その⑰ 小出楢重と同時代、
    同じ関西系洋画家・鍋井克之の随筆、
    そして楢重の鋭敏な官能性


 前回の原稿について、急いで訂正しておかなければならない。
 楢重の著書の中に、ときどき登場する“国枝君”を、ぼくは(※同時代の作家・国枝史郎」のことだろう)と記した(前回の稿、「散歩雑感」の中)。
 というのも、年譜か関連の文中で、楢重が国枝の作品の挿画を描いていたという記述が頭の片隅にあったことにもよる。
 ところが……楢重と同じ大阪出身で、楢重と共に東京美校(現・東京藝術大学)に学び、共に「二科会」の中心人物となる洋画家・鍋井克之の随筆集を引っぱり出してページをめくっていると、ちょいちょい、この“国枝君へ”の名前が、しかも、“国枝金三”という姓名表記で出てくる。

 ぼくの完全な思い違いでした。楢重や鍋井の随筆に登場する“国枝君”は、作家「国枝史郎」でも、楢重が挿画を担当した『東洲斎写楽』の「邦枝完二」でもなく、楢重や鍋井とごく近くで画友として深い関係のあった画家・国枝金三という人だったのだ。
 しかも、ぼくは伝奇小説作家(かなり昔、『神州纐纈城』をたしか桃源社版で読んでいる)の国枝史郎と、あろうことか、小村雪岱の挿画で知られた『おせん』『お伝地獄』の原作者として知れた邦枝完二が、頭の中で、ごっちゃになっていたらしい。
 これはコロナの後遺症のためだったか。(もちろんボケの言い訳です)ともかく以上の事項、急いで訂正いたします。
 というわけで、なにはともあれ、ぼくの思い違いは明らかとなったわけだが、それもこれも、楢重に関連あることと思い、鍋井克之の随筆集を書棚から引き出し、手にとったことにより、あらためて気づかされたことによる。(鍋井による所蔵の著作3冊の書影を掲げておきます)
 その17
『寧楽雅帖』(1947・昭和22年、宝書房刊)敗戦後2年と経ってない欠乏の時期に精一杯凝った造本。特漉の和紙を用いている

『閑中忙人』(1953・昭和28年、朝日新聞社刊)タイトルに“ひまでいそがしいひと”のルビ。口絵に当時はゼイタクだったカラー印刷で鍋井の風景画が、しかし発色劣弱
その17
 その17
『大阪繁盛記』(1994・平成6年、東京布井出版kk刊)木村荘八『東京繁昌記』に対抗したか。帯に「保存版」とあるように、鍋井の大阪魂の活力が存分に発揮されていて、確かに楽しく、風俗資料としての価値もある保存版
 で、この鍋井克之が、楢重と負けず劣らず、というか、一時は小説家としての将来を望まれるほどの文才の持ち主。
 鍋井の随筆集『閑中忙人』(昭和28年、朝日新聞社刊)の巻末には、若い頃からの鍋井をよく知る、“文学の鬼”と称された宇野浩二が文を寄せている。
 となると、ことの流れ、楢重の『めでたき風景』の前に、この画家・鍋井克之の文の筆のありさまにふれなければならないだろう。

 さて、その鍋井克之『閑中忙人』の巻末、作家・宇野浩二による「鍋井克之といふ人」と題する一文──。
 小出楢重のことから、つい、同じ関西出身の洋画家・鍋井克之のことに横すべりしつつあるが、この鍋井克之の随筆は、別に一章を設けてもよかった対象ともいえる。
 ともかく宇野浩二の文を見てみよう。
誰でも、はじめて、鍋井に逢つた人は、まず、おもしろい人である、と思ふであろう。
 と書き出される。──「それから」とあり、
 おのづから口をついて出る、輕妙で毒のない、圓轉滑脱な、それでゐて、皮肉もあり、諧謔もある、『天下一品』、と稱すべき、巧まないで巧みな、話し方に、魅せられるであらう。(それがこの随筆集の随處に出てゐるにちがひない。)
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『閑中忙人』本文中、
「芭蕉」という短文に添えられた
自画挿絵

