訪ねていける親戚はこの街にいなかったが、古い絵葉書でもしまっておくように自分のうちに映像として重ね持っている長崎の記憶を、一つひとつ確かめる思いで街を歩いた。
子どものころにはなかった電車が、狭い街中を走っているのが珍しかった。駅から
非合法運動をしていた夫が逮捕され、長崎から上京、稲子を頼って窪川家で暮らしていた知人女性のことを思い出し、うろ覚えの住所を頼りに訪ねたりもした。翌日も、記憶の地図と照らし合わせながら、ひとり長崎の街を歩き続けた。生まれた二軒長屋の表に、昔と変わらず渋塗りの格子がはまっているのを眺め、ピエール・ロチが『お菊さん』の中で書いた氷あずきがいまも諏訪公園の茶店で売っているのを確かめ、途中でやめざるをえなかった勝山小学校の門をくぐった。
この、初めての長い旅行となった朝鮮行を皮切りとして、稲子はつかれたように外地を旅している。
翌昭和16(1941)年には、旧満州(中国東北部)へ2度、赴いた。
1度目は6月、満州日日新聞社の招待によるもので、「満州日日新聞」の大連版、「大連日日新聞」に小説「四季の車」を連載した慰労ということで、文藝春秋社員の永井龍男と一緒に大連に到着、ひと足先に着いていた作家の濱本浩と落ち合った。
「大連日日」連載の仲介の労をとったのも濱本である。大連を象徴するアカシアの花はおおかた散っていたが、咲き残っているところを濱本が探しておいてくれて、わずかに見ることができた。濱本は何度目かの満州で、現地の事情にくわしかった。
「素足の娘」で主人公の少女を強姦する男のモデルにした知人の自宅を訪ねて迷惑をかけたことを改めて詫びたというのも、このときのことだと思われる。知人はそのころ、大連ドックに勤務していた。
大連から奉天、新京、ハルビンへと回り、朝鮮を再訪したのもこの帰路で、濱本が同行した。奉天では、濱本の紹介で、満洲暮らしの長い、実業家の上田熊生と總子夫妻と知り合った。
上田は東京外語学校の露文科を出て、満鉄に入社。正金銀行(東京銀行の前身)をへて自身で事業をおこした。日本橋に生まれ、17歳で結婚し、すでに35年以上満州で暮らしているというという夫人の總子には滞在中3度会い、優しく控えめな人柄に稲子は好印象を抱いていた。
奉天を発つ前夜、その總子から思いがけない話を聞かされた。仲睦まじく見えた夫妻だが、總子は女性問題で自分を裏切った夫を許さず、28歳からいままで別々に暮らしている、というのだ。「中央公論」の小説の締切が迫っていた稲子は、奉天の宿ですぐそのことを小説に書き、「旅情」のタイトルで「中央公論」9月号に発表してしまう。
總子を紹介してくれた濱本に宛てた手紙で、稲子はモデルとした總子にわび状を送ったことを知らせている。「素足の娘」のモデルに謝罪してまもない時期だったことを思えば、作家の性懲りのなさ、したたかさも感じさせるが、稲子にとっては切実に書きたい挿話だったのだろう。
總子からは折り返し返事をもらっている。稲子が漫画家の横山隆一らと中国の戦地を慰問する「銃後文芸奉公隊」に加わる、という新聞記事を見て、「漫画家志望の次女を、横山に指導してもらえないだろうか」と頼んできたのだ。この次女というのが、『フイチンさん』などで知られる女性漫画家の草分け、上田トシコ(1917~2008)である。
總子やトシコ(本名俊子)は終戦の翌年の強制引き揚げで日本に帰ってくることができたが、敗戦時、専売品協同組合理事長だった熊生はハルビン駅で八路軍(中国共産党軍)にとらえられ、「文化戦犯」として銃殺されていたことが、昭和24(1949)年になって明らかになった。
新聞記事で熊生の死を知り、胸をつかれた稲子は、濱本に連絡先を問い合わせて總子に悔やみの手紙を書いた。總子からもすぐ、返事がきた。
昭和28(1953)年、稲子は「旅情」の続編にあたる「伴侶」を発表する。上田夫妻の物語は、そのさらに15年後、改めて總子に話を聞くなどして書かれた長編「重き流れに」に結実した。「重き流れに」の雑誌連載中、すでに漫画家になっていたトシコは、満州らの引き揚げのようすを詳しく絵に描いて知らせ、稲子の執筆を助けた。
参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『時と人と私のこと』(講談社)、同「大連の印象」(『佐多稲子全集』第16巻)、『文学者の手紙7 佐多稲子』(博文館新社)、佐多稲子研究会編『凛として立つ』(菁柿堂)、中国引揚げ漫画家の会編『ボクの満州』(亜紀書房)、「幸せの歩き方──上田トシコさんに聞く」(「彷書月刊」2004年2月号)