見合いをするのは初めてではない。その前にも同僚を通じて、炭屋を営む人との縁談があり、「娘というものは、そういう話はお受けするものだよ」という祖母タカのすすめもあって会ってみることにした。男らしい、いい人だと感じたが、これで人生が決まってしまうということが寂しくなって、稲子のほうから断っている。
今度の相手は小堀
〈〔……〕貧しい娘の懸命な生き方を神さまが認めてくだすって、あたしに不釣合いなその縁談がきたのかなと、そういうふうにも思った〉(『年譜の行間』)
縁談が、天から与えられた褒美のように感じられるほど、20歳の稲子は働き続けるしかない毎日の繰り返しに倦んでいた。
見合いは大正13(1924)年3月、東京ステーションビルにあった精養軒の支店で行われた。ちゃんと歩いている、つまりとくにこれといって身体的な障害もないように見える、というのが小堀の第一印象だったというから、縁談の不釣り合いさと、そのことから来る不安はどこかで意識されていたのだろう。
丸善では男女交際を禁じていたが、そのころの稲子には好きな男性がいた。
稲子自身は相手の名前を書き残していないが、佐多稲子研究会によるインタビューによれば、それは増田薫という店員だという。生田
言葉にすることはなかったが、互いの気持ちはわかっていた。「そういうのは相寄る魂で」という稲子の説明の、「相寄る魂」というのは生田春月の自伝的小説のタイトルである。稲子が見合いをして結婚することが決まったとき、「僕は、その結婚に反対です」と言った増田は、結核で早逝したという。
もう1冊、このころの若者に絶大な影響を与えた本に、英文学者で評論家である厨川白村の『近代の恋愛観』がある。大正11(1922)年に改造社から出たベストセラーで、もちろん稲子も読んでいるだろう(「青春放浪」で厨川白村の『恋愛十講』と書いているのは、厨川の主著『近代文学十講』と『近代の恋愛観』の2冊を混同したのではないか)。
文学少女の稲子にはベストセラーに書かれているような劇的な恋愛が自分の人生にありうるとは思えなかったし、もしあったとしても、暮らしの貧しさの中では美しい恋愛も破れていくのではないか、と悲観するだけの世間知があった。
丸善時代に親しくなった佐藤キミは、アナーキズムを語る一方で、自分の恋愛話も打ち明けていた。自分の恋人が「俺は君の肉がほしいんだ」と迫る、などとあけすけな言葉をわざと使ったが、ずけずけと他人の内側に踏み込まない下町ふうの流儀でやわらかく聞き流していた。
戦後になってからの女性誌の座談会で当時をふりかえって、「苦労しすぎて、なんでも知ってるような気がして、いくらか自信もあるわけね。結婚すればうまくやっていけるだろうという、うぬぼれと投げやりのからまった……」と語っている。
見合いの翌月、稲子は小堀と結婚し、新所帯を持った。
初めて見合いをするころに、祖母のタカが「お前の寝顔を見てたら、とても可愛らしい。きっと旦那さんに可愛がられるだろう」と言ったことがある。祖母の言葉にあるエロティックなニュアンスは稲子を少したじろがせたが、彼女の言葉にうなずく気持ちも確かにあったのだ。
参考文献=佐多稲子『年譜の行間』(中公文庫)、同『私の東京地図』(講談社文芸文庫)、同「隠された頁」(『佐多稲子全集』第16巻)、同「青春放浪」(『佐多稲子全集』第17巻)、小林裕子『佐多稲子 体験と時間』(翰林書房)、佐多稲子研究会『くれない』5号、「座談会 女流作家の“はたちの青春”」(『若い女性』1958年9月))