 宇野浩二の、この文章、ただ読んでいるときには気がつかなかったが、改めて、こう書き移していると、読点がやたら多いことがわかる。今日、流通の文体からすると、少々、異様ともいえる。しかし、これが“文学の鬼”といわれた作家の(親切すぎる? )文体である。
 それはともかく、この宇野の、鍋井についての紹介は、そのまま小出楢重への文といっても通用してしまえるのではないだろうか。鍋井と小出のエッセイの味は、同じ関西人の“関西風味”ゆえのことなのだろうか。
 先に進もう。
さうして、それら(※鍋井の)の小説は、その時分の新進作家(例へば、菊池寛、加能作次郎、廣津和郎、宇野浩二、その他)の作品とくらべても一種の持ち味と特色があった點で、ほとんど『遜色』がなかったのである。
とし、続けて、その時分に、芥川賞というものがあったら、賞をとったか、仮にとれなかったとしても「もっとも有力な候補」になったことは「ウタガヒなしである」と評価している。
 このあと宇野の文章は、高見順、志賀直哉、廣津和郎、谷川徹三らの名を出しつつ、鍋井の本業、画のことにふれてゆくが、文の終り、締めは、こうつづられるのだ。
 最後に、器用なところの多分にある鍋井は、いはゆる「餘技」と云はれるものに巧みなものをいろその16持つてゐるが、それらの中で、上手なものがいろその16あるけれど、特に圖抜ずぬけてゐるのは、やはり、随筆である、と、私は信じてゐる。
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『閑中忙人』巻末
“文学の鬼”宇野浩二による一文のページ

──そんな鍋井克之、今日の画壇からも、そして、決して多くはない文業も、ほとんど忘れられつつあるのではないかと思い、小出楢重つながりで、こうして書きとめておく。
 そうそう、この鍋井克之と宇野浩二、そして小出楢重を結ぶ一つのエピソードが楢重の一文中に見える。紹介しておきたい。(『油絵新技法』のうち「挿絵の雑誌」)
よほど以前の事だが、宇野浩二氏が鍋井君を通じて自分の小説の挿絵を描いてみてくれないかという話があった。
 なんと、宇野は楢重に、自分の作品の挿画を依頼しようとしたようだ。で、その話の橋渡しをしたのが、鍋井だったとは!
 ちなみに、鍋井克之1888(明治21)年生まれ。宇野浩二1891(明治24)年。そして小出楢重1887(明治20)年、ほぼ、まったくの同世代といっていい。

 少々、長い寄り道をしてしまったが、本題の小出楢重に戻ろう。先にタイトルと奥付的表記を示しただけで、ここまで放置しっぱなしの、楢重の『めでたき風景』を改めて手にする。すでに、ちょっとふれたが装丁は楢重本人による。
 書き文字のタイトル、そして1930と刊行年が記された表紙が、たっぷりと朗らかで、なんとも好ましい。
 本文用紙は、大正末から昭和初期の刊行物によくみられる、マットで束が出、手にするとフワっと軽い。私、一時、“見良頃本”の蒐集に熱を入れていたことがあります。あ、“見良頃本”とは“ミヨゴロぼん”と称しまして、昭和3、4、5、6年ごろに出た、装丁、造本の美しい、楽しい本を、神保町や各地の古書市で物色、買い集めていたことがあるのです。
 この『めでたき風景』も表紙に示されているように1930、ドンピシャ昭和5年の、“見良頃本”なわけです。
その17
その17
『大阪繁盛記』中に収められている
作品群からの2点。
上は道頓堀、下は法善寺横丁

 またしても余談となりました。『めでたき風景』の主な文章は、すでにふれている、岩波文庫の『小出楢重随筆集』に収められている。少々、ヘソ曲がりの気味のあるワタシとしては、サービス気分もあり、この文庫に収められていない文を拾い読み、紹介することとしたいのですが、本文、巻頭の一文が「めでたき風景」と題しているので、これをトバす訳にはいかないでしょう。なにより著者、小出楢重に失礼にあたる。
 というわけで「めでたき風景」の一節──。

