10. 着倒虫……①




また今夜もだ。
青い木下闇、隣家の蛍光灯が暗い映画館の画面のようにそこだけ際立つ。
隣家といっても、俺のいる部屋はその一家の離れだ。山の斜面を少し上がったこの家屋から、いつもあの家の一番裏側の部屋が覗き込める。



彼女はまたしても、裂いている。
今夜裂くのは古い雑誌類らしい。日本人形のような横顔には何の表情もない。ひたすら内職の手作業にいそしんでいるのだと見れば、そうも見える。
あれが内職なんかではないと俺が思うのは、ここに来て初めてあの部屋に目をやった時の彼女が、古いソファーの皮を一心に刃物で裂いていたからだ。ボロボロの椅子の前に女が座り込み、青白い灯のなか黄色い脂肪のようにソファーの綿が溢れ出し、白い筋張った細腕が機械的に裂いた表皮を自分の脇に山にしていくのを見たとき、俺は猟奇に巻き込まれる予感で身構えたほどだった。



見てはいけないものとして心に蓋をすればよかったが、対象が友人の妻であることの奇妙な好奇心で、ついあの窓を覗く習慣がついた。
覗く? いや違う。斜交いにちょうど窓同士が面しているのだから、灯の明るい窓のなかの出来事が見えてしまうのは自然のことだ。それは毎晩ではないし、別の夜に彼女が手やはさみで切り裂いていたのはただの古布や新聞紙だったこともあり、次第に猟奇にそそられる気分は失せた。
代わりに膨れあがるのは、その寒々と美しい姿への、奇妙な懸想だった。



がらっと離れの扉を開けて人の入ってくる足音がしたので思わず竦んだ。頻繁なことだがそのたびに飛び上がるほど驚く。
「いるのかあ」
板垣の大声が廊下に響き、俺はさもいま暗い四畳半の仮眠から起き上がったかのような顔を覗かせた。
「ああ。ちょっと眠ってた」
「灯ついてないからいないのかと思った。なす持ってきた。カアさんがお前にって」



鬼瓦のような板垣の破顔一笑は高校のときと何一つかわりはない。ただ、この島の板垣の家に転がり込んでからの彼への印象は、高校時代の屈託ない馬鹿騒ぎの記憶を一つ一つ消していくような、どことなく緊張したものだった。
カアさんと彼が言うのは、彼の母のことでも彼の女房のことでもない。あの部屋の彼女の母親、つまり板垣の姑のことだ。彼は入婿なのだ。



廊下で立話をする。研究はどうだ、進んでんの、と彼はあまり期待してもいないようなからかい顔で言う。
「研究って言っても、まあ祭りを待って写真を撮って。それまでは島の年寄りに話を聞いたりしようと思ってるけど、大体皆が言うことは似たり寄ったりだとわかってきた」
と俺は言った。
「だよなあ」
板垣は曖昧な顔で笑って一瞬黙ったあと、
「じゃ俺、教頭たちと飲み会なんよ。またゆっくり話そうぜ」
と離れをあとにした。



最初のうちこそ、島内のスナックで飲み明かしたり俺の部屋で話し込んだりしたものの、彼の住まいで一緒に食事をすることだけは一度もなかった。
自分の実家ではない遠慮は当然あるだろうが、妻の家族を正式に紹介さえしようとしなかった。
なすをくれたカアさんも、トウさんもバアさんも、すれ違えば何の蟠りもない態度で、転がり込んできた俺に接してくれる。
板垣の妻も、表面上は特に俺を避けるというわけでもない。たまに見かける昼間にはおかしな行動をするようにも見えず、遠くから綺麗な笑顔で会釈してくる。ただ彼女が客に直接声を聞かせたことはまだ一度もない。



俺は、どことなく屈託を喪ってしまったように見える板垣に対し、初めは親身に話を聞いたりしたいと思った。
けれど、彼がそもそも単純に明るいだけの人間ではなく頑迷さと鬱屈を抱えていること、笑顔から豹変して突然に憤怒するような性質があることに気付き始めてから、友情という名の面倒なお節介は考えないことにした。



妻は夜の街に出る夫を送り出しもせず、俺の部屋から覗き見える四角い光のなかで古紙を裂いている。
板垣の去ったあとの暗闇の一角に、俺は秘密裏に蛍のような彼女を独占し飼っているような気がした。彼女が好きだなどという思いは一切無い。けれど俺だけが知っているかのような窓の淡々とした視角が、抑圧された覗き見の背徳感を運んできた。



板垣は大学を出てすぐに、この島の小学校の教員に赴任した。
どこかの離島で数少ない児童の面倒を見るという彼の夢が、形になった。離島の僻村というほどの場所ではなく、二つの小学校がある中型の島で、住民がさほど閉鎖的でもなく移住には良さそうな土地である。
赴任後二年ほどで、板垣から年賀状が来た。俺に対して年賀状などよこさぬ奴だが、結婚写真をハガキにして通知してきたのだ。小柄で細身の花嫁の整った笑顔を見て、図体はでかくても小心なところのある板垣の今後の幸福が約束されたように感じて、羨ましく思った。
大学院を出てアルバイトや手伝いをしながら民俗学の研究をだらだらと続けている俺に、
「こちらの島にはおまえの興味のありそうな『着倒祭』という古い祭りがあるよ。一度調査がてら遊びにこいや」
と書き添えてあった。



