第50回 「外地へ」…②
2週間近い旅程を終えて日本に戻った稲子は下関で壺井栄と別れ、25年ぶりに故郷長崎へと足を伸ばした。

訪ねていける親戚はこの街にいなかったが、古い絵葉書でもしまっておくように自分のうちに映像として重ね持っている長崎の記憶を、一つひとつ確かめる思いで街を歩いた。

子どものころにはなかった電車が、狭い街中を走っているのが珍しかった。駅から大波止(おおはと)の港へと歩く途中で馬糞のにおいをかぎ、街の変わらなさを感じて稲子は元気を取り戻す。

非合法運動をしていた夫が逮捕され、長崎から上京、稲子を頼って窪川家で暮らしていた知人女性のことを思い出し、うろ覚えの住所を頼りに訪ねたりもした。翌日も、記憶の地図と照らし合わせながら、ひとり長崎の街を歩き続けた。生まれた二軒長屋の表に、昔と変わらず渋塗りの格子がはまっているのを眺め、ピエール・ロチが『お菊さん』の中で書いた氷あずきがいまも諏訪公園の茶店で売っているのを確かめ、途中でやめざるをえなかった勝山小学校の門をくぐった。

この、初めての長い旅行となった朝鮮行を皮切りとして、稲子はつかれたように外地を旅している。

翌昭和16(1941)年には、旧満州(中国東北部)へ2度、赴いた。

1度目は6月、満州日日新聞社の招待によるもので、「満州日日新聞」の大連版、「大連日日新聞」に小説「四季の車」を連載した慰労ということで、文藝春秋社員の永井龍男と一緒に大連に到着、ひと足先に着いていた作家の濱本浩と落ち合った。

「大連日日」連載の仲介の労をとったのも濱本である。大連を象徴するアカシアの花はおおかた散っていたが、咲き残っているところを濱本が探しておいてくれて、わずかに見ることができた。濱本は何度目かの満州で、現地の事情にくわしかった。

「素足の娘」で主人公の少女を強姦する男のモデルにした知人の自宅を訪ねて迷惑をかけたことを改めて詫びたというのも、このときのことだと思われる。知人はそのころ、大連ドックに勤務していた。

大連から奉天、新京、ハルビンへと回り、朝鮮を再訪したのもこの帰路で、濱本が同行した。奉天では、濱本の紹介で、満洲暮らしの長い、実業家の上田熊生と總子夫妻と知り合った。

上田は東京外語学校の露文科を出て、満鉄に入社。正金銀行(東京銀行の前身)をへて自身で事業をおこした。日本橋に生まれ、17歳で結婚し、すでに35年以上満州で暮らしているというという夫人の總子には滞在中3度会い、優しく控えめな人柄に稲子は好印象を抱いていた。

奉天を発つ前夜、その總子から思いがけない話を聞かされた。仲睦まじく見えた夫妻だが、總子は女性問題で自分を裏切った夫を許さず、28歳からいままで別々に暮らしている、というのだ。「中央公論」の小説の締切が迫っていた稲子は、奉天の宿ですぐそのことを小説に書き、「旅情」のタイトルで「中央公論」9月号に発表してしまう。

總子を紹介してくれた濱本に宛てた手紙で、稲子はモデルとした總子にわび状を送ったことを知らせている。「素足の娘」のモデルに謝罪してまもない時期だったことを思えば、作家の性懲りのなさ、したたかさも感じさせるが、稲子にとっては切実に書きたい挿話だったのだろう。

總子からは折り返し返事をもらっている。稲子が漫画家の横山隆一らと中国の戦地を慰問する「銃後文芸奉公隊」に加わる、という新聞記事を見て、「漫画家志望の次女を、横山に指導してもらえないだろうか」と頼んできたのだ。この次女というのが、『フイチンさん』などで知られる女性漫画家の草分け、上田トシコ(1917~2008)である。

總子やトシコ(本名俊子)は終戦の翌年の強制引き揚げで日本に帰ってくることができたが、敗戦時、専売品協同組合理事長だった熊生はハルビン駅で八路軍(中国共産党軍)にとらえられ、「文化戦犯」として銃殺されていたことが、昭和24(1949)年になって明らかになった。

新聞記事で熊生の死を知り、胸をつかれた稲子は、濱本に連絡先を問い合わせて總子に悔やみの手紙を書いた。總子からもすぐ、返事がきた。

昭和28(1953)年、稲子は「旅情」の続編にあたる「伴侶」を発表する。上田夫妻の物語は、そのさらに15年後、改めて總子に話を聞くなどして書かれた長編「重き流れに」に結実した。「重き流れに」の雑誌連載中、すでに漫画家になっていたトシコは、満州らの引き揚げのようすを詳しく絵に描いて知らせ、稲子の執筆を助けた。

参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『時と人と私のこと』(講談社)、同「大連の印象」(『佐多稲子全集』第16巻)、『文学者の手紙7 佐多稲子』(博文館新社)、佐多稲子研究会編『凛として立つ』(菁柿堂)、中国引揚げ漫画家の会編『ボクの満州』(亜紀書房)、「幸せの歩き方──上田トシコさんに聞く」(「彷書月刊」2004年2月号)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。