16,年始廻り
 一月三日は年始廻りなので僕と兄さんでおともをした、兄さんはかたへてぬぐひのつゝんであるふろしきをかけて、僕はふろしきからてぬぐいを出して、お父さんにわたすのだ、僕ははじめてやるのでとてもうれしくてたまらない、僕がお父さんにわたすと、家へはいっていって「お目出度たうございます」といってわたします、僕は始だけうれしくてだんだんはずかしいきがしてきました、五十家まはって又僕の家へ帰って五十枚持ってきました、こんどは芝の方へゆきました、兄さんは、きまりがわるいと見へて、早くなくなればいいやうな顔をしてゐましたそのうちに、お父さんが「浅野さんの家へ行ってそれをおいてきな八木さんの家へ先に行ってるよ」といったので、二人で浅野さんの家へてぬぐいを持って二人で「お目出度うございます」といって戸をあけたら、おばさんが出てきて、「あれ義則ちゃんに信男ちゃん二人できたの」とおっしゃってほめてくださいました、そうして南京豆を持ってきて僕たちにくださいました、それから八木さんの家へいったらとてもきれいでした、八木さんの家を出て三四家廻って僕の家へ帰って兄さんと五石並べをした。
 年あらたまって昭和十一年(1936)一月、三学期はじめの綴り方です。当時は年齢は数え年で、正月元日をもって日本全国いっせいに一つ歳をとった。昭和二年(1927)六月生まれのこの少年は、数えの十歳となりました。
 洋数字なら二桁へ、大人の世界へ一歩を進めたようなものだ。そこで父親の年始廻りを手伝う。その初体験の記であります。

 この年は、大ニュースがいくつも生じた。二月には二・二六事件。陸軍の皇道派将校たちが部隊を率いて重臣たちを殺害し、永田町一帯をしばし占拠する。このクーデターはほどなく鎮圧されたが、東京市には戒厳令が敷かれ、首謀の将校たちが処刑される七月までつづいた。そのさなかの五月に、阿部定(あべさだ)事件という珍事が天下の耳目をにぎわした。
 さらに七月にはスペイン内乱が勃発。同月の二十五日には上野動物園の黒豹(くろひょう)が檻を抜けでて姿を消した。八月にはベルリン・オリンピックが開かれ、日本選手がかなりに健闘する。十二月には中国で西安事件、蒋介石が張学良に一時監禁される。

 などなど、内外ともに物騒きわまる情勢ながら。ただいまは、そんなニュース以前のお正月です。大店(おおだな)はほんものの門松を立て、そこらの店は枝葉のついた竹に松の枝を添えた簡易門松を軒ごとに立てならべる。一列ならびのにわか竹林がざわざわと寒風に鳴るのが当時の街場の、暮から正月松の内の風景でした。
 そこらで羽根つきの音がして、晴れ着姿がちらちらして、年始廻りの人々が往来する。わが虎屋自動車商会の親子三人も、その一組でした。

 兄は、数えの十三歳になった小学五年生。長男だもの、手伝うのは当然だ。年賀の熨斗(のし)紙にくるんだ手拭いを五十本、風呂敷につつんで、胸にかかえて、(たすき)のように肩で結んだ。
 そこから一本ずつとりだして父にわたすのは、兄自身がやればいいことだ。前年まではそうしていたはずの手順を、新参の次男坊へあてがった。次男にもそろそろ家業に慣れさせる父の心づもりでしたか。
 このガキは、目新しいことにはすぐに飛びつく。なんでもおもしろがるタチだ。そのうち気分が変った。うれしい、から、はずかしい、へ。
 これまでの綴り方はおおむね、たのしかったことを書いております。またはつまらなかったことを書いた。どちらかが主題だ。ところがこのたびは、気分の変化が主題ですな。文章表現として、これはひとつの進歩ではあるまいか。

 年始廻りは、地元のお得意さまからはじめる。銀座八丁目、七丁目……。料理屋に、芸者置屋に、見番(けんばん)もある土地柄だ。足袋屋や、袋物屋の老舗に、織物問屋に、写真館に、弁護士事務所もあるが。とにかく五十軒は廻りきった。
 お得意先ごとに、小柄な父が、ぺこぺこ頭を下げながら出入りする。そのあとを荷をかかえた十三歳と、十歳児がついてゆく。なんでそれがはずかしいか。よしんば同学年の三組の女の子に見られたって。
 現在の私は、だんことしてそう思うが。幼い当事者としては、じきにきまりわるくなってきたのでありました。

