9. スペクトル




果実の朱色の空に、花二三輪横たわるような雲がある。
自転車が先ほどの夕立を吸って萎びている。遠くで鋭い犬の声がして以来、この地球上には何も音がしていない気がする。
なにごとも起こらなさそうな静けさに、かえって死臭めいたものを感じる。いずれ誰の身にも来る消却の火を予言するような色の空だ。
死を思うのは、一枚の葬儀の通知ハガキのせいだろう。小学校で一時担任をしてくれていた粕谷先生が亡くなったのだ。
何だかもっと随分昔に亡くなったような気がしていた。喪主である奥さんの名前を改めて眺めながら、粕谷先生にも重さのある「人間の人生」があったのだと今更感じる。



粕谷先生は、幼時から父を知らない僕にとっては、淡い父性の原型のような匂いを教えてくれた人でもあった。
夏の校庭に向かってホースで水を撒き、虹の原理を教えてくれた。彼の専門は理科だったので、小学生の昆虫への興味をある程度満たしてくれるのも彼の役だった。
といっても彼は本来、外光のなかで様々な生き物の生態に親しむタイプの学問をしていたのではなかったと思う。
今思えば「狂気の博士」のような尖ったところを感じさせる部分を子供たちも気付いていて、なつく子供となつかない子供がはっきり分かれた。



粕谷先生は、僕が六年生で卒業する最後のほうでは、ほんとうにどこか狂ってしまったのだった。
引力の実験と言いながら卵を床に落とす。割れた卵を見て生徒は笑うが、あまり笑いもせず同じことを二三度繰り返す先生を見て、僕らはすぐにただならぬものを感じた。
額に銀紙の星を貼ってテレパシー実験のためのカードを生徒に引かせたり、グラウンドを裸足で何往復もしているところを変質者に間違われ、PTAから委員会に通報された。
その頃先生の人生に一大事が起きていたことを知ったのはあとからだった。交通事故で脳を打ってしまってから僕と同じ年頃の先生の息子は、通常の知的発育が出来なくなってしまったのだ。どこか暗い穴のような眼をして歩いている少年を、僕は街で二、三度見たことがある。
自身も精神状態の均衡を欠いた粕谷先生が小学校を逐われた話は、もういつ聞いたかも忘れてしまった。もうそのころには先生の記憶は、戯画化された狂気の博士の面影しか持ち得ず、彼のその後について深刻に考えたことはとうとうなかった。



ホームルームで先生はよく生徒に、目を閉じ瞑想させた。宗教的だとか催眠術的だとか親たちからクレームを受けもした。
僕は、その目を閉じる時間が不思議と嫌いではなかった。先生は意味のあるようなないような説法をゆっくりした。

「さあ見えないね、見えないね。見なくていいんだ、真っ暗だ。前も後ろも向いてない。右も左もないんだよ。何が見えるか、なんて訊きません。何もないときゃ、ないんです。君らの名前もないんだし、僕の心もありません」

そんなことをいつも歌の節のように繰り返した。かと言って生徒を催眠にかけようとしていたわけでもなさそうだった。
ただただからっぽになれ、と言われている気が僕はした。そんな風に受け取るなんて子供としては変わっていたのかもしれない。他の生徒はむずむずしたり、わざとため息をついて苛立ってみせたりした。



はっと閃光のように思い出した。僕が粕谷先生を少し特別に思うようになった出来事がもう一つあった。
下校後、忘れ物を取りに学校に帰ったときだ。廊下の理科実験棚を掃除していた先生に出会った。僕は一人だったのでいつもより緊張しながら、サヨナラと横を走り過ぎようとしたとき、先生は僕の名を呼び止めた。
「これあげる」
先生は、三角柱型をした小さな硝子の塊をくれた。理科の道具だとはわかったが、手のひらにのせられて僕はすぐ会釈し、その場を離れようとした。
「あっちょっと待て。ほら、これが何だか聞きもしないでいっちゃ駄目」
これは、プリズムだ。知ってる?と先生は言った。僕は、何となくはきいたことがあったが、首を振った。
「こうやってこれを通して世界を見なさい。虹みたいなものがくっついて見えるでしょう」
その直線的なレンズとも何とも言いようのない硝子の凝縮世界のなかで、あっという間に世界は一変した。
「万華鏡みたい」
僕が呟くと、先生はこれは万華鏡とは全く違うもので、「光の真実を見る道具」だと言った。
光の波長の話は難しくて、その時の僕には理解出来なかったし、先生もかなり要約して話しただけだった。目の前の世界の光にはいろんな色の光の種類があるのだ、とだけイメージをした。
「その、どこにでもくっついてくる虹色の帯を、スペクトル、っていうんだ」



