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夢占いという者は古くから世界の各地にあったにちがいないが、シナの夢占いは、夢に見た物や事を文字に置換えて判斷を下すという處が、他の地域のそれと異なる特徴である。これは既に述べたように、漢字は最小の構成単位である文が二つまたはそれ以上組合わさって字となる。つまり字は文に分解できるというところからくるのである。また文も字もそれぞれ形と音とのほかに義をもっていることからでもある。
夢占いに文字を援用した者としては、先に後漢書蔡茂傳の禾失の例を擧げた。その後もこのような例はいくつもあるので、それらの二、三を述べよう。三國の時、蜀に趙直という占夢の専家がいた。恐らく占夢の専家として名の傳わる最初の人であろう。蜀志魏延傳に「延、頭上に角を生ずるを夢み、占夢の趙直に問ふ。直、延を詐りて曰く、夫れ麒麟は角有り、而れども用いず、是れ戦はずして賊自ら破れんと欲するの象なりと。退きて人に告げて曰く、角の字たる、刀下の用なり。頭上に刀を用ふるは、其れ凶甚し」という。果して魏延は叛を以て斬られたのである。 |
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同じく蜀志楊洪傳注附何祗傳に「(祗)嘗て井中に桑を生ずるを夢見たれば、以て占夢の趙直に問ふ。直曰く、桑は井中の物に非ざれば、會す當に移植せらるべし。然れども桑字は四十の下に八なれば、君の壽は之を過ぎざらんと。祗笑ひて言ふ、是を得れば足れりと」という。少し説明を加えておこう。桑非井中物、會當移植とは、桑は井戸の中に生えるものではないから、引き上げて移し植えられるはずだ。つまり高位高官に至る、または地位勢力を得るであろうとの意である。桑字四十下八とは、桑の字の形は十が四つと八とから成るということ。つまり桑ではなく、に作るということで、これが隷書以来の標準形であり、草書もまたその形から来ているのである(圖版一參照)。試みに書道大字典の桑字の條を見てみよう。楷行草隷四體の字例の中、に作る者二十一、桑に作る者九である。、桑の使用比率がこうであるというわけではない。に作るのがふつうであり、桑に作るのは例外であるから、桑に作る例を多く採ったまでのことである。桑に作る例は最早が唐代である。つまりが筆寫體(楷書)の標準字形であり、時代が降り印刷が盛んになるにつれ、桑が印刷體(活字また所謂る字典體)の標準となったのである。
言歸正傳、何祗はその後然るべき地位に昇進し、大いに手腕を揮ったが、占の如く四十八歳で卒した。
桑を四十八とするのは拆字の常例で、ずっと後の元代に相哥という人あり、原名は桑哥という。丞相を拜したとき、術者を呼びよせ桑字を書いて丞相の位にある年月がどのくらいであるかを占わせた。術者が言うには、木は十八、上に三つの十があるので四十八ヵ月でございましょうと。桑哥大いに不満で、遂に名を相哥と更え、相字を書いてまた占わせたところ、術者の言うよう、目は横ざまに見ればまたこれ四なれば、やはり四十八ヵ月でございますと。果して至元辛卯の正月に其の言の如くになったという。 |
《圖一》
漢 禮器碑 北魏 鄭羲下碑 唐
泉男生墓誌 唐
麻姑仙壇記
李詩殘簡
明 祝允明
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