 いったん家にもどって、また五十本包みなおして、こんどは芝区へゆく。はずかしがりながら、十歳児のほうは半面やはりおもしろく、いそいそ土橋(どばし)を渡ったのではないか。荷をもたされる十三歳のほうはうんざり顔にせよ。
 烏森(からすもり)芸者街など、お得意さま廻りのほかに、ここらは父母が世帯を持った土地だから、商売抜きの知り合いもある。
 格子窓の二階家がならぶ裏通りの、あの家やこの家を、父や母のお供でおとずれたことが、そういえば再三あった気がする。おおかたいまや忘却のかなたながら。この日は、小さな玄関先で年賀の挨拶をして、南京豆をいただいたのだな。
 八木さんの家は、おそらく浅野さんの家よりも大きくて、玄関に、正月らしい飾りつけがされていた。それがとてもきれいに見えたのでしょう。
 それからさらに三四軒を廻って、帰宅した。やれやれ。お役目すませた兄弟は、五目並べをして遊んだ。五石並べと書いたのは、覚えたてだったのか。白か黒の碁石を五つ、さきに並べたほうが勝ち。目なんかを並べるのではないものね。

 浅野さん、八木さんと、わが家はどんなご縁だったのか。父に訊ねればあっさりわかることが、とうの昔に亡くなっている。もはやどうにもならない。
 このての不如意はときおり生じて、そのたび不当な思いにさえなる。すると生前の父の、ふとした仕草がよみがえる。この年始廻りの一齣さえ。年賀の手拭いを兄が風呂敷からひきだすのを、うばうように摑みとり、先をゆく父に走りよって手渡す。その父の温かい手……。
 このとき十歳児は、まったくきまりわるがっていない。後年の私が修正をほどこした記憶でしょう。それにしても、昭和十一年一月三日、新橋のとある裏通りでの一瞬の情景が浮かぶ気がするのも、この綴り方が残っていたおかげであります。
 この年から、私の記憶は、じじつ一気に増大します。二・二六事件。阿部定事件。忘却のかなたから、スイッチを入れれば浮かびあがる、あの日々の些細な状景たちよ。

 

 この絵の裏には「三ノ一 小沢信男」とある。三年一組の意で、してみると、前掲の綴り方からちょうど一年後の、昭和十二年正月の作品です。

 これは写生ではないね。大通りに面して、(たこ)揚げもできるこんな広場が、銀座界隈にありはしない。羽根突き、凧揚げ、独楽回し、お正月らしい状景を、てきとうに配置するためのセットのようなものです。
 それらしくできてはいる。右角に出入り口があり、柵の外は歩道で、いましも大通りには初荷のトラックがさしかかる。正月二日の光景なんだ。

 このトラックは、積みあげた初荷に幟旗(のぼりばた)を盛大に立てて、上乗(うわの)りの人がバンザイと気勢をあげている。
 いや、待てよ。むこうの乗用車には、運転手と客の人影を描きこんでいるのに、トラックの運転台は、からっぽではないか。さてはこの上乗りが運転手なので、道ばたに停めて荷台に登り、広場で遊ぶ子らに、オメデトオーと呼びかけているのだな。
 まさか、だいじな初荷のさなかにばかげてるぞ。と言ったって、これはセットですからね。演出は自在なので、そのくらいは造作もないやつなんだ、この絵の作者は。

 広場で揚げている凧の、一つは龍の文字で、もう一つはたぶんダルマの絵です。男の子たちが制服制帽の正装で遊んでいるのも、正月なればこその演出だな。ダルマの凧を揚げてる子は、落とした帽子を拾うまもないのだ。
 女の子は一年中ハデな姿だから、羽根突きのお姉さんたちはこれでいいのでした。

 凧揚げは、銀座の裏通りでも、できなくはなかった。どのみち高く揚がりはしない。龍の凧の子のように後ろを見つつ走って、しばし浮きあがるのをたのしむ程度でした。
 日比谷公園の広場へいけば、たっぷりの大空があるが、その空にはすでに高々と凧が泳いでいる。たいてい大人たちが上手に揚げているので、へぼなガキどもが出る幕はないのでした。  

