12. 天地両図記号
曇った天を凝視する。
その空虚を泳ぎ回る透明な微生物。それが、自分の眼のなかの埃の影だと知ってはいるけれど。
長いこと本を読んで、ふと白い空に目をやると、文字の残像が降りしきるような錯覚がある。
本の活字が空から降る想像。空から降る小説、なんて面白い。滞空時間をかけながら、静かに語りかけるもの、が降り注いで欲しい。
雨は何もかもを打ち流すから、好きではない。雪は優しく降りしきるけれど、果ては汚れて道端にわだかまるから、よくない。
晴れた日の喜びも、さほど自分は感じない。心の大事な何かがうかつに放たれ上気して、光に気持ちが霧散しすぎる。
だいたい気が晴れる、ということを、それほど望みはしていない。心はいつも中間色で白黒すっきりするものじゃない。
親しめるのは、何もかもがまだ未遂の、未完の曇天。照りもせず、降りもせず、の空模様だ。
無人のブランコの影が空から宙吊りされている想像。スクリーン代わりの空に、心の不完全な影を投影するのだ。
慌ただしいニュースは見たくない。朝から喧しい声で説明される昨日の出来事など、知りたいと思わない。
静まり返った未明に起き、小さな音のラジオのピアノ音楽だけを聴けば、今日を平穏に生きられる。
朝の濃いめの珈琲ともう一つの習慣は、新聞の天気図を確認することだ。簡単な記号が縮こまった、単純な図。
テレビや携帯電話の味気ない天気チャンネルよりも、ざらついた灰色の紙に刻印された天気図のほうが味がある。
快晴は白丸、曇りは二重丸。強い雨には「ツ」の小文字、乱立するアンテナのような風力記号。
みぞれに煙霧に、地吹雪まで、調べれば多様にあるらしい。
砂嵐の記号がないかと期待したりするけれど、いまだに新聞の気象図にそれを見たことはない。
◆
日暮れが異様に赤かった。夕焼けにも、平和な赤さと不穏な赤さとがある。
夢中で本を読んでいた。次第に視界が緑や紫にちらついた。
部屋いっぱい差し込む緋色の光に気付かずに、紙面を見ていたせいらしい。赤に溺れる部屋の中、眼だけが補色を探して疲労した。
急に気付く時の「赤」い色は、何か怖い。さすがに異様な赤さに、起き上がって窓辺に立つ。
と、なおさら空に驚いた。
遠い遠い空と陸との境界あたり、幾千もの黄金色、燃え上がる筋が、逆流の滝みたいに立ち上っている。
暗い赤の煙幕が黄金色を遮り、空を染めている。
遠い地平に今起こりつつある、この世の終わりの大火事。戦争か、大災害が起きたとしか思えなかった。
耳を澄ますと、かすかにサイレンの悲鳴のような響きが聞こえてくるようだ。空耳の風なのかは、判別がつかない。
不思議と、このアパートを取り巻く街じゅうが何事もなく平穏だ。誰一人、異様な天気に空を見上げる人もいない。
大火事だから空が赤いのか、それともただの夕焼けなのか。
しばらく、遠い地平を染めているらしい火の照り返しを眺めた。
ラジオのニュースが聞こえてくるけれど、日々の交通情報や政治情勢を語るだけ。緊急の大火事の報せが入ってくる様子はない。
こういう天気なのかしら。ここまで燃え上がる火のような天気の呼び名を、何というのか。
何の気なしに夕刊の天気図を見ると、見慣れぬ記号が日本上空に印字してある。アルファベットのYの字だ。
Y、何の頭文字なのか。ゆうやけ、のYか。その他に考えてみても、夕焼け以外に言葉自体が思いつかない。
けれど何故このYはこんなに丸みを帯びているんだろう。闘牛の角のような形。
そこでふと思い出す。こんな記号、「地図記号」に含まれていやしなかったか。
電話台の下の棚から地図を引っ張りだし、いろいろな地図記号を確認する。
あった。丸いYの字。「消防署」の記号。
なぜ、地図記号が天気図記号になっているのか。消防車が必要なほどの「火の雨」が降ると、気象庁が予報したのか。
こういうときには、新聞社にすぐ問い合わせればいいのだろう。
でも、やめた。
平穏な日暮れのテレビニュースの向こうの世界と、ここの火の粉の夕暮れは、いま、別の世界にある。
そう直感した。
黙ってこれ以上理由を探したりせず、ただ空の推移を、ベッドで寝転がりながら観察していたほうがいい。
地平はやがて下火になり、焦げたような茶色の煤が西の空に沈殿し、次第に平凡な夕方の紫に地球は染まった。
新聞の天気図を見ると、そこに書いてあったのは白い丸。
快晴の記号だけだった。全ては元に戻っていた。
その日から、朝夕の天気図を毎度毎度、確認した。
数ヶ月は何の変化もなかった。季節の行事のように、台風の雨のあと晴天を迎えるような天気の繰返しだった。
◆
ある肌寒い初秋だった。
身を縮こまらせて街を歩いていると、聞き慣れない鉄筋工事の音が、規則的に響いているのが気になった。