また、この世に見えている色はすべて色がついているわけではなく色として見えているだけなんだ、と粕谷先生は話した。その時だけ、僕は一瞬、無性に悲しくなった。赤や黄色、花の色も、実際は存在しないのだなんて!
それと同時に不思議と冷めた解放感を覚えたようにも思う。光と影に刻印された、形態だけの世界を目の前に見立ててみた。今思えばそれは、あの粕谷先生の瞑想の時間に僕が感じていた、安らぎに通じるものだった。



何故僕にプリズムをくれたかということは、わからない。学校の備品なのに。特別な理由などなかったろう。ただ夕暮れ、僕は意味もなく彼の傍を過ぎた影にすぎず、彼は影めいたものになにか話しかけたかっただけなんだと思う。
帰り道、粕谷先生が何となく見守っているような気がして、わざと興奮したようなかんじで、一人いろいろなものをプリズムに透かしながら帰った。が、いよいよ家に近づく辺りで何となくそんな素振りをすることにも疲れて、プリズムをポケットにしまった。父親を知らないぶん僕はそういうときの無邪気な喜び方を知らない。
硝子のなかの世界よりも「この世のすべてには色があらかじめついているのではない」という言葉の余韻のほうが、大きく響いていた。
その日も夕焼けが綺麗だった。この赤を見ているのが単に目の錯覚なのだとしたら本当はこの空は何色なのか、と想像すると、何となく手に負えなくて、疲労感があった。



あのプリズムは確か、今も机の引き出しに入っているはずだ。勉強机を二度変えても、粕谷先生の面影を思い出さなくなっても、自分の手で新たに買い直しなどしない道具の定位置を守るように、プリズムは僕の生活のなかに放置されている。
突然部屋に戻り戸を開けたまま机の引き出しをあさる僕を見て姉が、何探してんの、と怪訝な眼をしている。小さな硝子の塊を取り出し外へ出て行こうとしているのを見て、もっと眉をしかめていた。



僕はまだ赤の消え残る夕映えのなかを駅に向かった。住宅街の坂を二三度上り下りすると、煌めく細い道の商店街にたどり着く。
別に息急き切ってここまで来たというわけでもなく、何となくプリズムで街の光をちゃんと見たくなっただけの話だ。姉が変な眼をするから、急ぎ足で来たけれども。
僕は粕谷先生を嫌いではなかったのに、何となくどこか不気味さを感じていた。
あのプリズムを貰った日は特に逃げるようにして帰った気がするし、せっかく教えたくれたスペクトルを、見る振りだけして実はなにも驚いてなどいなかった。
そんな小さい罪もない不誠実が、彼の人生の果ての死と結びついた途端に、何とも言い難い悔恨のように押し寄せてきて、今更何となくプリズムと一緒に歩きたくなったのだ。



真昼の光の下ではないスペクトルは、光の切れ味が鈍かった。ただの煤けた硝子の破片に思えたけれど、僕はかまわず目の前にそれをかざして歩いた。
駅で人を待つ老婦人がこちらを瞬きもせずに見つめる。帰宅のサラリーマン達のシャツの群れが反射する。見えるものは虹ではなく人だった。けれど硝子のなかの人々に、僕の心は様々に飛躍した。
マニキュアの色に拘って延々とそれを語りあう女子高生の群れ。女性の白い肌に目を向けられない僕の情欲。ついていけない流行の色彩。様々な人の色が美しすぎて目がくらむし、愛おしい。そして苦々しい。自分はこれらの目くるめくものに、何も関係出来ていない気がする。
この日々を無性に下らないと思う時、僕を苛立たせるいつものよそよそしい街の色が実はこの世に存在するものではなく、単なる光の屈折であり、確かなものはこの手触りや重さなのだ、と考えると妙に胸がすっとすく気分がした。もしかするとそれは粕谷先生がプリズムをくれてから身に付いた感覚なのかもしれなかった。



