第24回 「愛のない不幸な結婚」…③
目黒の洋館には、少し知恵の遅れた叔母の俊子が家事手伝いのために同居していた。2月9日の朝、いつも通りの時間に起きてこない二人の様子を見に来て、寝室に倒れ苦しんでいる二人を発見し、近所の医師を呼んできた。

若夫婦の心中未遂事件は新聞沙汰にもなった。

大正14(1925)年2月10日の各紙社会面に記事は出ている。

「資産家の/若い夫婦/劇薬自殺/枕を並べて」(東京朝日新聞)、「若い資産家が/夫婦心中/末ッ子で相続した/複雑な身の上の青年」(東京日日新聞)、「金持ちの慶応学生/財産争いで夫婦心中/中目黒の宅に劇薬で」(読売新聞)、「資産家の/若夫婦心中/毒薬を呑んで」(萬朝報)、「慶大生が妻と/謎の毒薬心中/寝床で苦悶中を発見さる/男は三十万の資産家」(報知新聞)。

そのなかでも、徳富蘇峰が創刊した『国民新聞』は、「身重の妻と/奇怪な魔睡/資産家の若夫婦が/洋館で枕を並べて」と怪奇小説ばりの見出しをいくつもつけて事件を詳報している。警察発表をそのまま字にして(『東京日日』は小堀と兄との財産をめぐる確執に触れているものの)ほぼ似たりよったりの他紙を圧倒する独自取材を敢行しており記事ボリュームもある。

「恨まれる姉婿」の見出しで、小堀の義兄と夫婦の関係にも踏み込んでいる点がめだつ。義兄との関係を疑った小堀が煩悶の結果、神経衰弱に陥り、しばしば稲子を虐待したと書いてある。記事には義兄の実名、勤め先も出ており、稲子との間にも何か関係があったように報道されたということで、重役に釈明するため身の潔白を証明してほしいと、そのころ勤め先の北海道にいた義兄がわざわざ上京してきて稲子に頼んだ。

『国民新聞』は、小堀の叔父や、次兄の養家である神田の呉服店にも取材に行き、「あの男がどうも薄情なので親類中でも死んだってそりゃ可愛相だと云う人もありません」などという、薄情なのはどちらだと言いたくなる談話をくわしく載せている。この談話についた見出しは「親戚達から/嫌われ者」。新聞記者が話を大げさに書きたてているとしても、これでは「自分には味方がいない」と稲子にぐちりたくもなるだろう。

財産管理を任せている弁護士も信頼できず、後述するが後見を頼んだ人にも裏切られている。周りの人間を信頼できない小堀が、唯一人の味方とたのむ妻を完全に自分のものにしたいと、暴力をふるい、言葉で苛み続けた。殴っても蹴っても相手が離れていかないことで愛情を確かめる、今でいう家庭内暴力の構図である。

『国民新聞』の記事では、虐待したり、稲子が家出したりするうちに本当の愛が芽生え、二人を心中に導いた、と見てきたような結論が導き出されている。稲子が不幸な結婚生活について書く文章のうちに、相手への本当の愛は感じとれないものの、夫の性格の弱さや不幸な境遇に同情する気持ちは伝わってくる。

二人とも回復が危ぶまれたが、先に小堀の意識が戻り、そのあとで稲子が正気づいた。薬を飲んでから3日ほどたっていた。

相生から出てきた稲子の両親も見守っていたし、丸善時代の友達も見舞いに来た。正文たちは稲子を一日も小堀のそばに置いておきたくなくて、少し動かしてよい状態になると隣の部屋へ移し、翌日には自動車に寝かせて四谷にあったヨツ(正文の再婚相手)の親戚の家へと運んだ。四谷で数日養生したあと、稲子は相生の両親の家へ帰っていく。

参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『私の東京地図』(講談社文芸文庫)、同「隠された頁」(『佐多稲子全集』第16巻)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。