壺井栄は稲子より4つ年上の当時39歳。明治33(1900)年、小豆島の醤油樽づくりの小規模な親方の家に生まれた。同郷の夫で詩人の繁治が全日本無産者芸術連盟(ナップ)の活動家だった関係で稲子と知り合う。栄の年譜によれば、初対面は昭和4(1929)年ごろ、稲子が壺井宅を訪れたときで、栄は「この美しい女性が有名な『キャラメル工場から』の作者なのか」と息をのんで見つめたが、稲子のほうではほとんど印象に残らなかった。稲子と栄、宮本百合子の3人が親しくなるのは昭和7(1932)年以降、革命運動犠牲者救援会(モップル)の活動を通してである。窪川が刑務所にいたときは、達枝を産んだばかりの稲子に代わって栄が差し入れすることもあった。
「和服の繰り回し」という廃物利用の懸賞や、「貧乏文士の妻の日記」という生活記録を雑誌に投稿、賞金をもらったこともある栄が、故郷小豆島の子供たちのことを話すのを聞いて、「あなたは童話が書ける」と繰り返しすすめ、坪田譲治の『風の中の子供』を貸したのは稲子だ。
くりかえし「きっと書ける」と言われて栄が書いたのが「大根の葉」である。童話ではなく子供の出てくる小説で、百合子の口添えで「文藝」昭和13年9月号に発表された。その後は次々、作品を発表。昭和15年の1月号は「新潮」に「暦」、「文藝」に「廊下」、「中央公論」に「赤いステッキ」を書き、〈栄文壇を席巻す〉と、百合子は獄中の夫顕治に楽しげに手紙で報告している。
朝鮮半島への旅の3カ月前に出た最初の本『暦』で翌年、第4回新潮文芸賞を受賞し、戦後の『母のない子と子のない母と』『二十四の瞳』などのベストセラーは広く知られているが、このころ活躍が目立ってきた女流作家の一員に数えられるようになっていた。稲子と栄、画家の藤川栄子は親しく行き来をしており、そろいのコートを着て出かけることもあった。当時の朝鮮は日本併合下にあったとはいえ、初めての海外旅行ということで、気の置けない女友だちを誘ったのだろう。
2人は下関に出て、船で釜山に向かった。釜山は素通りで、すぐ当時の京城(現ソウル)に向かっている。
招いた側としては、人気女性作家2人に
この次の年、稲子は朝鮮を再訪している。再訪後に書いた「朝鮮でのあれこれ」というエッセイで、稲子は長編小説『大地』を例に、パール・バックが農婦
先述したように、『素足の娘』にも点景ではあるが朝鮮人労働者の姿を、また『一袋の駄菓子』の長屋の生活でも朝鮮人の家族を、さりげないが印象に刻み込まれるようなかたちで「そこにいる人」として書いてきた。さかのぼれば「驢馬」に掲載された詩でも、日本で暮らす朝鮮の少女の姿をうたっている。
朝鮮の作家
それだけに、朝鮮を自分の目で見ることは大きな喜びだったが、一方で「〔金剛山に〕まだ行けずにいる朝鮮の人々に対して済まないような気がしてくる」と、招待されて占領下の外地を特権的に旅することへの微妙な思いものぞかせた。
「小学校教育を受けられるものは希望者の2割」と聞いて、激しく心を動かされているのも稲子らしい。慎重に言葉を選んではいるが、日本が推し進めた創氏改名政策についても触れており、創氏の話題が出たら座が「しーんとなった」こと、「姓を創り変えるということは祖先の抹殺になる、ということが言われた」と、招待側の意図には沿わないであろう事実もはっきり書いている。
参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同「朝鮮の子供たち その他」「金剛山にて」「朝鮮印象記」「朝鮮のことあれこれ」(『佐多稲子全集』第16巻)、佐多稲子研究会編『凛として立つ』(菁柿堂)、壺井栄『私の雑記帳』(青磁社)、『壺井栄全集』第10巻(筑摩書房)