第23回 「愛のない不幸な結婚」…②
いわゆる玉の輿に何もかも期待するほど甘くはなかったが、新生活に寄せるささやかな望みは新婚旅行に出た当日に打ち砕かれた。

行き先は葉山で、稲子は丸善の友人たちから結婚祝いとして贈られた洋傘を持って行った。

海辺に寝そべった夫は、新妻の膝に頭を乗せて言った。

「貧乏人根性を出さないようにして呉れ」「貧乏人というものは金さえ持つと、すぐパッパッと費ってしまうものなんだ」

とっさに笑おうとしたが顔はこわばり、泣きたい思いが胸の中にうずまいた。黙って海を見ながら、「ソレ見ろ、ソレ見ろ」という内心の声に責め立てられていた。

嫁いだ先の小堀家には、遺産相続をめぐって親族間の複雑な争いがあった。長兄が禁治産者として廃嫡になり、次兄は他家の養子に出ていて、父小堀干が死ぬと、末子の槐三が家督を相続していた。学生の身分でも、地主として月に400円の収入がある一方で、父の代に人のためにした5万円の借金があり、年に二度、銀行に元利金として二千数百円を払わなくてはならなかった。長兄たちに仕送りもするので、若夫婦の暮らしむきは決して豊かではなかった。「俺は、財産の番人にさせられているんだ」と小堀は自嘲した。

稲子との見合いをお膳立てした義兄との関係も謎めいていた。結婚前、稲子の家に私立探偵が訪ねてくることがあったが、これも義兄と稲子との間に何かあるのではないかと疑う小堀が差し向けたものだった。義兄という人はもともと小堀の次姉の夫だったが、次姉の病中に長姉とも関係ができ、次姉が死ぬと長姉を妻にした。長姉も亡くなり、次の妻を迎えると、その妹を小堀に紹介、小堀としては結婚するつもりだったが、じつはその妹とも関係を持っていたと、人から聞かされたのだという。

どこまでが本当なのかはわからないが、なぜそんな疑いを持つ人間に結婚の仲立ちを頼むのかと不思議に思う。話を聞かされた稲子もそう夫をなじったが、「俺はやっぱり弱かったんだ。俺はぐんぐん引きずる人間に、結局頼ってしまうんだ」とただ力なく言うばかりだった。

家族や親戚とのつきあいを嫌って、新生活は長兄らの住む九段の屋敷ではなく、大田区の蓮沼の借家で始まった。小堀は昼間のうち学校へ行き、夜になると、義兄との関係があったのか、と稲子が泣き出すまで責め立て暴力をふるうので、銭湯に行けないほど体中があざだらけになった。

結婚後、半月ほどで稲子は自殺を考えるようになる。

ある晩、いつものようないさかいのあとで小堀の投げた洋服ブラシが顔に当たり、稲子は黙って台所に立った。猫いらずのチューブを押してビスケットに塗り、口に入れようとしたところで泣き崩れ、台所に飛び込んできた小堀がチューブとビスケットをもぎとり、庭に放った。このとき稲子はすでに妊娠中である。

冬になると二人は、目黒の洋館に転居した。新しい家の近くには、小堀の慶応中等科時代からの友人が数人住んでおり、親しいつきあいもあったが、深刻ないさかいのことは話せなかった。

大晦日、先に出かけた小堀と三越で待ち合わせをしていた稲子は、普段着と手回りの品と、合羽と足駄を風呂敷に包んで不意に家出する。買い物の費用として出がけに渡された40円が手元にあった。

目黒から電車で両国へ出て、三等車で木更津に向かう。行く当てがあったわけではなく、古めかしい地名の響きがそのときの気持ちに沿った。このときは身重の体で旅館に3泊すると、1月3日の午後に木更津を離れた。震災前に住んでいた向島の長屋の、親しくしていた家に立ち寄ると、行方を探す人がすでにそこまで来ており家出の事情は知れていた。その家の主人が目黒に出向き、迎えに来た弟の正人に伴われて目黒の自宅へ戻った。小堀は、相生の正文宅に出かけて留守だった。

夫婦が抱える問題は、家族や友人にも伝わり、正文やタカから文句を言われた小堀は、だれひとり味方してくれる者のいない寂しさを稲子にぶつけた。

半月ほどして稲子は再び睡眠薬を飲むが、小堀が口の中へ指を入れて吐かせた。

1月末、二人は一緒に死ぬ覚悟をして湯ヶ島温泉へ旅だった。新しいトランクや香水を買い、睡眠薬を2壜買った。死出の旅なのに、なぜかカメラ持参で、小堀は車窓から見える富士山の冠雪を写真に収めた。「お前は、ほんとうに俺と死ぬつもりなのか」「お前は俺だけ殺す気なんだ」。堂々めぐりで6、7日たち、「もう、帰ろう」という夫に、「新しい生活に入ろう」と妻は訴え、帰り道の小堀は上機嫌だった。

目黒に戻った二人は、それから2日後の2月8日、再び心中を企てる。

誰のことも信頼できず、猜疑心のとりこになったまま死のうと言い出す夫に絶望しながら、稲子は新しい寝間着を出してやり、自分も着替えてベッドに入った。その後で、湯ヶ島へ持っていった睡眠薬のジアールを1壜ずつあおった。

箪笥の被い布がかぶさって時計が見えない。自分が死んでいく時間が見たかった稲子はベッドを降りてカバーの乱れを直した。午前2時17分を過ぎているのを確認し、ベッドに戻るとすぐ意識を失った。

参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『私の東京地図』(講談社文芸文庫)、同「隠された頁」(『佐多稲子全集』第16巻)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。