(前項よりつづく)
多くのミニシアターは手探りの状態で劇場を開き、試行錯誤を繰り返すうちにその劇場の運命を変える映画と出会う。日比谷のシャンテシネ(現TOHOシネマズシャンテ)にとって『
ベルリン・天使の詩』(87)はその後の劇場のあり方を決定づける作品となった。
シャンテのオープンの頃、係長を経て、副支配人だった東宝の高橋昌治専務取締役は、この映画が公開された時のことを振り返る。
「シャンテがオープンして半年が過ぎた頃、興行はいいものはいいけれど、きついものはきついので、劇場の今後をどうしようという意見が東宝内部で出ていたようです。シネ1とシネ2の2館があり、1館はミニシアターではなくて、普通のロードショー館にしてもいいという声がありました。もともと、会社のつきあいで入る政治的な番組もあったので、ミニシアターが2館ではなく、1.5という感覚でしたが、それが1.0になろうとしていたんです」
ところが、『ベルリン・天使の詩』の成功で流れが変わった。
「この映画が大ヒットしたので、じゃあ、2、あるいは1.5でもいいかなという流れになり、それが今に至っていると思います。この作品の成功で、やっと劇場が軌道に乗ったという思いが当時はありました」
『ベルリン・天使の詩』の監督はドイツの“ニュージャーマン・シネマ”の旗手として世界的な注目を集めていたヴィム・ベンダース監督。日本では70年代に東京のホールで開催されたドイツ映画祭で代表作『
アメリカの友人』(77)などが上映された。80年代半ばにはさらに大きな規模のドイツ映画祭が東急系劇場で行われ、この時、最新作だった『
ことの次第』(81)と共に監督本人も来日した。
85年には『
パリ、テキサス』(84年のカンヌ映画祭パルムドール受賞)がみゆき座で上映され、さらにファンも増えた。本国に戻って10年ぶりにドイツ映画として撮ったのが、『ベルリン・天使の詩』で、87年のカンヌ映画祭監督賞を受賞している。
「この作品をカンヌ映画祭で見たフランス映画社の社長、柴田駿さんから、とにかく素晴らしい映画を買ってきた、これは絶対にヒットするから、という話を聞いたんです」
高橋専務は初めて『ベルリン・天使の詩』の存在を知った時のことをそう回想する。
「ところが、その後、プリントや台本をとりよせてみたら、映像はすばらしいけれど、中身はむずかしい、ということが分かり、これはどうしようということになりまして……。実は簡単な内容の映画ではなかったんです」
舞台はドイツの街ベルリンで、ダミエルとカシエル、ふたりの天使が登場する。天使といっても、かわいらしい容姿ではなく、ロングコートを着た中年男である。彼らは街を漂いながら住人たちを見守っているが、人間には彼らの姿が見えない。時に子供たちとは視線を交わすこともあるが、天使は彼らに触れることはできない。やがて、ダミエルはサーカスのブランコ乗りの美しい女性、マリオンに恋をして、人間になることを望む。天使であることをやめる選択をしたダミエルは人間としての肉体を得る。彼はベルリンのバーでマリオンと出会い、男と女となって見つめ合う。
物語だけを追うと、ロマンティックで、かわいい恋の物語にも思える(実はハリウッドで、その後、『
シティ・オブ・エンジェル』〈98〉という題でリメイクされている)。しかし、設定はシンプルながらも、ドイツの文学性・哲学性を強く打ち出した詩的な作風で、公開当時は「分からない」「難解」という声も聞かれた。脚本を書いたピーター・ハントケはヴェンダースの友人で、小説家、詩人、劇作家としても活動している。監督とは『
ゴールキーパーの不安』(71)、『
まわり道』(74)などでも組んでいたが、そんな脚本家の文学的な側面が強く出ていた。
冒頭に「わらべうた」が登場する。
「子供は子供だった頃、腕をぶらぶらさせ、小川が川になれ、川が河になれ、水たまりは海になれ、と思った。子供は子供だった頃、自分が子供とは知らず、すべてに魂があり、魂はひとつと思った」(第1連)
この「わらべうた」はバリエーションを変えて、何度も出てくる。
「子供は子供だった頃、いつも不思議だった。〔中略〕なぜ、僕はここにいて、そこにいない? 時の始まりは、いつ? 宇宙の果ては、どこ? この世で生きるのは、ただの夢? 〔中略〕僕が僕でなくなった後、いったい僕は、何になる?」(第2連)
「子供は子供だった頃、一度は他所(よそ)の家で目覚めた。今はいつもだ。〔中略〕昔は、はっきりと天国が見えた。今はぼんやりと予感するだけ。昔は虚無など考えなかった。今は虚無におびえる」(第3連)
