17,豆まき
 きのふは、節分で、豆まきの日でした、僕は豆を、いるのを、てつだいました、いよいよくらくなって来ました、あちらでもこちらでも『福は内鬼は外』といふ聲がして来ました。お父さんが「 (うち) でもやりはじめよう」とおっしゃって、神だなからますを、おろしました、そうして「福は内鬼は外」といって大きな聲で豆をまきました、僕はますからすこし豆をつかんで物ほしの方へやらうと思ってまどを、あけたが、あいにく雪が降ってゐるので「鬼はえへっ」といってしまったので、みんながどっと笑った、お父さんが豆をまくたびに、妹の節子に榮子が「きやっ、きやっ」といって豆をひろふ、「あたいが先に見つけたのよ」「ちがふわよあたしが先だわ」と、いって、豆一つでもいゝからよぶんにたべようと思ってゐる、年下の節子はくひしんぼうだからひっかいて、とる、これには榮子も負けてしまふ、だから家のものは節子のことをさるさる、といっている、妹たちはへんなふくろへ豆をいれて「鬼わあ外、鬼わあ外」といって、家の中へ豆をまいています、六じよう二まを、まいて、べんじよ、四じようはん、おみせ、神だな、ガレージなどを、まいて、年のかずだけたべた
 この年も節分が二月三日だったならば、昭和十一年(1936)二月四日立春の教室で、これは書いております。そして、これがさいごの一本です。父が綴じ残してくれた泰明小学校二年生のときの「私のつづりかた」十六本の。
 ざっと八十年もむかしの幼い文章を、だらだらご披露しまして、恐縮でした。ひとまずこれにておしまいです。
 せっかくの結びなんだが、読みなおして、ややしらけます。なにやら作為がある、笑いをとろうとするかのような。年端もいかぬガキのくせに。だがまぁ、それなりに記録ではありますので……。

 節分の豆は、()って、(ます)に入れて、まず神棚に上げたのだな。わが家の二階には仏壇の横の長押(なげし)に神棚があり、ほぼ神仏混淆(こんこう)でした。
 豆まきは、やはり節分の宵が、ほんらいの出番(でばん)でしょう。現在は、どこの寺社でも昼日中に、地元の顔役に人気力士などをまじえて豆やら景品やらを盛大にまいていますが。
 日暮れとともに、あちこちで声がきこえる。ならぶ商家の風習だ。むしろ農家の風習なのか。千葉県や、茨城県や、山梨県の農村出身のお隣同士が、負けじと声をはりあげる。

 おりから雪がふっていた。物干台へゆく通路の大窓を、数えの十歳児があけると案のじょう吹きこんで、「えへっ」と悲鳴になって一同笑った。というのだが。
 そもそも窓もあけずにだれが豆まきをするものか。吹きこむおそれのない裏窓を、父は目一杯にあけたのだな。背中合わせの家が木田さんという裕福な金貸しの住まいだから、福はそっちからくるだろう。鬼も一緒にくるかもしれない。そこで家の中へ「福は内」で、窓外へむけて「鬼は外」です。

 上の妹が榮子で、数えの七歳。下の妹は節子で、数えの五歳。榮子は控えめで、節子はてきぱきと行動的な子でした。彼女らの生涯を通してみても、そうです。
 このときも、やっぱり、だな。しかし、豆の取りっこをしたにせよ、自分らも豆まきをしてみたいまでだろう。父がまいた豆を、きゃっきゃとはしゃぎながら拾いなおして。

 それから、年の数だけの豆粒を、あらためて渡される。義則は十三粒、信男は十粒、榮子は七粒、節子は五粒。その下に、生後四ヶ月の弟がいました。数え年ならそれでも二歳になるが、まさか乳飲み子に豆二粒は無用だ。
 無病息災祈願の、この豆をかじって節分の行事は終わる。奪いあって食うほどのものではなし、ここらの記述がウソくさいのだ。
 食べ物の取りっこは、それはふだんにありました。食パンを手に、アッお兄ちゃんあんなにいっぱいジャムつけてるぅ、とか騒ぎたてながら、ジャムの瓶がちゃぶ台の上を行ったり来たり。おかげで、おいしいものはなおさら食べきるのをためらう、という癖がついてしまった。
 そんな騒ぎも節子がいちだんと声高にせよ、猿とあだ名をつけたおぼえはないです。ただし、姉をも負かす活発さを、猿、猿、とひやかすぐらいのことはあったのだな。節子は申年(さるどし)でした。