 『めでたき風景』の巻頭の一文は、本書のタイトルともなった「めでたき風景」。心そそるタイトルですねぇ。少なくともぼくには、そう感じられる。(ちなみに、楢重の別の随筆集『大切な雰囲気』というタイトルも素適だ)
 「めでたき風景」は、こう書き出される。
 奈良公園の一軒家で私が自炊生活していた時、初春の梅が咲くころなどは、静かな公園を新婚の夫婦が、しばしば散歩しているのを私の窓から十分眺めることが出来た。彼等男女は、私の一軒家の近くまで来ると必ず立ちとまる。そこには小さな池があり、杉があり、梅があり、ちんがあるのではなはだ構図がよろしいためだろう。(※漢字の旧字は新字に、随所ルビ。以下同様)
 楢重の、人間観察眼。そして
私はそれ等の光景をあまり度々見せられたためか、どうもそれ以来、写真機をぶら下げた紳士を見ると少し不愉快を覚えるのである。どうも写真機というものは、、、、、、、、、実は私も持っているが、一種のなまぬるさを持っていていけない、、、、、、、、、、、、、、、、、、。(※傍点筆者)
 とてもユニークにして鋭敏な生理感覚ではないか。写真機という物体に、楢重がいうように、“一種のなまぬるさ”を感じるという文章にぼくは、これまで一度も出くわしたことがない。今後も、多分ないだろう。(もちろんカメラは持つ人や状況によって、なまぬるいどころか、真実を伝える武器となったり、銃にも似た凶器にも似るのだが)

 このあと楢重の文は、楢重も含めた日本男児の「大和魂やまとだましい」の話に移り、この、「潜在せる大和魂」が、どんなに妻君たちの不評を買うか、自分や友人の実体験を紹介しつつ、楢重ならではのユーモラスな文体でサクッとつづられる。たった3ページにも満たない短文。
 ところで、この一文のタイトルの「めでたき風景」、どこから来たものか? 画業の風景画のことなどはひとことも出てこない。そうではなくて、冒頭の、「新婚の夫婦」が「細君を池の側へ立たせて」、夫君の手にしたカメラでスナップ写真を撮る、たびたび見せられる、その光景が“めでたき風景”というわけなのだ。
 そして、ごていねいにも、その様子が楢重の筆によって描かれ1ページとして付されている(岩波文庫でも)。
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『めでたき風景』の一文に付された楢重自身による挿画。卓抜な技価が否応なく伝わってくる

 この楢重の鋭敏な視線は、淡い皮肉はただよわせるものの、ユーモアの風味が流れ、嫌味にはならない。その位置取りと、文章表現はかなりの芸ではないでしょうか。

 これに続く、次の一文にも、たまたま「おめでたい」が出てくる。こちらは岩波文庫には収録されていない。題して「白光と毒素」。3ページほどの短文。書き出し、
 女給はクリーム入れましょうかとたづねる。どろその16の珈琲が飲み度い日は入れてくれというし、甘ったるいすべてが嫌な日はいらないといって断る。考えて見るにどろその16としたクリームを要求する日は元気で心も善良で、どうかすると少しおめでたいけれども、砂糖もなき、にがい珈琲を好く日はどうも少し、心がひん曲っていることが多いようである。
 例によって、この前フリのあと、話は急転、別のことがらに飛ぶ(というか本題に入る)。春という季節の話となる。
 春となると、「空気はどろその16となり、甘ったるく、なまぬるく」一さじのクリームが天上から注ぎかけられたようになる、というのだ。
 この「クリームの毒素」、すなわち、「春の毒素」によって「まったくもって恥かしいことを口走るが」それらは「幸福なたはごと、、、、としてお互いに見ぬふりの致し合いをするところに、また春のめでたさもあるようである」という。(※傍点筆者)

 なるほど、楢重さんは「めでたい」を人生肯定の言葉として用いているようだ。
 そしてタイトルの「白光と毒素」の「白光」はトロリとしたクリームの白であり、また春の光、空気やもしれず、「毒素」は「白光」のもつ「毒素」、つまり、春の季節ならではの春情をもたらす、「めでたき」毒素ということになるのだろう。「白光」については、また、別に本文のほぼ中ほどでも語られている。題して「瀧」。たった6行の短文。楢重の、光への嗜好。楢重さんにしてはマジメな、しかもとても美しい文章である。夏の季のエッセイだろう。全文を引いてしまおう。
 あまり熱を発散しない火や光、あるいは透明体を眺める事はすこぶるいい避暑となるものである。私は青いガラス玉をすかして電灯の光を覗くのが好きだ。
 とても美しく涼しそうな極楽世界を眺める事ができる。螢や人魂が夏に飛んでくるのも、西瓜やトコロ天が店先に並ぶのも皆、半透明の誘惑であり結構な避暑のモチーフである。 瀧は水であってなおかつ光を兼ねている。瀧を遠望すると活動の映写口から出る白光の感じがする。そしてガラス玉であって水晶でもある。涼しいわけだと私はおもう。
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楢重によるガラス絵「花火」
(1923年)

