第52回 「外地へ」…④
稲子に関する雑誌記事を国会図書館で調べているとき、情報局第一部が昭和16(1941)年7月に出した「最近に於ける婦人執筆者に関する調査」という冊子が、憲政資料室内の、ある内務官僚の寄贈資料にあるのを知った。

昭和15(1940)年4月から約1年間、主な婦人雑誌8誌に登場した女性執筆者を調べたもので、それぞれの読者に対する影響力や思想的傾向を洗い出している。

対象になっているのは「婦人公論」「新女苑」「婦人倶楽部」「主婦之友」「婦女界」「婦人朝日」「婦人之友」「婦人画報」である。

1、2編しか書いていない執筆者について、ざっと論じたのち、3編以上執筆している〝おなじみ〟の顔ぶれ40数人に検討を加えていく。稲子は、特に重要視されている作家群の中でも〈所謂、最前線にある人々〉で、〈指導的婦人の位地にあると見做される人々〉の筆頭に、林芙美子、吉屋信子とともに挙げられている。『素足の娘』がベストセラーになったことで存在感が増し、作家としても、読者に与える影響力の面でも、最も重要なグループ3人のうちの1人に分類されている。

 稲子についての評言を、少し長くなるが引用しておく。

〈窪川稲子は主として雑誌を通じて作品に、評論に其の鋭い洞察力を使駆し、何ものをも見抜き、純、不順を鑑別する能力は他に類を見ないように思われる。それだけ潔癖で糞真面目で、無類の正直者であるので、時々、過去の経歴を匂わせるのは残念である。けれども主として此の人が書く雑誌が婦人公論、新女苑、婦人朝日であるから、彼女のものを読者がかなり批判的に、好意をもって見ているとすれば、良い傾向を辿る人である事は認められると思う。彼女の過去の情熱が、今、かかる時に好ましき方向に向けられるならば力強い限りである。此の意味に於て窪川稲子の今後に期待さる所多い〉

続いて林芙美子については、〈作家らしい作家であり、詩人らしい詩人〉〈女流作家群の最上級に属する人〉と持ち上げ、〈愚劣な虚構の多い作品の氾濫する中にあって一つの奇跡〉とまで作品を評価しつつ、〈彼女に物を訊いたり、彼女が何か素晴らしい指導原理をもっていると見る事は錯誤も甚しい。出来るなら、そのまま、そっとして置いて良い作品を作って欲しい人である〉と論評している。

〈性格からも、作品からも窪川稲子、林芙美子、就中(なかんずく)、林芙美子とは正反対の人である〉とされ「主婦の友」の「守り神」とされた吉屋信子は、〈影響力は、其の婦人層に持っている人気を考慮するだけでも、充分認められても良いが、其の人気なるものが、所謂、根拠のないスターヴァリューから出たものであり、実質的には空虚であると感ぜられるのは残念〉とひどい言われようをしている。

やはりプロレタリア作家であった中本たか子も加えた4人について、出版社側の意見も付記されている。稲子と中本たか子については、〈昔、貧しい人の味方となって、闘った人だけに、そうした婦人達が何を考え、何を求めているかをよく知っている〉〈転向者の故をもって冷遇されるのは二人のために気の毒だと思う〉という意見が寄せられている。

この中に宮本百合子の名前がないのは、百合子がこの3人の人気作家とは別の、「評論家」グループに分類されているからだ。百合子はこの群では最も行数を割いて分析されており、〈至極、常識的にして、合理的な論調が基調をなしているのは好ましい事であるが、時折鋭い論法が潔癖すぎる程に、良いものは良いとし、悪いものは悪いと率直に論断しすぎるきらいもない事もない〉と、その影響力も見逃していない。

執筆者それぞれの詳細な分析をすすめていった結果の「四、適材適所」という章では、稲子は「女性一般の文化教養問題」の専門家として「C」評価、〈多方面な才能〉を評価される百合子は「婦人時局指導の一般問題」「一般文化教養」「女性の結婚と恋愛問題」「働く婦人の一般問題」の専門家と見なされながら、全分野で「C」評価をつけられている。いくら知識があり指導性や影響力があっても、思想に問題があると見なされれば「C」群である。そうしておいて出版社の自制を促しているわけである。

この調査論文を読んで感じたのは、執筆したのはおそらく文壇内部の人だろうということだ。1年間、婦人雑誌に載った雑文や短い小説を読んだだけで、素人がこれだけ的確に作品も含めた全体評価をくだすのは難しい。ところどころ笑い出したくなるような言い回しもあり、明らかに官僚の作文ではない。稲子や百合子、なかでも稲子へのきわめて好意的な文章を読む限り、彼女に近いところにいた、生身の彼女をよく知る人なのではないかと思う。

部外秘とされつつ、「可成(かなり)広く利用せらるる事を希望する」と付記されたこの「世論指導参考資料」がどの程度、情報局内で共有され、その後の軍の作家派遣にどの程度、影響したかはわからないが、ざっと読んだだけの人にも、稲子はその言動が最重要視される女性作家であることは一目瞭然だっただろう。元「中央公論」編集長で、昭和17(1942)年から起こった「横浜事件」に連座し中央公論社を退社した畑中繁雄の『覚書 昭和出版弾圧小史』(図書新聞社)によれば、この時期、新刊の発禁だけでなく、既刊本の発売禁止や自発的絶版を強要されるケースもあったという。

昭和15年7月10日の「在庫品再審査」でやり玉にあがった十数冊に、蔵原惟人の『芸術論』や伊藤正徳『軍縮論』などと並んで、窪川稲子の『牡丹のある家』も含まれていたと畑中は書いている。小説はこの1冊だけ。昭和9(1934)年刊行のこの本には、表題作のほか、原泉をモデルにした「プロレタリア女優」や「小幹部」「幹部女工の涙」など東京モスリンの争議に材をとった連作など、プロレタリア作家時代の作品が収められているからだろう。稲子自身、この絶版についてはとくに書いていないので、著者には告げずに密かにとられた措置かもしれない。この時期、稲子の動向は厳しく注視されていた。

参考文献=「最近に於ける婦人執筆者に関する調査」(情報局第一部)、畑中繁雄『覚書 昭和出版弾圧小史』(図書新聞社)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。