11. 着倒虫……②




【前項よりつづく】


夜の遠くで誰かが喚いているのが聞こえる。どんな幽かな気配にも敏感になっている。
この離れに滞在して三週間目。寄宿している家の何かしらの手伝いをしたり、それでなくとも交流くらいはして和気藹々と夕食など厄介になっていてもいい頃だ。だが鈴井の家ではそういうことは起こらない。
主人夫婦、その娘であるあの女に共通する柔らかく気品がある物腰からは、客に対する拒絶などを感じることはない。人より一回り顔や背丈が小さい感じのする彼らの容姿は、古代に生きた人の幻のようにも思える。掟を脈々と守り続ける神聖な場所や、神社仏閣にでも寄宿しているかのような気持にいつの間にかさせられる。



家の雰囲気に釣合いが取れない入婿の板垣の朴訥でがさつな性質が、いつか静寂を破って爆発するのではないかという興味もあって、今夜の雑音が少し気になりそっと庭に出た。
鈴井家の中はひっそりしている。窓の中のあの女の姿も今夜は見えない。
喚き声は裏手の畑のビニールハウスのほうからした。農作業中に聞く畑の中の拡声器つきラジオを誰かが消し忘れ、野球中継の声が山にこだまして虫の羽音のように響いているのだった。
気が抜けて部屋に戻る。



暗がりの中、俺はここ二日続けて見ているあの女の夢を脳裏でまさぐってみた。
実際に顔を真正面から見たことはないのに、夢の中の彼女は、壁に掲げられた神仏像のように完璧に線対称な顔をこちらに向けていた。
そして裸なのであった。
下半身の印象はなく、乳を露にしているのだけが、覚醒後の記憶に残った。乳を露にして何か女らしく誘いかけてくると言うのでは全くなく、真中の線で両側に対象に開いた白い切紙細工のような顔をして、一言だけ告げるのだった。
「古着でよろしい」



一日目は夢とはいえ裸の彼女を見てしまったその余韻しかなかったが、次の夜の夢でほぼ同じ内容が繰り返されたことに慄然とした。
「古着でよろしい」
お告げかもしれない、と思った。
山で俺に蓑虫を手渡した日の彼女は、あなたは夢をよく見るか、と言っていた。
奇妙な夢があの蓑虫と関係あることは薄々わかるのだが、頭が状況についていかず、何かことを起こす気にはなれない。
突然鈴井の家を訪ねて彼女に夢のことを訊こうか、と思いもしたが、俺が奇矯に思われるだけかもしれない。彼女がまたあの窓の中で何かを裂く行為を始めるのを待っているのだが、現れない。



二日夢を見たのち、また二日夢を見なかった。
朝目覚めると、虫籠の中の蓑虫が萎びて死んでいた。
その夜、彼女はいつもと違って電気も点けぬまま窓辺に立ってこちらを見ていた。山で彼女に会った時よりも夢で見た時よりもずっと、冷水を浴びたような思いがした。
網戸越しに何かをこちらに言いかけている。大きい声を出すのを憚っているのはわかる。俺は咄嗟に外に出て、忍び足で窓の傍まで行った。
「今回は簡単だったのに、死なせたのね」
と彼女は言った。
「君の夢を見た」
俺は意を決して言ったつもりだったが、彼女の透明な眼はそれには何も反応しなかった。当然のことのように彼女は俺を見下ろしていた。
「死んだやつは埋めなさい。そのかわりまた見つけるわ」
そう言うと、機械仕掛のように俺の目の前でそろそろと窓の障子を閉めた。
俺は何だか急に怒りが込み上げてきた。蓑虫がなんだと言うのだ。何故俺がそんなものの世話をしなければならないのだ。こちらの研究の為に資料を提供してやると高飛車に構えているつもりか。



その日の夢の彼女は前の夢よりも眼に生気があった。巫女のような姿ではない生身の女を、その潤んだ目に感じて、抗い難い力で彼女に吸い寄せられた。
「人の心願を身に纏うことを望んで居る」
俺は心の声で、心願とは?と咄嗟に問い返した。しばらく潤んだ揺らめく黒目で彼女は俺を見つめていたが、
「七夕の願いごとの短冊を、集められる限り集めよ」
と言い放った。
次の日の夕方、飯の総菜を買いに出ようとすると、玄関の脇にひっそりと隠すように新しい幼虫の入れられた虫籠が置いてあるのに気付いた。足が凍るような気がしたが、それをないがしろにすることに非常な恐怖を感じた。慌てて家の中にそれを持って入りぼんやりとした頭で、昨日の夢の女のお告げと、今夜俺がすべきことを考え始めた。