『着倒祭』のことは一度どこかで読んだのだが、出典を思い出せない。
友の渡った島のことだったのか、と腐りきっていた学問魂が久々に疼いた。ただし島の文献をあたってもネット検索しても特に歴史的な由来などは見つからない。
年ごとに選ばれた少女が、身体をすっぽりと等身大の筒状の袋に包み隠す。
そこに集落の人々が、ありとあらゆる古着や古新聞を水糊で貼付け、蓑虫のようにしてしまう儀式。
どこに参考写真があるわけでもなく、そんなに大きい集落のことでもないので、きっと今は形骸的になっているのだと想像がつく。儀式の由縁があまり見つからない、というのが俺の興味をそそった。いつか友の婿入り先を訪ねて、その祭りを取材しようと思った。



彼の新婚の頃に俺が島を訪ねたなら、もう少し事情も違ったのだろうか。
二年もたって唐突に俺は、島を訪れる際に世話になりたいと彼に連絡した。学校を出た途端に自分の学業の意味を見失う焦りが、急に自分を空疎な旅や取材に駆り立てたのだ。
板垣はメールでは歓待を約束してくれた。俺も気楽に友の懐に転がり込む気でいた。
いざ来てみると、幸せそうなハガキのなかにいた妻でありこの家の跡取りでもある彼女を、初めから客に紹介するでもなく、まるで庭に放し飼いにしている犬程度にしか認識させない。幾ら高校時代の友が相手とはいえ、不自然な感じがした。
奥さん紹介しろよ、と気軽に言えばよかったのか。
けれど俺が、ソファーの皮を黙々と剥ぐ彼女を見てしまったのは、彼らの家の離れに仮住まいするようになって、すぐの夜だった。
俺は彼の妻について問う期会を失した。



着倒祭は夏に行われるが、盆と関係があるというのでもない。今は七月の頭だ。
祭りの前後の二、三日だけ世話になると言うならまだしも、二、三週間も前から転がり込んだ俺のほうが非常識なのかもしれない。板垣は大学時代俺の東京のアパートにひと夏も寝泊まりし、好き勝手やっていたことがあったので、それくらいの仲だろうと俺は思っていた。でも人との絆など、自分の握り具合だけで強さを測れるものではない。
今の俺は、埒もない取材の為にあかの他人の民家に間借りをしているよそ者に過ぎない。



「祭りで女の子に皆が貼っていく紙や布は、各家庭で祭りの前に用意したりするものなんですか」
と知り合った近所の老人に訊いた。
板垣の妻が何かをしきりに裂くのが、祭りの為の準備だと思えば納得もできるからだ。
しかし老人の答えは違った。



その老人はある日、防火用具倉庫の隣にある蔵のようなところまで連れて行ってくれ、着倒祭に使う衣装を見せてくれた。
俺が考えていたのとは違い、着倒祭は、いまでは紙や布を直接人に貼付けたりはしない。袋状のものにあらかじめ極彩色の古布束や短冊の紙片が縫い付けてある、初めからイモムシのような衣装が用意されているのだった。
カラフルだが簡易な衣装を見て、俺は急速にその祭りに興味を喪ってしまった。
が、老人から少し詳しい由来を聞けたので、そちらの由来を追いかけたくなった。
「ミノガの一種だったんだろなあ。ほら、蓑虫よ。なんでもかんでも自分の身体につけて蓑を作る虫が、着倒様と言って、ここいらの神様になってんのさ」
老人は言った。



このへんのいいとこの娘が昔な、着るもんに執着して、自分の持ってる晴着を夏でも冬でもいくつも重ねて身に纏ってたのさ。どっかおかしかったには違いないんだろうけどな。
家の奥深くにいろといったって、着膨れたネンネコ羽織に帯も何本も引きずったまんま、衣装を見せに、表に出ちゃうんだから。
そりゃあ陰口もたたかれ、笑いもされるよな。
座敷牢でも作っときゃ、そんなことになんなかったんだろうけどな。
あすこに見える崖から落ちたのか、下の海のちょっと渦巻いてるとこで、ある時金魚みたいにプーカプーカ浮いてるのが見つかった。
大事な着物が剥がされてたから、誰か乱暴でもしようとしたんだろうな。でも、なんせ着てる着物が多すぎっからすったもんだしてるうちに落ちちまったんだろう。
誰がやったかとうとう見つかりもしないで、憐れまれて、今じゃ祀られてんのさ。
あまり好きではないねえ。祟ったっていう話は聞いたことはないけれども、そういう魂鎮めみたいなのが祭りになっているっつうのは。
神輿なんか担ぐほうが明るくていいな。



