第22回 「愛のない不幸な結婚」…①
見合いの話は、丸善の上司を通じて持ち込まれたものだった。

見合いをするのは初めてではない。その前にも同僚を通じて、炭屋を営む人との縁談があり、「娘というものは、そういう話はお受けするものだよ」という祖母タカのすすめもあって会ってみることにした。男らしい、いい人だと感じたが、これで人生が決まってしまうということが寂しくなって、稲子のほうから断っている。

今度の相手は小堀槐三(えんぞう)という26歳の慶応大生で、都内に広大な家と3500坪の土地を持つ資産家の跡取りであった。世間的に見れば玉の輿である。当人からではなく、彼の姉婿が丸善の客、という関係で稲子に白羽の矢がたった。稲子は模範店員だったが、「女店員はおしろいばかりつけていて、のらりくらりしている」と男の店員から言われれば化粧をすること自体やめてしまうような、つっぱったきまじめさも持ち合わせていた。見初められたのではない、見込まれたのだ、というなりゆきはそんな彼女の気持ちに沿うものだった。

〈〔……〕貧しい娘の懸命な生き方を神さまが認めてくだすって、あたしに不釣合いなその縁談がきたのかなと、そういうふうにも思った〉(『年譜の行間』)

縁談が、天から与えられた褒美のように感じられるほど、20歳の稲子は働き続けるしかない毎日の繰り返しに倦んでいた。

見合いは大正13(1924)年3月、東京ステーションビルにあった精養軒の支店で行われた。ちゃんと歩いている、つまりとくにこれといって身体的な障害もないように見える、というのが小堀の第一印象だったというから、縁談の不釣り合いさと、そのことから来る不安はどこかで意識されていたのだろう。

丸善では男女交際を禁じていたが、そのころの稲子には好きな男性がいた。

稲子自身は相手の名前を書き残していないが、佐多稲子研究会によるインタビューによれば、それは増田薫という店員だという。生田春月(しゅんげつ)の雑誌『文芸通報』(大正12年5月『詩と人生』と改題)の購読をすすめたのもこの増田で、「夜思美(よしみ)」のペンネームで詩を投稿し始めても、稲子はそのことを増田に内緒にしていた。増田薫(増田かほる、の表記も)の投稿詩も、「夜思美」に少し遅れて誌面にいくつか掲載されており、そのなかには自分の入院体験をうたったものもある。

言葉にすることはなかったが、互いの気持ちはわかっていた。「そういうのは相寄る魂で」という稲子の説明の、「相寄る魂」というのは生田春月の自伝的小説のタイトルである。稲子が見合いをして結婚することが決まったとき、「僕は、その結婚に反対です」と言った増田は、結核で早逝したという。

もう1冊、このころの若者に絶大な影響を与えた本に、英文学者で評論家である厨川白村の『近代の恋愛観』がある。大正11(1922)年に改造社から出たベストセラーで、もちろん稲子も読んでいるだろう(「青春放浪」で厨川白村の『恋愛十講』と書いているのは、厨川の主著『近代文学十講』と『近代の恋愛観』の2冊を混同したのではないか)。

文学少女の稲子にはベストセラーに書かれているような劇的な恋愛が自分の人生にありうるとは思えなかったし、もしあったとしても、暮らしの貧しさの中では美しい恋愛も破れていくのではないか、と悲観するだけの世間知があった。

丸善時代に親しくなった佐藤キミは、アナーキズムを語る一方で、自分の恋愛話も打ち明けていた。自分の恋人が「俺は君の肉がほしいんだ」と迫る、などとあけすけな言葉をわざと使ったが、ずけずけと他人の内側に踏み込まない下町ふうの流儀でやわらかく聞き流していた。

戦後になってからの女性誌の座談会で当時をふりかえって、「苦労しすぎて、なんでも知ってるような気がして、いくらか自信もあるわけね。結婚すればうまくやっていけるだろうという、うぬぼれと投げやりのからまった……」と語っている。

見合いの翌月、稲子は小堀と結婚し、新所帯を持った。

初めて見合いをするころに、祖母のタカが「お前の寝顔を見てたら、とても可愛らしい。きっと旦那さんに可愛がられるだろう」と言ったことがある。祖母の言葉にあるエロティックなニュアンスは稲子を少したじろがせたが、彼女の言葉にうなずく気持ちも確かにあったのだ。

参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『私の東京地図』(講談社文芸文庫)、同「隠された頁」(『佐多稲子全集』第16巻)、同「青春放浪」(『佐多稲子全集』第17巻)、小林裕子『佐多稲子 体験と時間』(翰林書房)、佐多稲子研究会『くれない』5号、「座談会 女流作家の“はたちの青春”」(『若い女性』1958年9月))

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。