第48回 「万歳の声」…④
昭和14(1939)年秋、稲子は箱根に3ケ月滞在する。新潮社から依頼されていた初めての書き下ろしの長編になかなか取りかかることができず、近所に住む画家の藤川栄子に紹介された箱根湯本の古い小さな旅館の食事つき1日2円の8畳間に泊まり込み、執筆に没頭した。自著の出版を控えていた窪川は妻を送り出すことに積極的で、タカと2人の子どもの世話を快く引き受けた。

相生の父のもとで過ごした13歳から15歳ごろまでのことを題材にした長編『素足の娘』は翌15(1940)年3月(奥付は2月)、新潮社から定価1円80銭、初版1万部で「書きおろし長編小説」シリーズの一冊として刊行された。

佐多桃代という名の主人公の少女の経歴を稲子自身の経歴とほぼ重ねた『素足の娘』は、稲子自身が何度も書いているように、彼女の自伝的小説として読まれた。主人公が造船所(かいしゃ)主催の松茸狩りで山に行く途中、父親の知人に犯されるという小説的虚構も事実と受け止められ、モデルにした人物に思わぬ迷惑をかけたのは前述したとおりだ。「稲子の自伝」と読まれたことで、一連の「婦人公論」の記事に連なる、センセーショナルな「告白」と受け止められた面もたぶんにあるだろう。

『素足の娘』の恋と性にめざめるころの少女の視点は目まぐるしく動き、父をはじめとする周囲の人間や風景をいきいきと映し出す。少女は賢く、周囲が自分をどう見るかについてもおそろしく鋭敏な神経を持っている。豊かな感受性でさまざまなものごとを受け止める一方、自分の過剰な自意識も隠さず語り、その率直な言葉に爽やかな魅力がある。

主人公が知人に乱暴される設定は、新聞の身の上相談からヒントを得た。世間でいうところの「傷物」になった『素足の娘』の主人公は、だがそのことを自分の「傷」とはしない。身の上相談の相談者によく見られるような身も世もない嘆きを見せることもない。乱暴した相手に気持ちの上で負けず、家庭にいるときの相手の様子を観察したりもする。傷物にしたから相手を恨むのではなく、その秘密を共有する唯一の人間となったという、形而上的な理由で相手に憎しみを感じる。世間の常識にとらわれず犬をつれて素足で歩く娘の意識には、独特のしなやかさとつよさがあり、潔い。

『素足の娘』にはまた、そのころ各地で頻発したストライキの波が造船所にも及んできたことを描いていることも書いておきたい。ふところにしのばせた匕首を見せるように、著名な労働組合幹部を思わせる人物がストの応援にやってくる場面も、ちらりと登場させている。故国の歌を歌いながら家路につく朝鮮人人夫の姿も「胸をしめつけられる」ものとして描く。小説の中の相生の風景は、十代の稲子が見たものに、プロレタリア作家として見聞を重ねたいまの稲子が意味を与えて描かれており、時流にあらがおうとする彼女の思いがところどころに透けてみえる。

戦時下に出版された『素足の娘』は7万部のベストセラーになり、稲子の生涯でもっとも売れた本になった。前借りした初版1万部の印税は、カンヅメになった3カ月あまりの間に消えたが、その後の増刷がもたらす収入が一家の経済をしばらく安定させた。

『素足の娘』で稲子は人気作家として認知されるが、この時期に作家として成功を収めたことが、稲子のその後の人生に大きく影響してくる。

戦争は稲子にとっても身近なものになってきていた。昭和13(1938)年6月の「読売新聞」に書いたエッセー「生活断片」で、「義妹と二人で若松町の陸軍病院へ従兄の見舞いにゆく。陸軍病院へはこれで二度目」と書いている。義妹は、窪川の妹。腹と頬に砲弾が入ったままの従兄の顔は見たところ変わりなかったが、砲弾のせいで顔が変わってしまった同室の患者が「顔の歪んだところが自分の魅力」と軽口をたたくようすを書きとめている。

昭和14年5月には「輝ク部隊」の一員として、長谷川時雨や壺井栄らと出征兵士の遺家族を激励している。女性作家の発表の場として「女人芸術」を主宰していた時雨は、同誌の廃刊のあと昭和8(1933)年に「輝ク」会をつくり、機関誌「輝ク」を出していた。日中戦争が始まると「輝ク会」も戦争支持にかたちを変え、「皇軍慰問号」などを出すようになり、稲子も文章を寄せている。女性の銃後運動を統率する「輝ク部隊」を結成、慰問袋を送ったり、戦地や占領地に慰問団を派遣したりした。遺家族慰問も活動の一環である。

昭和14年6月には朝鮮総督府の招待を受けて壺井栄と2人で朝鮮を旅行している。初めての海外で、稲子はこれを皮切りに、占領地や戦地を次々旅するようになる。

参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『時と人と私のこと』(講談社)、「生活断片」(『佐多稲子全集』第16巻)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。