 「六じよう二ま」は二階の間取りです。そうだったのか。じつは二階は八畳間と六畳間だと、私はずっと思っていました。奥の間には床の間のへこみがあり、大窓も明るかった。梯子段をあがった手前の部屋は、箪笥(たんす)などがあって手狭で、てっきり大小二部屋の印象でしたが。これぞ現場の証言だ。信用しよう。
 いや、待てよ。このガキの文章は、まるごと信用できるのか。ウソくさい箇所があるではないか。あるいはこのガキは、間取りなどには関心がなくて、いいかげんに書いたまでかもしれない。やはり八畳と六畳だったのでは? これは宿題としよう。
 いや、しかし。この「つづりかた」も父の手で綴じ合わせられている。そのときに父は、これを読んだのではないか。読まないはずがないね。たいして手間はとらないのだし。とすれば、作為のくだりはともあれあからさまなまちがいは、直させずにはおかない人ではないか。やっぱり六畳二間だったのか。

 便所は、二階に朝顔型の小便所、一階は小便所と大便所があり、そこへもまいたのだ。福は内はなかろう、鬼は外でしょう。
 それから一階の四畳半にまく。階下に畳敷きは一間きりで、この部屋こそは、食堂、作業場、遊び場、なんにでも使われた。深夜には住込みの助手と、宿直の運転手の寝室になる。往来頻繁で、いちばん畳がすりきれたはずです。
 その手前の廊下の、片方に台所、片方は事務所への扉。二階への梯子段もある。この廊下の棚にラジオがあって、大きく鳴らしておけば、四畳半でも台所でも事務所でも聞ける。
 四畳半をはじめ、台所も廊下も、たぶん梯子段にもまいて。それから、おみせへ。

 おみせ、とは事務所のことです。運転手たちの詰め所でもあり、父の机の頭上には、(とり)の市の熊手と、安全祈願の神棚がある。ここでしっかり豆をまく。神棚にもまいたとみえます。
 そうしてかんじんのガレージにまく。福は内、鬼は外の大声をひびかせて。
 二・二六事件勃発の寸前だ。阿部定の情痴の果ても、スペイン動乱も、黒豹脱出さえも、まだなんにも気づかない。ひしひしと鬼にとりまかれたようなご時勢なのに。そのほんの片隅の、節分の宵の報告記でした。

 以上で、泰明小学校二年一組小沢信男の「私のつづりかた」は、おしまいであります。この間に、多少ともご覧くださいました方々に、厚く厚く御礼申しあげます。
 おなごりおしくもありますなぁ。あつかましくもこのさい、アンコールの拍手をおねがいしたい。
 ありがとう。パラパラと拍手が、いくらか聞こえたことにします。じつは、この翌年の小学三年生のときの綴り方が、たまたま一本だけ残っておりまして、題して「僕の弟」。
 図画は六年生のときのまで多少は残っています。次回は、これらをご披露して、大団円といたしましょう。
 では、またのちほど……。

 

 画面の左に「二ノ一小沢信男」とサインがあり、さては上掲の綴り方「豆まき」と、ほぼ同時期に描いた図画であります。
 画面中央の、うしろむきの二人の童女は、榮子と節子でしょう。枡をかかえているのは、兄の義則だな。父は夏の盛りにさえ半ズボンなどは穿かない。身なりはいつもきちんとしていました。
 黒い炭でもまいているみたいだが。畳と襖を、豆と同じ黄色に塗ったものでやむをえない。黒い点々が豆なんだとお察しください。
 てっきり綴り方「豆まき」の挿絵のようですが。じつは、そうも言えない。第一に、この部屋の広いことよ。四枚襖の左右に壁がひろがり、すくなくも十二畳ほどはありそうな。すなわち、わが家ではないのでした。

 わが家に扁額などがあるものか。そのくせ、上等な部屋には付きものだと、なぜかこのガキは心得ていた。文字は小学校の講堂の、東郷平八郎筆の「忠孝」で間に合わせた。
 襖絵は、蓮池でもあろうか。かなり大胆な構図のようです。わが家の二階の間仕切りや押入れに、襖は何枚もあったけれど、おおかたあっさりした柄か無地でした。

 神棚は、右上に大きく描いた。わが家の神棚には白木で横長の(ほこら)のミニチュアが置かれていたが。この棚の祠は仏壇のようにもみえます。
 なによりおかしいのは、その下の丸窓と、勉強机だな。これこそ絵に描いた明窓浄机(めいそうじょうき)ではないか。丸窓のむこうは、廊下か、いきなり庭だったりするものではないのか。すると並びの四枚襖のむこうは、なんなのか。
 たぶんどうでもいいのでしょう、そんなことは。「福は内」にふさわしいような部屋を描いてみたまでだ。前回の「年始廻り」のときの絵と同様に、セット仕立てなのですな。いったいこのガキは、こんな道具立てを、どこで仕入れたものだろう。
 日頃は勉強机どころか、宿題はちゃぶ台でさっさとかたづけていた。勉強なんか教室でやってくればいい。おおかたそんな料簡でいたはずなのに。
 そのじつ、こんな明窓浄机が、やっぱりあこがれだったのかなぁ。机の抽出(ひきだし)のあたりが、とりすましてなにくわぬ目付きのようでもあります。

──作者敬白

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