 (おや? )と思った。楢重の重要な画業の一ジャンル、他の画家があまり手を染めなかった「ガラス絵」に楢重さんが情熱を注いだのは、もちろん大阪っ子ならではの庶民の文化、卑近な表現形態を好んだことにもよるだろうが、「半透明の誘惑」「白光」の官能性への志向によるものでもあったのでは? と素人判断してみたくなる。

 昭和5年刊の『めでたき風景』を持っていることが嬉しく、ことさら岩波文庫に収められていない文を紹介してきたが、そんな”邪道“はこれくらいにして、入手しやすい岩波文庫を手にしよう。『めでたき風景』からは20篇のエッセイがセレクトされている。なかでも、何度も読んでいる、とても印象的な一文。「グロテスク」。
 いきなり楢重による 世界の真理が語られる。
一部分というものは奇怪にして気味のよくないものである。
読者は(ン? )と思うだろう。(なぜ、一部分は奇怪、気味の悪いものなのか? )と。楢重の文は、こう続く。
人間の一部分である処の指が一本もし道路に落ちていたとしたら、われわれは青くなる。テーブルの上に眼玉が一個置き忘れてあったとしたら、われわれは気絶するかも知れない。
と。そして、
その不気味な人間の部分品が寄り集ると美しい女となったり、羽左衛門となったり、アドルフマンジュウとなったりする。
ちなみに羽左衛門やアドルフマンジュウは当時、大人気の二枚目歌舞伎役者と西洋銀幕の人気男優。

 楢重は、人体の一部、それもその集合体を連想することになる。バスや電車の中の乗客や運転手、そして道行く人も眼玉ばかり。世界中が眼玉ばかり。
 あるいは腰や乳房、さらには無数の生殖器ばかりの世界。まさに、シュールでグロテスク。そして、この一文は、こう締めくくられる。
 やはり人間は全体として見て置く方が安全であり、美しくもあるようだ。それだのに、私は何んだか部分品が気にかかる。
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『めでたき風景』の内
「グロテスク」の挿画

 まっとうな、締め、結論のようだが、ぼくには最後の「私は──」以下の結語が、それこそ何んだか気にかかる。
 この一文に付された楢重の挿画は、彼の油絵にもよく描かれている、道楽の散歩の途中、古物商から入手した洋風のテーブル、その上に(多分、女性の)時計をはめたままの片腕である。
 この挿画だけを見ると、描線は、まったりと穏やかだが、描かれている絵柄はまるで江戸川乱歩や横溝正史の世界ではないですか。

 「下手もの漫談」も、いかにも大阪下町育ちの楢重の趣味嗜好が吐露されていて興味ぶかい。楢重は「上等なものも勿論好きだが」とことわった上で、
あらゆる下等なものに対してより多くの親しみを感じることが出来る。それは一つには、私が純粋の大阪の町人に生まれ、道頓どうとん堀に近く、何んとなく卑近なものにのみ包まれて育ったがために、高貴上等の何物を知らなかったという点もあると思われる。
その17
『めでたき風景』の内、
「下手もの漫談」の挿画。
三味線を弾く、ろくろ首の娘

と自らを注釈してみせる。そして、楢重の父母のこと、幼き日の街の夜店や父の妾宅しょうたくでの思い出、エロチックな千日前の「いき人形」「海女あまの飛び込み」「女相撲ずもう」「ろくろ首の女」といった見世物小屋での出し物のことなどが回想される。さて、『めでたき風景』はひとまず脇に置き、次の『大切な雰囲気』にうつりたい。ここでは、近代の日本が西洋の文化に憧れ、受容しようとする努力と、そのために不可欠の“大切な雰囲気”が楢重ならではの聡明な生理感覚を通して語られている。
(楢重の項次号につづく)