15,ゑんそく
 十二日は、たのしいゑんそくでした、九時に學校を出て、ゆうらくちょうから山手せんで、はらじゅくまでいきました、はらじゅくから明治神宮をさんぱいして、代々木八幡までいくとちゅう、富士山が見えました、雪のばうしをかぶつてかすみのすそをとほくひいてきれいにおけいしゃうをしてぼくたちの方を見てゐるやうでした、代々木八幡へついて代々木八幡のお宮を、おがんで先生が代々木八幡のおはなしがありました、このお宮はこの代々木ぜんたいを、おまもりくださってゐるそうです、いよいよおいしいべんとうをたべるころになりましたぼくはおにぎりでしたおにぎりを、たべたらとてもをいしかった、かきもかじった先生がすこしあそんでもいいとおっしゃったらみんながわあといって、おもてへ、とびだしたぼくも、出たみんなのゐる所へいったら、どんぐりをとってたぼくもとりはじめた、あっちへいったり、こっちへ来たりして方々でどんぐりをとってゐたら、先生のふえがなりました、みんながかへるしたくをして、代々木八幡のお宮の前へあつまった代々木八幡を、おまいりして、かへりは、おだきゆうでかへるとちゅうぼくは立ってばかりゐた、しんじゆくでおりて、しようせんでゆうらくちょうまでかへった、ゆうらくちょうから學校までかへるうちぼくに戸田君に中島君に米本君はとてもほめられた學校から家へかへるまでとてもゑんそくのことばかりかんがへてゐた。
 泰明小学校二年一組小沢信男の、遠足の綴り方は二本あって、一本は第八章の「ヱンソク」で、カタカナ書きでした。遠足の前日のことのみ書いて終わったが、このときの行き先は小石川植物園、一学期の初夏でした。
 二本目のこのたびはひらがなで、朝の出発から帰校までを、わりとまともに書いております。さすがは二学期の成長ぶりだ。読点のでたらめなどはあいかわらずながら。
 いきなり十二日とあるが、おそらく十一月か。どんぐりがいっぱい散らかっていた晩秋の一日でした。

 それにしても。遠足を歴史的仮名づかいで「ゑんそく」と書くのだとは、現在の私はまったく忘失、八歳児のガキにいまさら教わります。
 ただし、有楽町は「いうらくちやう」と、歴史的仮名づかいでは書くはずだ。それを八歳児は、当時すでに現代かなづかいで平然と書いている。
 先生は、性急には干渉なさらない。きちんと×点をつけているのは、「いる」「いた」の類で、基本語から身につけさせるご指導なのだな。そこでこのガキは、消しゴムで消して「ゐる」「ゐた」と書き直している。
 先にも申しあげたことだが、二年生の綴り方十六本を通して全文そうなのです。先生も根気がいいが、ガキのほうも、指摘されるたびになおしながら、鉛筆にぎっていざ書くときは、やっぱり「いる」「いた」になる。どうしようもなくそうだったらしい。歴史的かなづかいの意義や価値はともあれ、現代かなづかいのほうが本来よほど自然でしょうなぁ。

 この日、泰明小学校の二年生一同は、原宿駅から明治神宮の表参道の玉砂利を踏んで、本殿に参拝した。それからたぶん西参道へむかった。
 当時は、いまの代々木公園は陸軍の練兵場でした。立入り禁止だからそちらへは行けない。ただし、広いでこぼこの野っ原での、兵士たちの訓練ぶりを見学できる場所がありました。この遠足より後年のあるとき、父に連れられて見学した。その逐一をいまに忘れない。
 分隊長の目の前で、兵士が一人づつ、凸凹(でこぼこ)の土地の凹へまず飛びこんで身を伏せる。手榴弾の安全ピンを抜き、その先端を石塊か自分の鉄兜に叩きつけて点火させ、一二三と数えるほどの間を置いて、おもいきり前方へ投げる。それはただちに破裂するだろう。跳ね起きて、剣付き鉄砲を小脇にまっしぐらに突撃する。
 そのさまが目に焼きついたのは、日本男児たるからはいずれはわが身のことですから。おもえば素朴な肉弾戦の訓練でした。やたらと火器が発達したらしいこんにちの自衛隊の、米軍と共同の訓練はいかがなものか。よっぽど違うはずだけれども、しょせんはおなじ、いのちがけか。
 もう一つ。便所へ行くと、大便所に扉がない。腰板をまたいで入ってしゃがむ。ほぼ丸見えで、兵舎の便所はこういうものなんだと、幼い肝に銘じたのでした。

