21. 真昼の宇宙




僕は宇宙という言葉が嫌いだ。実際の宇宙が嫌いかどうかではない。言葉そのものに、何とも言えない深い痛みのようなものを覚える。
自分にとっての宇宙はいまだに、夏の真昼の白い乱反射のように存在している。そしてその光を思い出すと同時に、ぽっかりと空いたほら穴のように黒い不安を感じる。僕に「宇宙」という言葉を確かに教えた人物が、白い光なのか黒い穴なのか、そのどちらでもあるのかわからない時空の裏側に、忽然と消えてしまったからだろう。


僕がその人の記憶を閃光のように思い出したのは、21歳の誕生日を迎えた夏の日だった。
遠い親戚の家を法事で久々に訪れ、顔を覚えている人も覚えていない人も、等しく目を細めながら、大きくなったもんだと僕を迎えた。


「いくつになったのか、21歳か」
と一人の伯父が言ったその言葉がきっかけだった。21歳と言えば、自分もあの時の「あの人」と同い年になったのだ、とふと気付いた。そういえば、あの人はどうしているだろう。この法事に来ているのか、と列席者を捜したが、それらしい人はいない。
夜、皆が居間のテレビを囲んでいる時に、僕は両親や親戚の誰にともなく尋ねた。
「もうひとり『おじさん』がいたはずだけれど、名前がどうしても思い出せない。その人どうしたかな」
父と母がぼんやりと顔を見合わせた。そっちの兄弟?と目で確認し合うような感じだが、どちらも怪訝そうな顔で僕を見た。
「誰のことを言っているんだろ。◯◯おじちゃんか」
「いや、もう少し若いはずの人」


僕が小学校に上がる前に21歳だった若い叔父で、自分は確かに従兄などではなく叔父と認識していて「おじさん」と呼んでいた。どうしても名が思い出せない。夏にたしかこの土地のこの家で遊んでもらった記憶がある。そう、僕は言った。
親族が皆、あの人かこの人かと名を挙げる人物は、名前も顔も知っていた。両親だけでなく皆一様に、その年代の親族はいないはずだ、と僕の顔を不思議そうに見た。
「結構記憶ははっきりしてるぜ。21歳って、その時に歳を聞いたよ。顔も声も覚えてる。名前だけが思い出せないんだ。何て言ったかな」
「近所の誰かじゃないのかい」
「違うと思うんだけどなあ。皆がちょうどどこかにいっていたのか、誰もいない時に二人で留守番したな。宇宙ごっことかしてさ.....」
そこまで自分で言いかけたとき、僕は愕然とするようなもう一つの記憶に突き当たった。


二人で留守番していたのではない。三人だった。自分には「妹」がいたはずだ。
僕は、そこで黙りこんでしまった。
親も親族も、まだ狐につままれたような顔で僕を見ていた。心当たりのない当時21歳の青年の所在を、ああでもないこうでもないと笑い話にするところに、もう一つの奥深い記憶を投げかける気には、とてもなれなかった。
そうだ。僕は一人っ子として長年生きてきて、今もそう思って生活している。けれどあの21歳の「おじさん」は、たしかに僕ら「兄妹」と遊んでくれたはずだった。
僕はそれきり、箸も動かずテレビや談笑の声も耳に入らず、あの夏の記憶の光の一点に意識が吸い込まれたようになった。


蘇る記憶は二つ三つだ。しかしそれが非常に鮮明だ。音も匂いも、昨日のことのようだ。
薄暗い仏間で叔父と僕と、妹らしき少女は、トランプかなにかをしていた。何度も何度もおなじゲームを繰り返し、僕と叔父は疲れてかえって笑い転げている。幼い妹だけが真剣な顔で、「ばばぬき」を何度もやりたがる。彼女はそれしかトランプの遊びを知らなかった。座布団の近くに、薄いせんべいと魚の干物の入った木の器があった。叔父がふざけてトランプのなかにカワハギを隠し持っているのをカードと一緒に引いてしまい、転げ回って笑った。


