若夫婦の心中未遂事件は新聞沙汰にもなった。
大正14(1925)年2月10日の各紙社会面に記事は出ている。
「資産家の/若い夫婦/劇薬自殺/枕を並べて」(東京朝日新聞)、「若い資産家が/夫婦心中/末ッ子で相続した/複雑な身の上の青年」(東京日日新聞)、「金持ちの慶応学生/財産争いで夫婦心中/中目黒の宅に劇薬で」(読売新聞)、「資産家の/若夫婦心中/毒薬を呑んで」(萬朝報)、「慶大生が妻と/謎の毒薬心中/寝床で苦悶中を発見さる/男は三十万の資産家」(報知新聞)。
そのなかでも、徳富蘇峰が創刊した『国民新聞』は、「身重の妻と/奇怪な魔睡/資産家の若夫婦が/洋館で枕を並べて」と怪奇小説ばりの見出しをいくつもつけて事件を詳報している。警察発表をそのまま字にして(『東京日日』は小堀と兄との財産をめぐる確執に触れているものの)ほぼ似たりよったりの他紙を圧倒する独自取材を敢行しており記事ボリュームもある。
「恨まれる姉婿」の見出しで、小堀の義兄と夫婦の関係にも踏み込んでいる点がめだつ。義兄との関係を疑った小堀が煩悶の結果、神経衰弱に陥り、しばしば稲子を虐待したと書いてある。記事には義兄の実名、勤め先も出ており、稲子との間にも何か関係があったように報道されたということで、重役に釈明するため身の潔白を証明してほしいと、そのころ勤め先の北海道にいた義兄がわざわざ上京してきて稲子に頼んだ。
『国民新聞』は、小堀の叔父や、次兄の養家である神田の呉服店にも取材に行き、「あの男がどうも薄情なので親類中でも死んだってそりゃ可愛相だと云う人もありません」などという、薄情なのはどちらだと言いたくなる談話をくわしく載せている。この談話についた見出しは「親戚達から/嫌われ者」。新聞記者が話を大げさに書きたてているとしても、これでは「自分には味方がいない」と稲子にぐちりたくもなるだろう。
財産管理を任せている弁護士も信頼できず、後述するが後見を頼んだ人にも裏切られている。周りの人間を信頼できない小堀が、唯一人の味方とたのむ妻を完全に自分のものにしたいと、暴力をふるい、言葉で苛み続けた。殴っても蹴っても相手が離れていかないことで愛情を確かめる、今でいう家庭内暴力の構図である。
『国民新聞』の記事では、虐待したり、稲子が家出したりするうちに本当の愛が芽生え、二人を心中に導いた、と見てきたような結論が導き出されている。稲子が不幸な結婚生活について書く文章のうちに、相手への本当の愛は感じとれないものの、夫の性格の弱さや不幸な境遇に同情する気持ちは伝わってくる。
二人とも回復が危ぶまれたが、先に小堀の意識が戻り、そのあとで稲子が正気づいた。薬を飲んでから3日ほどたっていた。
相生から出てきた稲子の両親も見守っていたし、丸善時代の友達も見舞いに来た。正文たちは稲子を一日も小堀のそばに置いておきたくなくて、少し動かしてよい状態になると隣の部屋へ移し、翌日には自動車に寝かせて四谷にあったヨツ(正文の再婚相手)の親戚の家へと運んだ。四谷で数日養生したあと、稲子は相生の両親の家へ帰っていく。
参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『私の東京地図』(講談社文芸文庫)、同「隠された頁」(『佐多稲子全集』第16巻)