 ある年の正月、日比谷公園で、小学生がつくった凧の展示会があり、泰明小学校から出品されたなかに私の凧も入った。五年生のころだったか。
 竹ヒゴの組みたてからはじめたのか。それとも紙を貼った凧の下地をもらって、絵を描き、凧糸を結びつけたのだったか。てっぺんのヒゴに反りをつくり、その両端と、まんなかと、下方の左右と五ヵ所に糸を結び、たばねて、ぐっとしごいて凧の中心よりもやや上にまとまるように按配しなければ、凧はすなおに揚がってくれない。
 そのくらいの作業は、当時の小学生はやってのけた。できなければ幅が利かない。私の凧は、たぶん、青と赤の絵の具で雲間をのぼる朝日を描いた。

 この凧は、飾られるだけで終わった。展示会が閉じてもどされたときには、もう正月がすぎていました。東京市の行事だったとみえて、市から褒美をもらった。上野動物園の入場パスで、二月の一ヶ月間は有効の、しかも数人で入れた。
 級友をさそって、さっそくでかけた。いまの都美術館のところが、当時は正面に大階段のある東京市立美術館で、その裏道に、動物園の正門はあった。大きな鉄柵の門はおおかた閉じていて、脇のくぐり門を入った。
 入った広場に、孔雀(くじゃく)の檻があり、右の方へ鳥類の檻がつづく。まだ西園はなくて、モノレールもなし、東照宮の脇の五重塔も取りこんでいない。おもえばこぢんまりした園内でしたが。そのくせ当時はライオンがいた。カバも、キリンも、ラクダも、白熊も、オットセイも。あれこれ堪能して一回りしたあたりに、いまもかわらぬ猿山が、いつ来ても、いっぱいの人だかりでした。
 しかしこのときは、閑散としていたはずです。厳寒のさなかの不景気な二月だもの。この月にかぎり何度でも数人で入れるパスが、ご褒美にでるのも道理なのでした。

 この動物園の黒豹脱出事件はどうなったか。それを申しあげてこの項を終えます。
 昭和十一年七月二十五日の早朝から、ラジオが臨時ニュースをくりかえした。黒豹が檻の隙間を脱けだした。行方を捜索中です。本日は休園です!
 警察の特別警備隊が出動し、猟銃持った猟友会も加わって、ものものしい捜索と警備にあたる。街々に新聞の号外の鈴が鳴った。そのうちラジオがこう伝える。黒豹は昼間はひそんで動かず、夜間に行動するが、人間にすぐ飛びかかることはない、棒などを差しだせば、それに向かってくるものです。
 そう言われても、なおさらヤバい。とりわけ動物園周辺の街々はパニックを呈した。銀座のはずれでさえも、十歳の少年はおびえていました。おかげでこの臨時ニュースをいまに忘れない。危急のさいに報道は、気休めみたいなことを言うものですなぁ。
 昼過ぎに、黒豹は、市立美術館わきのマンホールにひそんでいるのが発見された。さっそくそのマンホールの上に檻をそなえ、暗渠(あんきょ)の先をふさぎ、手前からいぶり出しにかかったが、効き目がない。そこで暗渠の形の楯を急造して、トコロテン式に押し出すことにした。若い屈強なボイラーマンが、その楯を持ってもぐり込み、ついに追い出しに成功、黒豹は備えの檻にとびこんだ。ときに午後五時半。未明より、ほぼ終日の騒動でした。

 その七年後、戦時下の昭和十八年に、上野動物園は、ライオン、熊、豹など猛獣二十七頭を、命令によって殺処分する。きたるべき空襲の危機にそなえて。この処置の一因に黒豹脱出事件があったといいます。

 それからさらに幾星霜。敗戦の焼け跡から復興した上野の街に、昭和三十四年五月タウン誌「うえの」が創刊される。
 たまたま縁あって私は、フリーの同誌記者として、糊口をしのぐ身となった。街筋や寺社の由来などを折々に取材してまわるうちに、かつて黒豹事件のときに追い出しの大任を果たしたボイラーマン氏が、動物園に永年勤続中と聞いた。
 さっそく、その原田国太郎氏を、職場のボイラー室にたずねた。大柄の、あかるいおじさまでした。特大の鍋蓋のような即製の楯をかまえて、暗渠を進んでゆくと、黒豹が何度もその楯に飛びかかってきたそうです。ひるまずさらに追いつめたのは、さすが地元の素人角力大会で大関を張る腕っ節だった。
 ボイラー室の椅子にゆったりかまえて、笑顔で語られたのだが。結局これを、記事にはしなかった気がします。地元にはよほど不祥事だった黒豹事件を、いまさら蒸しかえすにあたらなかったか。せめてここに、こうして書き留めておきます。

──作者敬白

↑ページトップへ