8. ゼリーコンプレックス
昼休みには、たいてい教室を離れる。講堂の舞台裏でひとり寝る。くだらない仲間の輪に、むりやり混ざろうと言う気はないから。
ランチタイム、まるで化学の分裂反応みたいに綺麗に各グループに凝集していくあの現象の中、たった一人の菌が必死でなにかに寄生するみたいに、「ねえ私も一緒にいていい」とお伺いを立てるなんて、ぞっとする。どうせほんの一瞬沈黙を浴びせられつつ「いいよ別に」と哀れみが返ってくるか、「他のみんなに聞いて」と流されすぐに他の話題の盛り上がりに拒絶されるか。
女子校なんかに入るんじゃなかった。けれど共学校だからと言って、すべての輝きが自分と隔てられていることは変わりがない気がする。
ただこの独特の残酷な不均衡は、少女の世界独特な気がするんだ。つるんでいるにせよ孤独でいるにせよ、ここにいる私たちの一人一人が、いつか独立した大人の女になる日なんて来るのかな。
うちのクラスのにぎやかな群れたちは、ことさら内輪だけで固まり、変なことを流行らせる。やけにフリンジの長い極楽鳥みたいな片髪飾りをそろいで学校につけてきたかと思えば、意味の分からないポーズを気取って揃って校庭で写真を撮ったり。そのいちいちが癇に障る。
けれど、今度の彼女たちのお気に入りにたいしては、妙に心がざわめいてしまった。
弁当の代わりに「ゼリー」を学校に持ってくるようになったのだ。タッパーに、様々な味や色の液を入れ、ゼラチンで固まらせて。
ジャスミンゼリーとか、ハイビスカスティーゼリーとか、凝り性の子もいるらしく、おいしそう、分けて!などと毎昼騒いでいる。
教室を出るとき横目をかすめる、窓際の彼女たちの光。その中に揺らめく、様々なゼリーのカラフルな透過光。それをみたとき、何故かくやしさが爆発した。
自分と青春との間には、透明なのにどうしようもなく厚い、硝子の壁が立ちはだかっている。見えているのに、あの楽しさと美しさの中には手が届かない。何をうらやましいと思ったこともなかった。でも、意味なくいつも自分と外界とを隔てる透明なこの境界、わけのわからないこの運命を、自分が憎んでいるのは確かなんだ。
また昼に逃げ込んだのは、舞台裏。演劇部の昔の部室あとで、幕や小道具がまだ埃にまみれて散乱している。
今日の敗北感は特別だ。自分としたことが、今朝こっそりタッパーに自作のゼリーを作ってみてしまったのだ。
親しみを持てないクラスメートたちに媚を売って近づきたいわけじゃない。私は私の作る美しいゼリーを、お昼に食べてみたかったのだ。
けれどそれは、白昼の空しい時間を倍に辛くさせた。一人で食べるデザートなんて、思春期の心を老婆のように変えてしまうだけだ。
せっかく作ったゼリーどころか、昼の弁当も食べずに捨てた。
味気ない青林檎色の固まりを床に投げつけたら、舞台裏の節穴から漏れる光線がそれをきらきら貫いた。その上に、やけになって寝転がってみる。
ああ、我が侭放題したいな。
こうやっていつまでも寝そべって、建築と言う建築の天井を仰いでいたい。見るからにあの天井の奥は暗く、昔の女学生の肺病の悪い空気まで残っていそうだ。
窓から差し込む日が静かに言ってくれるのだ、私だけに。疲れたでしょう、おやめなさい、動きを止めなさい。
すーっと出てきた薄い涙は、案外止まらない。首を伝って鎖骨まで届く涙が、やけに冷たい。けれど、動きたくない。チャイムが鳴って五時間目が始まるけれど、もう行くのをよそうかと思う。そう大胆に思えるのも、涙がなぜだか体中を汗みたいに覆って、ひんやりと気持ちよすぎるからだ。
ところで私は何か、凝固しはじめていないかしら?
床に落としたゼリーと、塩辛い涙とが凝結してしまって、身体を覆っているようだ。
六時間目が始まる頃には、ひんやりした緑色のゼリー体の中に、完全に閉じ込められた。
木の壁の節穴から、無数の星のように外光が漏れている。埃の間を光線になってそれは進んでゆき、逆さ光像になって私に達する。ゆっくりと声にならない呻きが、身動きの取れない薄緑の中で震えに変わる。
瞳も開けられたまま固められて瞬くことも出来ない。けれど何も苦しくはない。呼吸もせず、むしろ、この上なく気持ちがよい。これは死なんだろうか、夢なんだろうか、次の生なんだろうか。
切り裂くような答えを、少女の声が運んできた。
「ゼリコン、ここにいたんだね」
きれいな残酷な声はバンドのボーカルをやってるあの子だと思う。彼女はゼリー化した私のそばにまで来て、見下ろした。そのとき初めて不自由な視界の向こうに、彼女の顔を見た。
「ゼリーコンプレックスの涙は、死海の水と成分が似ているね」
と不思議なことを言って、見つめている。彼女のバンドの名前、「Dead sea butterflies」とかなんとか言ったっけ。
白い肌に澄んだ灰色の変な大きい目をした子だ。昔の断髪少女みたいな髪に青林檎の匂いがする。青春を突き放しながらも勝手に謳歌している、自由な、私なんかとは無縁の人だ。
おもむろに制服の上のカーディガンのポケットから何かをつかみ出し、私のゼリーに撒いた。
銀色の細かい丸い粒が、光る雨のようにぬれた表面にまぶされる。
「ゼリコンにアラザンを撒く」
アラザン。お菓子作りに使う水銀色の小さな粒だ、と思った。
「綺麗じゃないよね。これじゃゲルだよ。待っててね」
と言いながら、散乱した舞台裏の道具の中に、銀色のワイヤーを探し当てる。
「成形しなきゃ、食べやすいゼリーに」
顔の前でピンと銀線を引き、私の身体のすれすれのところのゼリーをゆっくり裁断していく。じっくりと殺人的な銀線が近づくたび、ゼリーに埋められた果実のように自分も切断されるのだ、と緊張する。
綺麗、とひとこと言って、彼女は私のまわりのゼリーを長方形の美しい形に整え終わり、満足げにしている。
「何怖がってんの。からだは切りゃしないよ」
とこちらの心を見透かすように一瞬鼻で笑い、
「切らないけど、吸うんだ」
とまた言った。そして唇に長いストローのようなものをくわえた。
「泣いたってお母さん来ないよ、先生も来ない」
その台詞に、身体が痙攣する思いがした。それでも閉じ込められて動けない。
誰かに繋ぎ止められ、監視され、閉じ込められると言うことが、こんな恍惚を連れてくるなんて、初めて知った。
ストローは私のゼリーに差し込まれ、私の額に達し、貫通してゆく。もちろん痛みはあるらしいのだが、それは痛い痛みではない。
花芯の蜜を吸うような、秘部めざして目を閉じていく感じに、気が遠くなっていく。そういえばさっき、大講堂の外を頻りに紋白蝶がふらふら行き来していた。
実は彼女はあの蝶の化身で、私のゼリー化した脳を狙っていたんだろうか。自分の額から、何かが吸われていく。
つつじの雄蕊を、幼い頃吸ったっけ。ほんの僅かな花粉の甘さだけのために。あの程度の細いつながりですら、私は焦がれていたのかもしれない。ああ、ほんとに、そうなのかもしれない。
そう思ったまま、いよいよ何もかもわからなくなっていく。