしれない。やはり八畳と六畳だったのでは? これは宿題としよう。
いや、しかし。この「つづりかた」も父の手で綴じ合わせられている。そのときに父は、これを読んだのではないか。読まないはずがないね。たいして手間はとらないのだし。とすれば、作為のくだりはともあれあからさまなまちがいは、直させずにはおかない人ではないか。やっぱり六畳二間だったのか。
便所は、二階に朝顔型の小便所、一階は小便所と大便所があり、そこへもまいたのだ。福は内はなかろう、鬼は外でしょう。
それから一階の四畳半にまく。階下に畳敷きは一間きりで、この部屋こそは、食堂、作業場、遊び場、なんにでも使われた。深夜には住込みの助手と、宿直の運転手の寝室になる。往来頻繁で、いちばん畳がすりきれたはずです。
その手前の廊下の、片方に台所、片方は事務所への扉。二階への梯子段もある。この廊下の棚にラジオがあって、大きく鳴らしておけば、四畳半でも台所でも事務所でも聞ける。
四畳半をはじめ、台所も廊下も、たぶん梯子段にもまいて。それから、おみせへ。
おみせ、とは事務所のことです。運転手たちの詰め所でもあり、父の机の頭上には、
そうしてかんじんのガレージにまく。福は内、鬼は外の大声をひびかせて。
二・二六事件勃発の寸前だ。阿部定の情痴の果ても、スペイン動乱も、黒豹脱出さえも、まだなんにも気づかない。ひしひしと鬼にとりまかれたようなご時勢なのに。そのほんの片隅の、節分の宵の報告記でした。
以上で、泰明小学校二年一組小沢信男の「私のつづりかた」は、おしまいであります。この間に、多少ともご覧くださいました方々に、厚く厚く御礼申しあげます。
おなごりおしくもありますなぁ。あつかましくもこのさい、アンコールの拍手をおねがいしたい。
ありがとう。パラパラと拍手が、いくらか聞こえたことにします。じつは、この翌年の小学三年生のときの綴り方が、たまたま一本だけ残っておりまして、題して「僕の弟」。
図画は六年生のときのまで多少は残っています。次回は、これらをご披露して、大団円といたしましょう。
では、またのちほど……。