ふと、夕焼けがまだ残る側の通りにかざしてみたら、スペクトルが何となく増して見えるような気がした。
おや、と思う。通行人の一人一人に、さっきよりはっきりしたスペクトルが見える。人の顔から下ぐらいから、虹色の扇状のものが広がっている。
意識がズームされるように一人一人に近寄ったとき、もっと不思議なことに気付いた。
虹色の扇状に見えたそれが、ステージの階段のように、段々になっている!
どうしたんだ?と思う間もなく僕は、ある通行人とぶつかりそうになった。が、ぶつからなかった。



咄嗟に避けようとした足が、トトッと、目の前の人のスペクトル階段を楽々と駆け上がり、そして乗り越えてまた地上に戻った。
向こうからはまるで僕が見えていないように、何事もなく人々は僕の下を去っていくのだ。
それが何度も続いた。僕はあまり不思議に思わなかった。死に近い時にもこんな離人感があるのかもな、と妙に覚めた気持ちがした。
階段を上っては他人の頭の天辺からふわっと下りる、空中飛行をしばらく続けるうち、少しやけになり、楽しくもなってきた。



が、一瞬だった。
穴のような眼をした通りすがりの人物と、目が合った。
目が合った途端、スペクトル階段ではない、その人物の足元から地下にえぐれた階段に、自分は落下した。
そこは暗闇の世界だった。
僕は歩いているのだけれど、前も後も右も左もなかった。
何が見えるか、なんて訊きません。何もないときゃ、ないんです。君らの名前もないんだし、僕の心もありません。
粕谷先生の瞑想の声が、闇のガイドになるような気がした。僕は手を差し伸べながら、前後左右の見境もなく歩いた。しかし安らぎどころか、さすがに恐怖を感じた。
眼を見開いて、闇に早く慣れようと焦った。しかし目をひらけば開くほど、頬の辺りに感じる外気の距離感が曖昧になってきて、僕は気が狂いそうになった。
さっきすれ違ったあの男の穴のような眼がすべての原因なのか。あの男、見覚えがある。あの男は粕谷先生の亡霊だったのじゃないか。
待てよ。あれは、粕谷先生の息子だったかもしれない。



はっと斜め後ろに光の気配を感じた。
そこには細い細い蛍光灯が、真一文字に浮かんでいた。よく見るとそれは、ゆらゆら揺れた白いグラデーションだけの、一色のスペクトルだった。
白い光に見とれ、そのうち涙が出てきた。震えを感じた。
僕は僕のあるべき本来の居場所と位置をたった今突きつけられたのだ。ずっと小さい頃からどこかで知っていながら知らぬ素振りをしてきたように思える、自分と全てのものとの光量、そして距離。悲しいほどにそれは暗かった。
けれど気付いた途端、澄んだ空気が自分の肺に流れ込んだ。
虹色のスペクトルなんか要らないし、見えなくていい。この一本気な細い光一つだけが、凛とした僕の命の遍歴だと思えた。
粕谷先生の息子がなくしたこの世界の常識の風景。先生自身が見失っていった俗世間の色合い。親子が見ていたこの世の最後のスペクトルは、こういう光だったのかもしれない。



今までの風景の中に戻っていた。スペクトルも見えなくなっていた。
粕谷先生の息子だと思った穴のような眼の男も、全てが捩じれた妄想だったかもしれない。プリズムだけが手のなかにあった。
あの日粕谷先生が放課後の廊下で教えてくれたことのわからなさのように、このプリズムが僕に今教えようとしたことを、僕は掴みきれない。
少なくとも「真暗闇のなかでも何かを見つけて心が震えた」、その新しい感覚だけ、僕は手に入れたのだった。