数日が経った。
女よりも余程遠い存在に思え始めていた板垣が、俺の昨今のはりつめた気持ちをとうとう破りにかかってきた。
夕暮、道の数十メートル先で板垣が何か大きな声を出していた。我を喪うほど激昂して何かを叫んでいるのを、近所の人間や勤め先の同僚などに制されていた。
俺は本能的に窓を閉め、板垣の不意の襲撃に備えた。
虫籠の中で「衣」を纏ってはち切れんばかりになっている蓑虫を押入の奥深くにしまい、蒲団で隠した。



騒ぎを聞きつけた近所の人間が次々と通りに集まっているのが聞こえる。俺は耳をそばだてて窓の傍にいた。
「板垣先生何があったんだ」
「何を怒っとるの」
「なんかね、小学校の門のとこにあった大きい笹の、七夕飾りの短冊。あれが誰かにひどく荒らされて、全部切って持っていかれたって言って」
「それで先生が急に怒りだしてしまって」
「子供がせっかく書いたもんなのになあ。ひっどいことをする奴がなあ…..けどまた誰がなんでそんなことをねえ….」



聞いている間、俺は生きた心地がしなかった。隣家でも女が同じ騒動を聞いているであろうが、冷静な顔をしているに違いない。
いっそ、それをしたのは全部私です、とあの場に土下座したほうがましかと思ったが、理由を説明することを思うと、それも不可能だった。板垣の妻の夢のお告げに従った、などと言ったって狂人扱いをされるだろうし、狂人扱いをされるのは良しとしても、彼女の持つあのただならぬ秘儀感を裏切ることの恐れのほうが、その時の俺には何よりも恐ろしかった。彼女本人の咎だけでは到底ことがすまぬ脈々とした何かの力の積み重ねを感じて、俺は竦んでいた。



どこかで酒をあおってきたのだろう、夜遅く酔った板垣が張り裂けるような音で硝子戸を開けて入ってきた。先ほどの騒ぎを目撃したせいか、俺は今度は落ち着いていた。
二日後くらいに理由をつけてもうここを去ると決めた。荷物もまとめておいた。
「よう」
とふらつく右手を振りかざし、酒臭い息で板垣は玄関先に座り込んだ。
「どうだい先生、研究はよ」
「先生はお前じゃないか」
「先生か、俺は、先生って。馬鹿ったらしい…」
板垣は焦点の合わぬまま爛々と眼を燃え上がらせて、首だけいろいろなところを見回した。



「こーどもーのー、ここーろーをー、ふみにじるようなー、鬼」
板垣は眼の焦点を据え俺を睨んだ。俺は冷静にわざと板垣を透明な気持ちで見つめ返した。何一つ知らぬつもりになって。
「そおゆうなあ、鬼から。守れないんすよ、お・れ・は。守れないんすよ。だから先生なんて言うのは、もう、そんな資格はない」
「どうしたんだよ」
「いるんすよ。鬼が。冷酷な鬼がね。どこのだぁれぁがぁ、何の罪もない子供の、あんなもの….」
「あんなもの」
「へっ」
板垣は笑ってふらふらと立ち上がり、もういいと言うように手首を振り回した。
「女の鬼はもっとたちが悪い」
不意に低い声で早口に呟くニヤリと笑う顔は余程鬼じみていた。
「命より大事なものってのがなあ、俺とあいつではもう全く…。命より大事なんだよ俺は!あの子たちのな!魂がよ!俺は自分の子供なんかいらねえ!あいつらの思いを返せよなあ!」
板垣は玄関の靴棚の上にあった壷を、左手で払い落とした。
粉々になるその欠片から目をつぶって除けるのまで、俺は自分自身計算済みのような気がした。
板垣の憤怒もあの女の秘密も、もはや何も怖くはなかった。ただ自分が何の為に何をしているのか実感出来ていないこの状態を、早く切り上げるべきだと心に決めていた。