記憶の二つ目はどこかの温泉だ。叔父は腰にタオルを巻いて温泉につかった。それを僕ははやし立てて剥ごうとしたり水をかけたりした。まだ赤ん坊に近い妹も一緒に、三人で入った。入ったのは真昼で、その温泉は冷泉だった。何か白いような炭酸泉というのか、岩の間に差し込んであるパイプから流れ出る温泉水を手ですくって飲んでみろと叔父に言われた。これに砂糖を入れるとサイダーになるだろと言われ、本当だ、と驚いた。


そして、これが一番鮮やかに蘇った記憶だ。真昼のうだるような炎天の下で、海水浴をした。妹と二人で、叔父を砂に埋めたりしていた。幼児二人には穴を掘る力も砂をかける力もあまりないので、叔父が自ら砂を掘って入ったような感じだった。
海は青ではなく、真白なものとして思い出される。それほどに光を照り返していたのだろう。砂の濡れていないところではもはや火傷をしそうだったので、ずっと波打ち際に座っていた。


「知ってる?じつは宇宙は真昼にもあるんだぜ」
叔父がふと言ったその言葉。
宇宙という言葉をそれまで聞いたことがなかったわけではないだろうが、そこで僕は多分初めて宇宙というものを意識したのだ。僕がいつも宇宙という言葉に漆黒の闇や銀河ではなく、真白な昼の光を連想するのは、この時の記憶がもとになっているのだろう。
叔父は笑い転げて走り回る僕と妹を捕まえ、体の向きをくるくると回させた。僕らはされるがままにきゃあきゃあと砂浜で回転した。叔父の手から「そら」と解き放たれると、僕らは舵を失った乗り物のようにふらつき、真直ぐ歩こうとしても斜めになり、砂に足を取られて転んだ。
「目がまわる!」
「そう、宇宙遊泳だ。泳げ!手を掻いて!」


埃っぽい田舎の道を歩いている。もう叔父はいない。僕と妹と二人だ。
妹は何故か泣きわめいて、僕より十メートルほど後を歩いている。座り込んだりもして、泣き止まない。僕はうんざりして立ち止まり、ほら、とか、置いていくからな、などと叫んだに違いない。
道の行く手には陽炎と、蜃気楼のような逃げ水が見えていた。自分も途方に暮れ、泣きたいような気持だった気がする。
そして僕は座り込んで泣いている妹の方に戻って行き、妹を立たせた。そして確かにこう言ったのだ。
「ほら、宇宙遊泳だよ」
そして僕は妹をぐるぐる回した。泣きわめきながらも妹は不思議とされるがままで、むしろ自ら調子に乗ってぐるぐるといつまでも回っていた。叔父と遊んだ時よりも執拗に、これでもかと妹を回し、そら、と妹を突き放した。
僕は一気に、そこから駈けて逃げた。
記憶はそこで途絶えている。


もし一人っ子の僕に本当にかつて妹がいたなら、彼女は死んだのだろうか、貰われていったのだろうか。けれどあの屈託ない両親や親族の顔には、隠された存在を秘めるような表情は何もない。親族の墓にも若くして死んだ少女の戒名などはない。
妹は叔父と同じ時空の彼方に、あの夏のまま消えたのだろう。体をぐるぐると回したまま、真昼の宇宙に僕が送り込んでしまったのかもしれない。


ひとりの人間にとって「本当に懐かしいひと」というのは、どこかでその存在を消さなければいけないさだめにあるのか。ある一定以上に懐かしく慕わしくなった時に、ふと真昼の宇宙に、それらの存在は奪われでもするのではないか。
彼らは誰だったのだろう。本当に妹だったのか、叔父だったのか、それに代替するような人物を遠い知人の中に探せばいつかは探し当てられるのかもしれない。けれど、彼らが親族でもなんでもない赤の他人として存在することを思った時に浮かび上がる根本的な疑問が一つある。
「では一体、僕は誰なのだろう」


あの夏の真昼の宇宙は、掻きむしるほど懐かしく慕わしいのに、その一切の事実の痕跡はまったく手の届かない記憶の裏側にある。それが怖くて哀しくて、僕はもう宇宙に想いを馳せることなどしたくはないのだ。