相生の父のもとで過ごした13歳から15歳ごろまでのことを題材にした長編『素足の娘』は翌15(1940)年3月(奥付は2月)、新潮社から定価1円80銭、初版1万部で「書きおろし長編小説」シリーズの一冊として刊行された。
佐多桃代という名の主人公の少女の経歴を稲子自身の経歴とほぼ重ねた『素足の娘』は、稲子自身が何度も書いているように、彼女の自伝的小説として読まれた。主人公が
『素足の娘』の恋と性にめざめるころの少女の視点は目まぐるしく動き、父をはじめとする周囲の人間や風景をいきいきと映し出す。少女は賢く、周囲が自分をどう見るかについてもおそろしく鋭敏な神経を持っている。豊かな感受性でさまざまなものごとを受け止める一方、自分の過剰な自意識も隠さず語り、その率直な言葉に爽やかな魅力がある。
主人公が知人に乱暴される設定は、新聞の身の上相談からヒントを得た。世間でいうところの「傷物」になった『素足の娘』の主人公は、だがそのことを自分の「傷」とはしない。身の上相談の相談者によく見られるような身も世もない嘆きを見せることもない。乱暴した相手に気持ちの上で負けず、家庭にいるときの相手の様子を観察したりもする。傷物にしたから相手を恨むのではなく、その秘密を共有する唯一の人間となったという、形而上的な理由で相手に憎しみを感じる。世間の常識にとらわれず犬をつれて素足で歩く娘の意識には、独特のしなやかさとつよさがあり、潔い。
『素足の娘』にはまた、そのころ各地で頻発したストライキの波が造船所にも及んできたことを描いていることも書いておきたい。ふところにしのばせた匕首を見せるように、著名な労働組合幹部を思わせる人物がストの応援にやってくる場面も、ちらりと登場させている。故国の歌を歌いながら家路につく朝鮮人人夫の姿も「胸をしめつけられる」ものとして描く。小説の中の相生の風景は、十代の稲子が見たものに、プロレタリア作家として見聞を重ねたいまの稲子が意味を与えて描かれており、時流にあらがおうとする彼女の思いがところどころに透けてみえる。
戦時下に出版された『素足の娘』は7万部のベストセラーになり、稲子の生涯でもっとも売れた本になった。前借りした初版1万部の印税は、カンヅメになった3カ月あまりの間に消えたが、その後の増刷がもたらす収入が一家の経済をしばらく安定させた。
『素足の娘』で稲子は人気作家として認知されるが、この時期に作家として成功を収めたことが、稲子のその後の人生に大きく影響してくる。
戦争は稲子にとっても身近なものになってきていた。昭和13(1938)年6月の「読売新聞」に書いたエッセー「生活断片」で、「義妹と二人で若松町の陸軍病院へ従兄の見舞いにゆく。陸軍病院へはこれで二度目」と書いている。義妹は、窪川の妹。腹と頬に砲弾が入ったままの従兄の顔は見たところ変わりなかったが、砲弾のせいで顔が変わってしまった同室の患者が「顔の歪んだところが自分の魅力」と軽口をたたくようすを書きとめている。
昭和14年5月には「輝ク部隊」の一員として、長谷川時雨や壺井栄らと出征兵士の遺家族を激励している。女性作家の発表の場として「女人芸術」を主宰していた時雨は、同誌の廃刊のあと昭和8(1933)年に「輝ク」会をつくり、機関誌「輝ク」を出していた。日中戦争が始まると「輝ク会」も戦争支持にかたちを変え、「皇軍慰問号」などを出すようになり、稲子も文章を寄せている。女性の銃後運動を統率する「輝ク部隊」を結成、慰問袋を送ったり、戦地や占領地に慰問団を派遣したりした。遺家族慰問も活動の一環である。
昭和14年6月には朝鮮総督府の招待を受けて壺井栄と2人で朝鮮を旅行している。初めての海外で、稲子はこれを皮切りに、占領地や戦地を次々旅するようになる。
参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『時と人と私のこと』(講談社)、「生活断片」(『佐多稲子全集』第16巻)