人間が年を重ねることの意味を考えさせる詩を多用した観客の内面への問いかけが、ベルリンの街を俯瞰した陰影あるモノクロの映像に重なっていく。この映画が撮られた頃、ベルリンの壁はまだ存在していて、主人公が落書きのある壁の前を通ると、重苦しい雰囲気が漂っている。ナチス・ドイツの記憶を抱える街でもあるので、かつての殺戮の歴史を思わせる映像も挿入され、それが現代(=80年代)を生きる人々の孤独な表情にもうっすらと影を落としている。白と黒の街は大きな廃墟のようにも見える。ストリートを漂い、そこで生きる人々を見守りながら、やがては愛に目覚めていくダミエル。人間となった後は地上の“形あるもの”の魅力に目覚める。映像も後半はモノクロからカラーに変わり、主人公を取り巻く世界が色やにおいを獲得していく。
見る人の感性や感覚を問うような構成で、見た人の数だけ、異なる解釈も成立しそうな作品だ。主演はドイツを代表する名優のブルーノ・ガンツで、『刑事コロンボ』で知られるアメリカの人気男優、ピーター・フォークは元・天使だった俳優役で温かいユーモアを添えていた。
この映画について高橋専務はさらにこう回想する。
「公開の時、フランス映画社の柴田さんは大変、苦労されたと思います。字幕が入っても、この作品がむずかしいことに変わりはないからです。ただ、シャンテシネで公開するということで、字幕の内容などもいろいろ考えた結果、最終的な形が出来上がったのだと思います。試写で字幕入りを見直しても、とにかく、映像はすばらしいのですが、はたしてこれでお客様が来るのかな、と思ったものです」
◉公開後の大ヒットで、巨大な天使像を背にした中年天使の姿が人々の脳裡に焼き付いた
この作品の初日は4月23日なので、当時の新聞広告(『朝日新聞』)をたどり直してみた。4月1日には「シネ1」で9日に封切られる愛すべき人間ドラマ、『
スイート・スイート・ビレッジ』(85、こちらもフランス映画社配給)の広告の中に小さな黒枠がもうけられ、こんなコピーがある――「公開迫る! 全世界絶賛のヴェンダースの新しい傑作」
4月8日にはやっと本格的な広告が出ているが、枠はけっして大きくはなく、狭いスペースの中にマスコミのコメントが掲載されている。
「愛の賛歌、いとおしいまでの人間賛歌を天使がうたう」(淀川長治氏)
「はかり知れないやさしさの感動」(仏リベラシオン紙)
「最高に美しいラブ・ストーリー」(仏プルミエール紙)
「心に沁みいる映像メルヘン」(漫画アクション)
「崇高なまでに美しく、深くロマンチック」(米ヴァラエティ紙)
「洗練のきわみの、心のこもった傑作」(独ディー・ヴェルト紙)
「奇跡の映画」(浅田彰氏)
フランス、ドイツ、アメリカとコメントの国籍の幅を広げることで、全世界で絶賛された作品というイメージを印象づける。また、国民的な映画評論家の淀川長治からニュー・アカデミズムの学者、浅田彰まで著名人のコメントも幅広い人選になっている。4月15日にはさらに別のコメントも追加されている。
「絶妙の美しさ…音楽効果も抜群」(ちわきまゆみさん――ロックシンガー)
今となっては、「こんな人、いたなー」と思えるシンガーのコメントだが、ヴェンダースはロック好きで知られ、劇中にはオーストラリア出身のマニア好みのロッカー、ニック・ケイヴがパワフルなパフォーマンスを見せる場面があるので、あえてこういう人選にしたのだろう。
初日直前の4月22日には「本年度ベストワンの熱い反響の中で公開」と映画の質の高さを印象づけるコピーが登場。遂に当日となる23日を迎える。
公開の一週間後、30日には「大ヒット満員御礼、ロングラン決定! 現代ベルリンの愛と抒情の映像詩の傑作」とのコピーが打たれ、「都内独占ロードショー」の文字も目をひく。ハリウッド大作に比べると、ささやかな規模の広告ばかりだが、小さいながらも封切られた時の勢いは伝わる。
封切後のことを高橋専務はこう語る。
「なぜ、この映画が当たったのか今でも理由が分からないですね。『
グッドモーニング・バビロン!』(87)『
非情城市』(89)『
マイライフ・アズ・ア・ドッグ』(85)といった他のフランス映画社作品はなぜヒットしたのは分かる気がしますが、この作品に関してはなぜこれだけ入ったのか理解できないです」
ただ、当時のマスコミでの盛り上がりが成功の要因のひとつだったと高橋専務は考えているようだ。
「多くの媒体が好意的な記事を書いてくれたことがヒットした理由のひとつにあると思います。新聞では映画欄や文化欄だけでなく『天声人語』にもこの映画のことが書かれたんです。そうすると、見て分からなくても、分からないとは言えない。そんな雰囲気があったかもしれない。よく分からないけど、なんか、すごい映画なんじゃないか、という感覚もあったんでしょう」
