第51回 「外地へ」…③
昭和16(1941)年4月の中野重治の日記には、〈窪川〔鶴次郎〕が骨腫性カリエスとかいう奴で肋骨を一本けずらねばならぬ由〉という記述が出てくる。

人からの伝聞のようで、窪川の年譜にもこの病気や手術のことは出てこないが、稲子がこの年の11月、中野にあてた手紙にも〈窪川はまだ七度五分の熱が出るので困っています〉と書いている。前に患った結核の菌が身体に残り、体調を崩すことがあったのだろうか。

満州から戻ってひと月もたたない9月、稲子は病身の夫を置いて、再び満州に赴く。「朝日新聞」に大きく予告が出た「銃後文芸奉公隊」の一員として新聞社から派遣されたもので、新聞連載の慰労として招待された前回の旅とは異なり、関東軍報道部の協力で企画された戦地慰問の旅である。

「奉公隊」の出発は16日。その直前、「都新聞」に連載していた徳田秋声「縮図」が中断する。「時局柄好ましくない」と内閣直属の情報局の干渉をたびたび受けており、15日掲載分が最後になった。

裕福な養家を追われ、落魄した男と、苦労を重ねた元芸者との関係を描いた秋声の小説はひっそりと、遠く戦争から離れた印象を与えた。稲子はこの小説があることで〈心を満たし、気持ちの支えとし〉ていたが、妥協し、時局に身を沿わせて続けることを望まなかった老作家は筆を擱くことを選んだ。未完の「縮図」は秋声最後の小説になった。

2度目の満州に同行したのは作家の大仏(おさらぎ)次郎と林芙美子、漫画家の横山隆一である。

林は昭和13(1938)年の漢口攻略戦に派遣された「ペン部隊」に陸軍班の「紅一点」として従軍した際、男性作家を出し抜くかたちで陥落後の漢口に入っていち早く現況を報じ、「漢口一番乗り」として勇名をはせた。前出の「奉公隊」出発の予告記事で、関東軍の福山報道部長は「一行に三名の婦人文芸家が加えられていることは意義あることと思う」(注・当初の予定では太田洋子も参加するはずだった)と、わざわざ女性作家にスポットを当てている。

稲子たちは、朝日新聞社の社機「朝雲」に乗って羽田から奉天に入り、奉天から新京、佳木斯(チャムス)牡丹江(ぼたんこう)哈爾浜(ハルビン)海拉爾(ハイラル)と回っている。

「朝日新聞」には、毎日のように奉公隊の動静が載った。奉天では関東軍司令部と陸軍病院を訪問、佳木斯では、慰問のほかに、林芙美子と稲子と、開拓村(第六次静岡村)に嫁いできた女性たちとの座談会が開かれた。家庭面に2度にわたり記事が掲載されており、2人の作家が、おもに家事や子育てといった暮らしむきについて聞いている。

哈爾浜では兵舎と病院を訪問し、また、病院と商工ビルで、1日に2度、講演をしている。29日、福岡に戻ってきた日の記事で大仏次郎は「野天で半日に6回もの公演をした」と話しているので、どこに行っても4人の有名作家はひっぱりだこだったのだろう。

なかでも横山隆一の人気は圧倒的だったようで、求められるままに「フクチャン」のマンガを約500枚、前線の病院と部隊で描きまくり、満州各地をスケッチするつもりでいたのにそちらは描けなかった。同じ記事に載っている稲子のコメントは、「逞しい兵隊さん達の日常をしっかり銃後に伝えたいと約束してきました」と言いながら、「慰問隊といいながらかえってこちらが慰問されたよう」とちょっと頼りなくもある。

帰国してすぐ、「日本学芸新聞」に稲子のインタビューが載った。内容は国策におおむね沿ったもので、静岡村で働く女性たちが苦力(クーリー)を雇う費用が高いと嘆いていたことから、「日本人がせっかく営々と働いて作った金が生活力の強い満人の懐にどんどん入って行くのを見ると、もう少しなんとかならないものかと考えさせられました」とプロレタリア作家らしからぬことを言っている。新京で日本人の住む粗末なアパートを見て、もっと立派なアパートを建てたら、(台湾の都市計画や関東大震災後の復興を手がけた)後藤新平はえらい人だった、などと言い、「今後もますます後藤新平みたいな人が必要なんじゃないかと思う」と話したりもしている。

このインタビューで面白かったのは、哈爾浜の病院で座談会をした兵士に、「どんな文学を読みたいか」と聞いたとき、そのうちの1人が「所謂流行の戦争小説などはつまらない、堤千代さんの『小指』のような小説がいい」と返した言葉に「何か深い暗示を感じました」と話していることだ。「小指」は昭和15(1940)年の直木賞受賞作で、戦場で負傷して両腕切断の手術をする若い将校と、医者に頼まれて彼を見舞った芸者との悲恋を描く。両腕を切り落とす前に、せめて一度、女の人の手を握ってみたいと願う純情な青年を愛し始める芸者。「時局にふさわしい」とはいいがたい小説を「読みたい」という現役兵士の率直な意見をそのまま伝えて、読む人が読めばわかるせめてもの体制批判を試みたのではないか。

参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『きのうの虹』(毎日新聞社)、同『文学者の手紙7』(博文館新社)、同「満州の兵隊さんと開拓団」(「日本学芸新聞」昭和16年10月10日)、中野重治『敗戦前日記』(中央公論社)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。