第49回 「外地へ」…①
昭和15(1940)年の朝鮮半島への旅は、朝鮮総督府から招待を受けた稲子が、親しい壺井栄を誘った。

壺井栄は稲子より4つ年上の当時39歳。明治33(1900)年、小豆島の醤油樽づくりの小規模な親方の家に生まれた。同郷の夫で詩人の繁治が全日本無産者芸術連盟(ナップ)の活動家だった関係で稲子と知り合う。栄の年譜によれば、初対面は昭和4(1929)年ごろ、稲子が壺井宅を訪れたときで、栄は「この美しい女性が有名な『キャラメル工場から』の作者なのか」と息をのんで見つめたが、稲子のほうではほとんど印象に残らなかった。稲子と栄、宮本百合子の3人が親しくなるのは昭和7(1932)年以降、革命運動犠牲者救援会(モップル)の活動を通してである。窪川が刑務所にいたときは、達枝を産んだばかりの稲子に代わって栄が差し入れすることもあった。

「和服の繰り回し」という廃物利用の懸賞や、「貧乏文士の妻の日記」という生活記録を雑誌に投稿、賞金をもらったこともある栄が、故郷小豆島の子供たちのことを話すのを聞いて、「あなたは童話が書ける」と繰り返しすすめ、坪田譲治の『風の中の子供』を貸したのは稲子だ。

くりかえし「きっと書ける」と言われて栄が書いたのが「大根の葉」である。童話ではなく子供の出てくる小説で、百合子の口添えで「文藝」昭和13年9月号に発表された。その後は次々、作品を発表。昭和15年の1月号は「新潮」に「暦」、「文藝」に「廊下」、「中央公論」に「赤いステッキ」を書き、〈栄文壇を席巻す〉と、百合子は獄中の夫顕治に楽しげに手紙で報告している。

朝鮮半島への旅の3カ月前に出た最初の本『暦』で翌年、第4回新潮文芸賞を受賞し、戦後の『母のない子と子のない母と』『二十四の瞳』などのベストセラーは広く知られているが、このころ活躍が目立ってきた女流作家の一員に数えられるようになっていた。稲子と栄、画家の藤川栄子は親しく行き来をしており、そろいのコートを着て出かけることもあった。当時の朝鮮は日本併合下にあったとはいえ、初めての海外旅行ということで、気の置けない女友だちを誘ったのだろう。

2人は下関に出て、船で釜山に向かった。釜山は素通りで、すぐ当時の京城(現ソウル)に向かっている。開城(ケソン)、平壌、大邱(テグ)のほか、当時、鉄道局が力を入れていた観光地で「一生に一度は行ってみたい」と言われた名勝金剛山ももちろん、日程に含まれており、稲子たちは内金剛から外金剛へと回った。金剛山では外国人避暑客が泊まるようなホテルに泊まったが、貴賓室の洗面所の使い方がわからず洗たくしようとした栄がうっかり蛇口をひねったままで二人して食事に行き、部屋中を水びたしにしている。

招いた側としては、人気女性作家2人に慶州(キョンジュ)などの主だった観光地を案内、エッセイに書いてもらえればというのが目的だっただろう。観光以外では、作家志望の朝鮮人女性らとの座談会も企画された。

この次の年、稲子は朝鮮を再訪している。再訪後に書いた「朝鮮でのあれこれ」というエッセイで、稲子は長編小説『大地』を例に、パール・バックが農婦阿蘭(アーラン)をあのように生き生きと描けたのは彼女が中国の生活をよく知っていたからで、『大地』の阿蘭によって中国の女性を非常に近く感じることができたように、自分は日本に来ている朝鮮婦人の生活を深く描いてみたいと長い間願ってきた、と書いている。

先述したように、『素足の娘』にも点景ではあるが朝鮮人労働者の姿を、また『一袋の駄菓子』の長屋の生活でも朝鮮人の家族を、さりげないが印象に刻み込まれるようなかたちで「そこにいる人」として書いてきた。さかのぼれば「驢馬」に掲載された詩でも、日本で暮らす朝鮮の少女の姿をうたっている。

朝鮮の作家張赫宙(ちょうかくちゅう)の小説を読み、朝鮮に暮らす日本人官吏の家庭を描いた川上喜久子の小説『白銀の川』を書評するなど、いずれ小説に書くことを念頭に、関心を寄せ続けてきたことがうかがえる。

それだけに、朝鮮を自分の目で見ることは大きな喜びだったが、一方で「〔金剛山に〕まだ行けずにいる朝鮮の人々に対して済まないような気がしてくる」と、招待されて占領下の外地を特権的に旅することへの微妙な思いものぞかせた。

「小学校教育を受けられるものは希望者の2割」と聞いて、激しく心を動かされているのも稲子らしい。慎重に言葉を選んではいるが、日本が推し進めた創氏改名政策についても触れており、創氏の話題が出たら座が「しーんとなった」こと、「姓を創り変えるということは祖先の抹殺になる、ということが言われた」と、招待側の意図には沿わないであろう事実もはっきり書いている。

参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同「朝鮮の子供たち その他」「金剛山にて」「朝鮮印象記」「朝鮮のことあれこれ」(『佐多稲子全集』第16巻)、佐多稲子研究会編『凛として立つ』(菁柿堂)、壺井栄『私の雑記帳』(青磁社)、『壺井栄全集』第10巻(筑摩書房)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。