『朝日新聞』の「天声人声」にこの作品が登場したのは封切りから約2カ月後の6月20日のこと。一部を引用すると――。
「〔主人公のダミエルが恋をして天使をやめると〕それまで天使の目を通じて淡々と描かれてきた黒白の画面が、突然、カラーに変わる。観客はそのとき、物には色やにおいや味があるという、単純な事実の素晴らしさに気づかされることになる。〔中略〕あわただしい都会生活のなかでわたしたちが意識することを忘れてしまったもの、この地上に生きて暮らしていることのかけがえなさ、といったものが伝わってくる。〔中略〕東京・有楽町のシャンテシネ2にかかって2カ月近くになるが、観客は若者から年配へと静かな広がりをみせているという」
80年代は大手新聞に記事が出ると、劇場動員に大きな変化が出ると言われていた。特に200席くらいのミニシアターの場合、こうした記事はかなり影響力を持っていたようだ。
一方、この作品の文化的な価値を感じさせる記事もある。文芸誌『新潮』の6月号には、新聞広告にもコメントを寄せていた浅田彰と作家、島田雅彦の対談が掲載されている。80年代を代表する若き文化人たちの知性のぶつかりあいともいうべき内容で、二段組みで20ページという長い対談だ。タイトルは「廃墟の光――『ベルリン・天使の詩』をめぐって」。
島田「今日、この映画を観て、音というのがいかにヴィジュアルな喚起力を持っているか、を再確認しました。〔中略〕頭や目で理解するだけではなく、五感全てで感じるように仕向けられているんです。〔中略〕〔そして、ヴェンダース・ベルリンの空間に〕迷い込んでしまったら、あれはどこだったのかはどうでもよくなって、観客は夢遊していたのか、記憶喪失になっていたということでしょう」
浅田「一種の光であり、いま強調されたみたいに音ですね。ある音調だけが、耳の奥に響き続ける。実際、語られる言葉も大抵は詩みたいなもので、日常会話とはかけ離れているでしょう。だから、この映画は一種のポエジーであり音楽であり夢であるという感じがするんだな」
こうした記事はほんの一例だが、当時、この作品はさまざまなメディアで取り上げられていた。そして、公開から約3カ月半が経過した8月11日、『朝日新聞』夕刊には「『ベルリン・天使の詩』、単館ロードショーで新記録」との見出しがついた記事が出た。
「『ベルリン……』は公開103日目の8月3日で動員総数9万5476人、興行収入1億2867万円余を記録した」
私が劇場に足を運んだのもこの頃だが、封切りからかなり時間がたっているのに、劇場がおそろしく混んでいて本当に驚いた。結局、席にすわることができず、通路に座って見た。
「本当は消防署には叱られますけど、この頃、226席の倍近いお客さんが入っていたように思いますね」と高橋専務は当時を振り返る。
「本当は階段にすわるのも消防法では禁じられていますが、仕方がないので階段にすわっていただきました。とにかく、あの熱気はすごかったです。シャンテの歴史の中でも特筆すべき大ヒットとなりました」
最終的にはシャンテで30週間のロングランとなったが、これに関しては『読売新聞』(10月12日夕刊)に記事が出ている。タイトルは「映画『ベルリン・天使の詩』が単館で入場者14万人を記録」。
「東京・日比谷の映画館シャンテシネ2で〔公開されているこの作品が〕去る二日で入場者十四万人を超えた。普通、公開から日がたつにつれて客が少なくなるのに一向に客足が落ちない。ローマで八か月、ニューヨーク五か月〔続映中〕、ロンドン三か月と世界でロングヒットしている映画。〔中略〕〔確かに〕マスコミの批評は良かった。しかし、これだけ永続して客が入ったのは、見た人の口コミによる評判が大きな支えとなったからだろうし、シャンテシネ2という新しい日比谷映画街のおしゃれな映画館で上映されたのも理由のひとつかもしれない。映画館、配給会社、観客、三者が映画を大切に扱ったのが、この新記録をもたらした(虚)」
いま、考え直しても30週連続上映という数字はすごいが、高橋専務によれば、本当はもう少し長く上映できる可能性もあったようだ。
◉美術家の横尾忠則が文を寄せたり(右=パンフレットより)、いまは亡き『広告批評』編集長の島森路子も88年のベストに選んだり(『月刊イメージフォーラム』89年3月号)映画外の反響も大きかった
「たぶん、次の作品があったので、やめたんじゃないかな」
今回の取材を側で見守っていた東宝・総務部の松本章也室長(スカラ座・みゆき座にも勤務)が当時の思い出をこう語った。
