人からの伝聞のようで、窪川の年譜にもこの病気や手術のことは出てこないが、稲子がこの年の11月、中野にあてた手紙にも〈窪川はまだ七度五分の熱が出るので困っています〉と書いている。前に患った結核の菌が身体に残り、体調を崩すことがあったのだろうか。
満州から戻ってひと月もたたない9月、稲子は病身の夫を置いて、再び満州に赴く。「朝日新聞」に大きく予告が出た「銃後文芸奉公隊」の一員として新聞社から派遣されたもので、新聞連載の慰労として招待された前回の旅とは異なり、関東軍報道部の協力で企画された戦地慰問の旅である。
「奉公隊」の出発は16日。その直前、「都新聞」に連載していた徳田秋声「縮図」が中断する。「時局柄好ましくない」と内閣直属の情報局の干渉をたびたび受けており、15日掲載分が最後になった。
裕福な養家を追われ、落魄した男と、苦労を重ねた元芸者との関係を描いた秋声の小説はひっそりと、遠く戦争から離れた印象を与えた。稲子はこの小説があることで〈心を満たし、気持ちの支えとし〉ていたが、妥協し、時局に身を沿わせて続けることを望まなかった老作家は筆を擱くことを選んだ。未完の「縮図」は秋声最後の小説になった。
2度目の満州に同行したのは作家の
林は昭和13(1938)年の漢口攻略戦に派遣された「ペン部隊」に陸軍班の「紅一点」として従軍した際、男性作家を出し抜くかたちで陥落後の漢口に入っていち早く現況を報じ、「漢口一番乗り」として勇名をはせた。前出の「奉公隊」出発の予告記事で、関東軍の福山報道部長は「一行に三名の婦人文芸家が加えられていることは意義あることと思う」(注・当初の予定では太田洋子も参加するはずだった)と、わざわざ女性作家にスポットを当てている。
稲子たちは、朝日新聞社の社機「朝雲」に乗って羽田から奉天に入り、奉天から新京、
「朝日新聞」には、毎日のように奉公隊の動静が載った。奉天では関東軍司令部と陸軍病院を訪問、佳木斯では、慰問のほかに、林芙美子と稲子と、開拓村(第六次静岡村)に嫁いできた女性たちとの座談会が開かれた。家庭面に2度にわたり記事が掲載されており、2人の作家が、おもに家事や子育てといった暮らしむきについて聞いている。
哈爾浜では兵舎と病院を訪問し、また、病院と商工ビルで、1日に2度、講演をしている。29日、福岡に戻ってきた日の記事で大仏次郎は「野天で半日に6回もの公演をした」と話しているので、どこに行っても4人の有名作家はひっぱりだこだったのだろう。
なかでも横山隆一の人気は圧倒的だったようで、求められるままに「フクチャン」のマンガを約500枚、前線の病院と部隊で描きまくり、満州各地をスケッチするつもりでいたのにそちらは描けなかった。同じ記事に載っている稲子のコメントは、「逞しい兵隊さん達の日常をしっかり銃後に伝えたいと約束してきました」と言いながら、「慰問隊といいながらかえってこちらが慰問されたよう」とちょっと頼りなくもある。
帰国してすぐ、「日本学芸新聞」に稲子のインタビューが載った。内容は国策におおむね沿ったもので、静岡村で働く女性たちが
このインタビューで面白かったのは、哈爾浜の病院で座談会をした兵士に、「どんな文学を読みたいか」と聞いたとき、そのうちの1人が「所謂流行の戦争小説などはつまらない、堤千代さんの『小指』のような小説がいい」と返した言葉に「何か深い暗示を感じました」と話していることだ。「小指」は昭和15(1940)年の直木賞受賞作で、戦場で負傷して両腕切断の手術をする若い将校と、医者に頼まれて彼を見舞った芸者との悲恋を描く。両腕を切り落とす前に、せめて一度、女の人の手を握ってみたいと願う純情な青年を愛し始める芸者。「時局にふさわしい」とはいいがたい小説を「読みたい」という現役兵士の率直な意見をそのまま伝えて、読む人が読めばわかるせめてもの体制批判を試みたのではないか。
参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『きのうの虹』(毎日新聞社)、同『文学者の手紙7』(博文館新社)、同「満州の兵隊さんと開拓団」(「日本学芸新聞」昭和16年10月10日)、中野重治『敗戦前日記』(中央公論社)