深夜、俺は押入の中から虫籠を取り出した。
無残に切り刻まれた鮮やかな七夕の短冊を自分の蓑にして、着膨れるだけ着膨れて詰まっている神聖なる蓑虫。板垣が命より大事に思う小学校の児童達の拙い字が、色紙のそこここに見え隠れしている。
「っかーのせんしゅに」「おじいちゃんおばあちゃんがいつまでも」「しますように」などという罪もない文字を身体の上に重ね、この薄汚い蓑虫は何を夢見ているのだ。



調査の為に訪ねた「着倒祭」の、隠された本丸に俺はたまたま転がり込んだのか。
かつてたまたま転がり込んだ板垣が様々な事情に巻き込まれ今、俺をも巻き込んでいるのか。
それともそもそも俺は着倒虫の分身であるかのようなあの女に選ばれる為に、生まれてきたのか。
その理由を明らかにしようという余力は、もうなかった。小学校の門の笹の葉から色とりどりの短冊をむしり取る自分の手つきの猟奇を感じてから、俺が俺ではないような離人感に包まれていた。



そのまま俺は家を出て、かなり離れた断崖まで歩いた。
いま考えれば、山に埋めればよかったとも思うのだけれど、穴を掘る気力もなかったので、海に蓑虫を放り捨てた。
遥か下の海面に子供達の書いた短冊の色が散らばった瞬間だけ、罪の意識におそわれたが、そもそもこんな荒唐無稽な悪戯を誰かがしたところで、子供の未来にそれほどの傷もつくまい。子供の心を踏みにじるなんていうのは、大人の湿った幻想に過ぎぬ、と思い直した。
蓑虫が水中で死のうが生きようが、俺はとにかくそれを背にしたかった。



数日後、別れの船着場で表面上別れを惜しんで引き止める板垣に、俺は嫌悪を感じた。
「そうかあ。まだ着倒祭まで待てばいいのに。もう、本のあと、数日じゃないか」
「いや。実は東京で前に手伝った人から、また声がかかってしまってね。しょうがないんだ」
女房然として板垣の横で黙って知人を見送るていの女のことも、もう俺は見たくなかった。
「ちょっとお茶かなんか買ってきてやるよ。暑いだろ。待合室の中にいろよ」
板垣は無邪気なのかわざとなのか、俺と女を二人きりにするようなことをした。女は少し斜に構えた眩しそうな顔で帽子の影から俺をじっと見た。
「妊娠したかもしれないわ」
と小声で女は言った。知ったこっちゃないが、それは俺の子供だと言わんばかりの粘着するような眼差しが絡み付いた。
俺は心の中で思い切り女の横っ面を殴り顔に唾を吐きかけたが、何も言わないで灰皿のほうを向き煙草を吸った。そういう自分にも心で唾を吐いた。



鈴井家の娘と板垣は、一年あまり経って離婚をした。
俺が感じたそれとほぼ変わりのないような、鈴井の家のあの独特な秘密めいた閉鎖性を、板垣は入り婿であるにも関わらず、いや俺よりももっと感じていたのかもしれない。
おそらく彼は、妻に本当の意味で「選ばれる」ことがなかったのだろうから。幸い俺もあれきり女のお告げの夢を見ることはなかったが。
あの女はあの蓑虫たちの為にせっせと今日も蓑の素材を裂いているのだろうか。誰か自分ではないよその男の手を借りて着倒虫の本望を遂げさせ、悦に入っているのだろうか。



板垣は四角い文字の葉書で自分の身辺の大事をあっさり書いてよこした。俺が去ってすぐの着倒祭のことも書き添えてあった。
「何十年に一度と言われる現象ですが、本来なら白いはずの蛾の羽根に様々な色が混じった奴が、大量発生して、着倒祭の衣装や屋台にくっついている様は異様でした」
俺が蓑虫を捨てた海から羽化したのだろうか。
逃げおおせてそれほどの罪悪感も感じなくなっていたというのに、その蛾の羽のどこかにあの短冊の子供たちの文字がそのまま引き写されていたのではないか、と想像して、ぞっとした。
女が本当に誰かの子を腹に宿しでもしたのか、それともあの巫女のような口が、神聖なる着倒虫の化身である蛾の羽化を予言していただけだったのかは、今となってはわからない。