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夏目四郎さんが突然にこの世を旅立たれてから、この7月27日で早2年になる。夏目四郎さんが靖雅堂夏目美術店先代の大社長である事や、画商さんとして残されたその偉大な功績の数々は、このコラムを読んでくださっている美術関係者の方々には、もはや説明の必要もないだろう。夏目四郎さんにとっては、孫ほど年齢の離れた僕がお世話になった時間など、その画商人生のほんの一時に過ぎない。けれど僕にはそれはとても貴重な時間で、なによりその素敵なお人柄とともに、決して忘れられない画商さんなのだ。
当時は「夏目社長」とお呼びしていたのだけれど、現在は夏目進社長の代になっておられるので、このコラムでは親しみを込めて「夏目四郎さん」と書かせて頂く無礼をお許しください。 |
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初めて夏目四郎さんにお目にかかったのは、僕が大学を卒業して籔内佐斗司先生の工房に勤め始めた頃だった。当時の僕は「夏目美術店」と聞いても、一体どれほどの画商さんなのかもよく分かっていない無知な丁稚小僧で、けれど夏目四郎さんのその粋なお人柄はいつも優しく、かつ風格があって、お会いするたび緊張しつつも、とても好きな画商さんだった。1996年、アメリカ・ナイアガラで開催された籔内先生の個展の際、旅行をご一緒させて頂いた事は良い想い出だ。 |
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翌1997年、僕は京橋にある貸し画廊で初めての個展を開いた。その際、画廊の入口にスッと大きな高級車が横付けして、中から降りて来られたのが夏目四郎さんだった。大学出たての若造の初個展をまさか観に来て下さるとは思わないので、ビックリするやら緊張するやらで、なにをお話したのかも実はあまり覚えていない。そして帰り際、作品を一つ注文して下さったのだ。
個展後しばらくして、ご注文頂いた作品を抱えて、市ヶ谷にある夏目美術店に伺った。女性の職員の方がその作品を壁際に立て掛け、「素敵ですね」と言って下さると、夏目四郎さんもとても満足げな顔をして下さったことを今でもはっきり覚えている。その時の僕は心の中で「きっと初個展のお祝いに、ご祝儀として買って下さったんだろうな。ありがたいな」と思っていた。
ところがなんとその後、僕のその作品を、夏目美術店の入口横のショーウインドーに、しばらくの間飾ってくださっていたのだ。靖雅堂夏目美術店といえば、一歩中へ入れば横山大観、東山魁夷、前田青邨、平山郁夫……そういった錚々たる巨匠の名画が平然と並んでいる老舗中の老舗画廊だ。その“顔”でもあるショーウインドーに、誰も名前も知らない若造の初個展の作品を「気に入った」と平気で飾ってくださる。夏目四郎さんとはそういう方だ。
その後数年経って、この作品が修理で返ってきたのだけれど、作品裏のクギを引っかける穴のまわりにガリガリとたくさんの傷が付いていた。それを見ただけで「ずいぶんいろんな場所に掛けたり外したり、楽しんで下さっているんだなぁ」という事が手に取るように分かり、本当に嬉しかった。 |
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それから僕は毎年様々な展覧会や個展を重ね、少しずつ実績や経験を積み、2006年、夏目美術店から初めて個展の依頼を頂いた。場所は、「東美アートフェア 春」での靖雅堂夏目美術店ブース。「AKIO OHMORI EXHIBITION ―月光―」と名付けたこの個展は「やっとこれから夏目四郎さんに恩返しが出来る」という嬉しさと少しばかりの誇らしさで、全身全霊で取り組んだ。 |
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老舗画廊である夏目美術店が東京美術倶楽部という折り目正しき場所で、大森暁生の作品を発表するという事は、意外性とともに話題になり、それまでの東京美術倶楽部にはある意味似つかわしくないであろう作品は、おかげさまで様々な方面から評価を頂いた。なにより、ブースの前に夏目四郎さんが杖を片手に腰掛けて、満足そうな顔をして下さった事が嬉しかった。 |
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それから約4ヶ月後、突然の訃報を耳にする。
ついこの間までお元気な姿を拝見していただけに信じられない気持ちでいっぱいだったが、夏目美術店でお焼香を上げさせて頂いた時は、とにかく御礼の気持ちを一生懸命伝えてきた。
その後、お別れ会の席で夏目美術店の伊藤さんが「大森君の個展が四郎社長の企画した最後の展覧会だったね」と教えてくれた。
ハッとする思いだった。結果的にではあるけれど、でもこの事を僕はこの先、彫刻家を続けていくうえで、大事な誇りにしていくつもりだ。
夏目四郎さん、ありがとうございました。 大森暁生
(2008.07.20 おおもり・あきお/彫刻家)
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