どこかで、大きなビルでも建設中なのか。
とは言え、遥か遠くから反響してくる重すぎる打音は、人間の疲労と悲哀が籠っているように思えてならない。
ツルハシ、という言葉を不意に思い出す。岩をうがつ、三日月のような形の鉄槌。
鉱山の様子は昔の映画の中でしか知らないけれど、そんな白黒の画面に響き渡っていそうな物悲しい反響。
家に帰り着くと、二三日忘れていた夕刊の天気図の確認をした。
予想した通り、日本上空の図に印刷されていたのは、「鉱山」の交差する鉄槌の記号だった。
いつ記号が幻のように消えてしまうのか、じっと凝視して確認しようとしているうち、うつらうつらした。
案の定、起きた時、地図記号は再びいつもの天気図記号に変わっていた。
三ヶ月に一度ほど、そんなことが起こった。
机で書き物をしている最中、不意に遠い霧笛に驚いて顔を上げた日。
天気図には「港」の地図記号が記されていた。
楽しみにしていたり、次を予測している限りは、それは起こらなかった。
忘れた頃に何かしらの日常の違和感を感じ、もしや、と思って新聞の天気図を見ると、天気図記号のかわりに地図記号が記されているのだった。
夜の部屋、サーチライトのような光が突然眩しく差し込んだ時には、「灯台」の地図記号が天気図に記されていた。
それは翌朝には、ただの曇天の記号の二重丸に戻っていた。
ある日の公園では、大量の修学旅行の中学生や小学生の列が行き交い、道の行く手を遮られ、公園を横切ることが出来なかった。
その日はたくさんの「文」の形の「学校」の地図記号が、天気図上に記されていた。
前方を歩いていた散歩中の犬が、電柱や壁際、小便が命中させるその部分にだけ、何故かことごとく赤いペンキで鳥居のマークが書いてある。
その日の「神社」の記号は、さぞかしご立腹だったのだろう、などと想像した。
こんな奇妙な秘密を、誰にも教えずにいた。相変わらず淡々とした日々の中で、淡々とその秘密とつきあった。
誰がこの自分と戯れようとしているのだろう。新聞が意思を持っているのか、天気の神様なのか、この頭がどうにかしたか。
へたに好奇心を持てば、その見えざる人格の輪郭は、あっという間に消えていきそうだ。
悪戯な天気図はあの手この手で、つかの間の叙情的な天気の筋書きを、毎回考えてくれているようだった。
そうせぬように気をつけていても、自分はつい「次の話の種は何だろう」と期待してしまう聴衆のようになっていった。
そのうち、本当に話の種が切れて来たのかもしれない。
親戚から米が送られてくる、茶が送られてくると、いうような日々の出来事。
田んぼの記号、茶畑の記号がそれにあてがわれたりするようになった。
天気図も四苦八苦しているのだな。ちょっと、発想が平凡になってきた。
思うまいとしてもつい感じてしまうのが人間の性で、そう思ってからは、しばらく次にはそれがやってこなかった。
しまいには、年輩者の洒落につきあわされる若者のような、居心地の悪さまで感じるようになっていた。
夢の中で自分は、友人達にとうとうこの天気図の体験を話してしまった。
実際には誰に言っても、おかしいと思われるだけだから、話してはいない。
夢の中ではつい、気が緩んだのだ。友人達がどんな反応をするかを確認する間もなく、非常に悲しい気持ちで目が覚めた。
部屋が妙に白い。白々とした朝だった。
季節は春の終わりなのに、まるで大雪の朝のように、気が張りつめている。何もかもが機能停止したような朝の緊張感。
しばらく茫然と天井を見つめながら、今日は何の地図記号だろうか、と思いを馳せたが、思い切って玄関に立った。
勢いよくドアを開けた。
そこに、街はなかった。
何もない。
白い朝霧と、荒れた野だけが、アパートから無限に広がっていた。
一つのことの終わりには、自分がかつて理解してると思い込んでいた「虚しさ」の、何倍もの「何もなさ」が残る。
取り返しのつかない喪失感は、何か具体的な理由がある哀しみとは、また違うところからじわじわとやって来た。
夢の中で告げ口してしまったことや、次第に自分が天気の悪戯に飽きてきたことへの申し訳なさ、ではない。
恋に破れたような、夢に破れたような、不思議な気持ちでそっと玄関の戸を閉めた。
郵便受けに挟み込まれた新聞を恐る恐る開くと、今日の天気図に書かれていた記号は、「城跡」の記号だった。
「つはものどもが夢のあと」の感覚なのか。成る程。
しばらくこんな自分と遊んでくれた、正体不明の天地両図記号は、とても日本的な情緒を持った人格なのだ、とふと微笑んだ。
そしてこれをもって彼は遊びを終了するだろう、とも直感した。
その日は普通の曇天だった。
何かを喪った日の曇天は、それまで知っていた空模様とは、全く違う色を帯びて見えた。