「蓑虫とは、どういう関係があるんですか」
「それがまあひとつの、祟り、なのかもしれないがね。ある時、山のほうで、見たこともないような色のね、そう……娘の襦袢や着物みたいな、赤とか派手な色の蛾が大発生したっていうんだ」
「気味悪いですね」
「そればかりか、山に入った人間が、まるで人の着物の色とりどりの屑を蓑にした蓑虫が、木から数えきれないほど垂れ下がってんのを見たんだ」
「そういう蓑の残骸みたいなものは残ってないんですか」
「残ってない」
「あ、そうですか」
「専門家がその、史実を調べたって、蛾が大発生して困ったとか、作物に影響を及ぼしたということも書いてないからね。まあ噂の類いが言い伝えになってるんだろうな。まあここいらの連中は、いまだにその蛾を不吉の印として、祀って鎮める」
気道楽なんかせんで節制しろ、という教えなんだろうけれども。と男性は言った。そして少し声をひそめてこうも言った。
「実は、山ってのはあんたが泊まってる、鈴井さんの裏の山よ。探せば今でも、でかい蓑を作る蓑虫がいっぱいいる」



俺は日々、やりかけの別の調査の整理の為パソコンに向かったり、時々は島の資料室に出向いて記事を集めたりした。
鈴井の家に厄介になるのは、離れを借りると言うだけで、三食のことは一切自分でした。自然板垣ともそれほど顔を会わさなくもなった。あの明るかった板垣の大きな声はもう、家の中から響いてくることもなかった。
鈴井家の生活感は、田舎の家にしては驚くほど外に漏れてこなかった。そこからひたすらに漏れてくるのはただ一つ、夜の灯の下で何かを裂いている彼女の横顔だった。



ある時俺は、島の老人の言っていたこの家の裏山を散策することにした。蛾の生態に詳しいわけではないので蓑虫が今の季節にぶら下がっているのか知らないが、見てみたいという思いはずっとあった。
都会にいると自分の呼吸というものを忘れる。喘ぎながら山の斜面を登る自分の息や動悸の音が、地底に流れる自然の息づかいと重なる。俺が息を吸うたび木立が、眼に見えない清らかな吐息をこちらの肺に送ってくる。
こんなことだけでも、自分は生きている意味を感じて満足する。
小学校の教員という規則正しい労務に就いている板垣からすれば、俺のこんな毎日は見るに堪えない怠惰なのかもしれない。それでも俺は後ろめたさを感じなかった。



特に引き返す切掛けもなく進むうち、細い渓流が合流する場所に来た。そこだけ木が少なく周りから囲まれている部屋のような空間だった。
俺は倒木に腰掛けて渓流で顔を洗った。尻の湿った感覚がいやで座り直そうと倒木に手をかけた瞬間、柔らかい昆虫の手触りを感じて手を引っ込めた。
カブトムシの幼虫くらいはあるだろうか。もっと大きいか。
見たこともないような黒い芋虫が倒木の上にじっとしている。俺は改めてぞっとした。
虫はそれほど好きではない。何となく手をジーンズで拭いて立ち上がろうとしたとき、すぐ傍に人がいるのに初めて気付いて振り向いた。
あの女、板垣の妻が立っていた。



思わず竦んだが、何故か戦きは一瞬で消えた。
彼女の眼が真直ぐ、落ち着いて俺を見ていたからだ。
近寄り難い狂気の存在の雰囲気を身に纏うどころか、昔から知っている人間のような気さえした。
なにか、この女の為に自分がここに来たのが必然だと思えてしまうような、やっと糸を手元にたぐり寄せたような手応えを感じた。



「その虫ですよ。探してるんじゃないの?」
と彼女は、細いがよく通る声で話しかけてきた。
初めは何のことかわからず茫然と彼女の顔を見ていたが、次第に蓑虫の伝承のことを思い出した。
「あっ……これが蓑虫の……」
彼女は俺のすぐ傍に座り込みその大きな芋虫をじっと見つめた。
「こいつは、あまり手がかからないと思うわよ。興味があるなら飼ってみたらどう」
話し始めは冗談まじりのようでいて、語尾のところでは真剣な射るような眼差しが伴った。
「飼う?」
「あなたはよく夢を見るほう?」
「夢……は割と見るほうですけど」



彼女はすぐ傍の木の枝に芋虫を移し、俺の手に枝を持たせ、はいと言った。
そしてそのまま一、二度、俺の怪訝な顔に振り向きながら、先に山をすたすた下りていってしまった。
俺は何度も落ちそうになる重たい芋虫を、内心不気味に思いつつも手でかばいながら離れに持ち帰った。彼女の窓はその夜は灯も点かず、ひっそりとしていた。
あまりにも鮮やかな、間近に見た彼女の整った顔立ちを、俺は何度も反芻した。



それが俺と女との奇妙な縁の初まりだった。
そして俺はその夜から、女の夢を見始めた。



【つづく】