 この練兵場は、敗戦後はアメリカ占領軍の住宅地ワシントンハイツとなりました。でこぼこの芝生の諸処に、ペンキ塗りの小住宅が散在していた。一見羨ましい風景ながら、いよいよ立入り禁止でした。
 その後に代々木公園となって、こんにちではバード・サンクチュアリ以外は万人の立入り自由なのは、まことに慶賀であります。

 遠足へもどります。西参道から小田急沿線へでたあたりで、富士山がみえた。かなり裾のほうまでみえたらしい。さすがは郊外だ。
 大江戸このかた東京の町々は、ほんらいがひらべったくて、富士山がみえる土地柄だったのですな。西むきの富士見坂は諸処にあって、日暮里諏方神社前の富士見坂などは、つい先年まできれいにみえていた。
 街場育ちの八歳児は、どうやらこのときはじめて遠見の富士山をみた。エハガキなどでみるのとさほど変わりはないが、とにかくほんものだ。そこでその感銘をあらわすべく、雪の帽子とか、霞の裾とかをならべたてた。この箇所に、先生は赤鉛筆でマルをつけてくださっているが。なにやら平凡な形容句の羅列で、努力賞でしょうか。

 代々木八幡宮が、この日の遠足の目的地だった。到着して、はじめてわかった。先生が、この代々木のあたりぜんたいの鎮守のお宮だと教えてくださった。
 ハタと気づくが、この日一同はまず明治神宮に参拝している。そこで先生の、いくらか長々しいお話が、かならずやあったはずです。なにしろ明治神宮だもの。こっちがむしろ本命だったのではないか。だのにこのガキは、まったくそれは飛ばしている。なぜか。
 察するに、明治神宮へはとっくに来ていた。父親が車に家族一同をのせて訪れていたにちがいない。大正九年(1920)に創建されて、当時まだ十五年目の東京新名所ですもの。
 それよりも富士山や、代々木八幡宮や、はじめて出会うもののほうへ、八歳児の心が動いた。そこで鉛筆にぎって、それを書いた。

 ほどなく昼の弁当となり、しばしの自由時間となる。当時、ここらは諸処に雑木林がひろがっておりました。
 遠見の富士山と。弁当のおにぎりがよほどおいしかったこと。そしてどんぐり拾いの三つが、この遠足の目玉であった。どんぐりは日比谷公園でもみつかるはずだけれども、拾いまくり放題なのが、やはり初体験だったとみえます。

 帰りは小田急電鉄で新宿駅へ。そこで省線へ、いまのJRに乗りかえて、有楽町へもどった。
 駅から学校までの間に、四人がとても褒められたというが、なんだろうか。おおかた一同疲れはてて四列縦隊がずたずたに乱れるなかで、たまたまこの四人組が一列横隊で揃っていたのかな。たぶんその程度のことでしょう。
 戸田君と米本君は既出ですが、中島君は、六丁目の老舗の割烹中嶋の、次男坊でした。気の強い男前の子だったが、意外にはやくに亡くなられた。

 あれやらこれやら、往時茫々(おうじぼうぼう)ながら。
 このとき生まれてはじめて行った代々木八幡という土地に、その後にもいささかのご縁がありました。他事ながら、書き添えておきます。
 遠足から九年後の、昭和十九年(1944)の秋。東京都立第六中学校の三年生一同は、勤労動員で防空壕造りに狩りだされた。その現場が、代々木八幡なのでした。
 代々木八幡宮とは山手通りをへだてた西側の高台で、一帯は住宅地だが、南向きの崖のあたりが雑木林で、その崖にトンネルほどの太い横穴の壕を二本掘り進めていた。穴掘り役は朝鮮人労働者のみなさまで、彼らが掘りだした土を、モッコにかついで、山手通りの集積所まではこぶのが勤労学徒の役目でした。
 毎朝、代々木八幡の雑木林へ出席し、出欠をとり、昼の弁当もそこで喰い、午後三時ごろには作業終了。そんな日々がヒト月ほどは続いたのではなかったか。
 当時私は満十七歳。ほんらいならば五年生だが、二年前の夏に左肺が肋膜炎になって休学し、翌年復学したが、右肺が肋膜炎になってまた休学。たっぷり一年休んで三度目の三年生の二学期に復学したら、雑木林へ通学する事態になっていました。
 虚弱な生徒につき、作業は免除される。怪我や風邪ひきの見学組も日に二三人はいて、雑木林にずらりと置いた一同のカバンの見張りが役目だ。そのうえ落第生にはなにがなし特権がある。見張りがてらそこらに寝ころんで本を読んでいられた。ある日、代々木八幡駅前の古本屋の均一台に、室生犀星(むろうさいせい)『抒情小曲集』アルス社版をみつけた。ピンクの布装で、感激ひとしお。林間で読みふけるほどに、模倣詩が、いくらでも書けそうな気がしました。