「実は、シャンテのシネ2の後、有楽町の駅前にあった有楽シネマで上映していました。当時、学生だったんですが、この映画がはやっているといわれて見に行きました。シャンテの楽日に行ったら、“もう入れません”と言われ、明日から有楽シネマに行ってください、といわれました。それで上映が終わりそうな時に行ったら、また、そこも入れなくて(苦笑)。その後、またシャンテにかかった時はすぐに行きましたよ」
連続上映は30週で終わっているが、有楽シネマへとムーブオーバー後、今度はシャンテのシネ1に場を移し、2週間だけ追加上映された。これについて高橋専務は語る。
「実はこの2週間の上映だけで、8400人、入っているんです。最初の1週で3400人、最後の週に5000人くらい。それを7日で割ると、1日700人。4回まわしやると、1回平均200人。226席のキャパだったので、結局、追加上映の最後の週まで満員だったということですね」
この映画に関しては聞けば聞くほどにすごい数字が次々に出てくる。公式発表ではシャンテでの上映では2億2511万3600円の興行収入となっていて、この劇場ではいまだこの記録は破られていない。ヒットの理由を探ることはむずかしいが、とにかく、当時は洋画の全盛期。他にも次々に話題作が公開されていた。
『ベルリン・天使の詩』が封切られた88年4月の新聞を見ると、スタンリー・キューブリック監督の『
フルメタル・ジャケット』(87)、スティーヴン・スピルバーグ監督の『
太陽の帝国』(87、今は売れっ子のクリスチャン・ベールのデビュー作)、オリヴァー・ストーン監督の『
ウォール街』といった巨匠監督たちの新作広告がずらりと並ぶ。さらにちょっと前には『
ラスト・エンペラー』(87)『
ロボコップ』(87)『
危険な情事』といった大ヒット作も出ていて、こうした作品を続映中の映画館もある。もっと小ぶりの作品では『
月の輝く夜に』(87)『
ブロードキャスト・ニュース』(87)といった良質のドラマが4月の新聞広告欄を飾っている。
ミニシアターも、この年、かなりの盛り上がりを見せていて、銀座のシネスイッチで上映の『
モーリス』(87)が9万人の動員、新宿のシネマスクエアとうきゅうの『
薔薇の名前』(86)が8万人の動員と、新しい動員記録が次々に出ていて、それを遂に『ベルリン・天使の詩』が超えることになった。
また、映画を離れ、出版の世界に目をやると、88年に最も売れた本は村上春樹の恋愛小説『ノルウェイの森』である。本が出版されたのは87年であるが、本当の強さを見せたのは88年で、「週刊ニュース社(ベストセラー部門)」「全国大学生活協同組合連合会(単行本部門)」「トーハン(単行本・文芸部門)」「日本出版販売(フィクション部門)」などの発表による年間リストの第一位を獲得している。
これに関しては『朝日年鑑 1989年』(朝日新聞社)の中の「文学も“商品”の時代」というこの年の文学の動きを振り返る記事の中で、「88年の最大の話題は、村上春樹の『ノルウェイの森』が、上下巻あわせて350万もの部数を記録したことだ。〔中略〕これまで文学好きの人気作家であったにすぎない村上は、これで一躍大衆人気作家になった」
翻訳小説ではジェイ・マキナニーの都市の憂鬱を描いた『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』、ブレット・イーストン・エリス原作の刹那的な青春像を見せた『レス・ザン・ゼロ』といったアメリカの若手作家の文学がベストセラーになっていて、ここでも「文学の“商品化”」が進んでいる。
一方、『朝日年鑑』のファッションの分析によれば「ホンモノ、一流品志向を反映し、87年から88年の日本はインポートブランドのラッシュであった」(シャネルが前年比130%増、ジョルジオ・アルマーニは20億円の予算を30%オーバーして達成したという)。ファッションだけではなく、外車や香水に関してもホンモノ志向が強まり、個性的な品に人気が集まったという。そんな時代に公開されることで、ドイツの街を深みのある映像でとらえた『ベルリン・天使の詩』は観客たちの心をつかんだ。
89年1月になると、日本では昭和の元号が終わって平成が始まり、バブル経済も破綻を迎える。一方、ドイツのベルリンでは89年11月に東西の壁の崩壊という歴史的な出来事が起きる。
日本や世界が変わろうとしていた88年。日比谷のミニシアターからアート映画の画期的な大ヒット作が生まれたのだ。
◉現在はTOHOシネマズシャンテに名を変えて、同じスクリーンで営業している