 雑木林の中には、この作業場の現場監督のテントもあった。ほんの数人がヒマそうにしているので、そこへも出入りして仲好しになる。
 ときにそのあたりで、朝鮮人労働者同士が喧嘩をはじめる。パカヤロウ! と日本語でののしりあって、作業や待遇の不満であるらしい。監督場の人は知らん顔で、かかわるなと私にも目配せをする。ははぁ。虚々実々の大人の世界らしいのでした。
 高台の住宅地から、監督所へ声が掛かることもあった。井戸の出がわるくなったぞ、という苦情があってもふしぎはないし。そもそもこの防空壕は、どこかに抜け穴でもつくるのか。
 監督所の人の尻に付いて、高台の邸のお庭を、野次馬気分で覗きにいったこともある。そんな出来事が目新しくて、やはり復学はうれしい十七歳の代々木八幡の日々でした。

 あの大きな防空壕は、いったい完成したのだろうか。翌年春からの東京大空襲に、多少は役に立ったのだろうか。戦後のいつごろかに埋め戻されたのだろうか。それとも、まさかあのまんまに……。
 代々木八幡宮は、こんにちもなお(くすのき)大樹亭々(たいじゅていてい)たる緑濃き神域です。だが、その境内のまわりは、寺院や区民会館やマンションやらの建物だらけだ。
 そして、車の往来が奔流のごとき山手通りの西側には、元代々木町の南面の傾斜地はあれども、上から下までびっしりと住宅だらけ。どこに雑木林も、防空壕も、拾いきれないどんぐりもあろうものか。
 でもあれらは、あの日々は、たしかにあったことなんだ。

 

 この絵にも、記憶はまったくないのですが、まずはみどりの木立だ。街中ではないね。かなたに、下見板張り瓦屋根の家と、その戸口へ至る道筋がある。左の白黒の壁は練塀のような。
 あるいは代々木八幡への遠足のおりの所見だろうか。そうかもしれない。ひとまず、そうしておきます。
 木立が、八幡宮の境内だとすれば、まんなかの太い幹の木は楠にちがいない。幹も枝も細い木は、どんぐりの成る木か。
 しかし、木立の向こうは境内ではないな。あるいは、八幡宮のお隣の、寺院のほうの眺めかもしれない。この絵はたぶん教室で描いている。神社の拝殿のふくざつな姿などは、記憶で描くにはむずかしい。それよりもお隣の、あっさりした景色のほうが思い浮かんだ。
 この瓦屋根の家は、お寺の庫裡だろうか。それにしては戸口はあるが、窓のたぐいがいっさい無い。隣の練塀とは、いったいどんなつながりなのか。非現実的ながら、それだけにこんな眺めが、たしかにどこかにあったのだろう。懐かしい気持ちがしてきました。

 一年生のときの絵には、署名はすべてオザワノブヲとある。二年生になっても軍楽隊の絵はオザワで、この絵ではじめてオザハと歴史的かなづかいになった。描いたのは二学期の末にちがいない。以後はおおかた漢字になりました。
 現在、私は姓名にフリガナをつけるときはオザワノブオと書きますが、この最後のオに、じつはかすかに抵抗がある。信男はノブヲだよなぁ、という気分が胸の底の底にあるらしい。現代かなづかい全面肯定派なのに。
 小学一、二年生当時の絵を、このたびあれこれ見なおすうちに、あらためて気づく。生まれてはじめて文字なるものを、アイウエオからおぼえるにせよ、意味のある文字を最初に書くのは、自分の名前かもしれない。オザワノブヲ。現代かなと歴史的かなの入り交じりの名前を、クレヨン握って書いていた。その初体験が、よほど身に沁みたのではあるまいか。八十年を経てもなお消えないほどに。

──作者敬白

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