その⑮ 岩田専太郎──苦労や無理をして女に尽くす
    その気持ちの張りが仕事に


 岩田専太郎の女性遍歴をかなりリアルに記した懺悔録? 『溺女伝』は、女性との交歓を積むにつれて、地の文より会話の部分が増してくる。小説仕立てとなってくるのだ。「お雑煮」と題する章──
 大地震のあと関西へ流れてゆき、二度目に東京へ帰ったころから、さし絵の仕事が売れ出した。自分でいうのは、これもまことに気まりが悪いが、若手花形とでもいう形で、次から次へと仕事が増えた。
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まさに“現代の浮世絵師”岩田専太郎の腕達者ぶりを示す作品。まだ梅の季節に片肌脱ぎは寒かろう? いや、余計なお世話でした
 

 「大地震のあと関西へ」というのは、すでに記したように、先に、大阪入りしていた親友・川口松太郎のひきで「プラトン社」の仕事にありついたこと。しばらくの後、このプラトン社の事情で、川口も岩田も再び東京に戻ってくる。しかし、この頃の岩田の心境といえば、
──歌を忘れたカナリアは──
という、西条さん(*八十)の童謡が大好きだった。机の前にすわったきり、どうしても筆の動かない時には、自分が歌を忘れたカナリアのような気がした。
そうかぁ、求めに応じて、自在とも思える描写力で、多種多彩な挿画を、ほぼ五十年に渡って量産し続けて岩田専太郎にも、若き日、ときに、このような悩みもあったのか、とあらためて知る。

 正月の三ヶ日を、待合で暮らしたのは、そのころのことだった。年も押しせまって、それも大晦日、新聞の連載、最後の入稿を終えると、「ホッと、一息つかしてもらえる」。いくら売れっ子でも、それから正月の三ヶ日は一時の休暇となる。
 どうしよう? と思っていると、 大晦日おおみそかの夜遅くなってから電話がかかって来た。相手は「母親の代からの土地っ妓で」「宴会で知り合ってから、何となく遊び仲間の付き合いが続いていた」喜代香という妓。
「一緒に除夜の鐘を聞きましょう」、というお誘い。そして、明けての元旦は、東京に居残りのたちと待合い「芳村田」で元日の雑煮を食べようという話。若き専太郎先生、なかなかの色男ぶりである。
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カウンター? で酔いつぶれた艶なる妓。お銚子も倒れ、このあと、どうなることやら
 

 このあと、この喜代香姐さんとのいきさつは「昆布巻こぶまき」と題しての、荷風散人もどきの艶話が展開する。そちら方面に少しでも知識のある人なら、すぐに合点がゆくだろうが、ここでの「昆布巻」は正月、だからといって、おせち料理の中の昆布巻ではない。
 着物に帯を締めたまま、“いそはたらき”的に事を致す卑猥な秘語である。あの形が、この「昆布巻」にたとえられるため、とか。
 このあとの、“岩田世之介”と、喜代香や彼女の仲間の美津江が入り組んでの会話体での、あれこれの、“出入り”は略したい。
 ま、専太郎のモテぶり、というか、オノロケ話といっていい。ところが、この色男、結果として、このときは彼女たちに手を出さなかったようだ。
 だいたい、この画伯、色めいて、その素振りを示す女人に対して、いろいろ喋りすぎる。あれこれ、会話のやりとりを楽しみすぎる。テレ隠しなのか、東京下町育ちならではのたちなのか。そういう専太郎の“遊びぶり”を見ている親友(悪友?)は、じれったい気持ちにさせられるのか、
「おまえは間抜けだ!」
 と、先輩川口松太郎からよくいわれていた。彼は、間をとらえることの名人である。
「することが、幼稚で、見ていられない」
 とは、これも先輩中野実の言葉である。中野は、強引に、間をつくることの達人だ。
 面白いことに、二人とも当代劇作家の一流である。
 「舞台は、間が大切だ。芝居の面白いか、つまらないかは、結局、間の問題なんだよ、役者も、間が何よりも大切だ」
 と友人伊井寛が教えてくれたことがある。
そんな、友人たちからの物言いに対して、本人は、
 幼少のころから、女性は憧れの的であったが、それとても、歳三十ともなれば、女も哺乳類ほにゅうるいの一種だと気づかないわけではない。色気もあれば食い気もあって、始末におえない、と、心得るようにはなっていた。
しかし、かつての純情文学少年の専太郎画伯、
それでいながら、どうも、手を出す時になると、気がおくれる。
という仕末。どこかに心理的ブレーキがかかるようだ。
 「秘技」と題しての章でも、専太郎、持ち前の“自制癖”が語られている。吉原の世界での話。かつての著名人の名が登場する。

 遊女は、自分の馴染なじみの客のことを、人に語りはしないが、私が、吉原の大店で遊ぶにしては若かったので、うっかりするのか、話のなりゆきで、知っている人の名を口にすることがあった。
 岩田専太郎、挿画界では人気のスター的存在となっていたが、別の世界では、若く、小柄、優しい役者のような美形の面立ちゆえ、女性からは心を許しやすいタイプだったのではないだろうか。
 稲本へ送られた時の相方は、三上於莵吉氏の馴染みだったし、角海老の女は、久米正雄氏が客だといった。
「稲本」「角海老」は共にかつての吉原の大店の名。そして、
 当時まだ、若手挿絵さしえ画家だった私にしてみると、著名大家の先生方が、お通いになる女の人を、御一緒に抱いて寝るのは、恐れ多い気もするのだった。
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のれんの前で、“流し眼”の女性。ぐっと、抜いた襟の様子は素人との着こなしではありませんね
 

「夜ごとに変わるまくらの数」それが遊女の「なりわい、、、、」とはいうものの、岩田としては、やはり気になるようだ。とくに、「大文字」という店での相方は、専太郎の好みのタイプだったようだが、「これも残念なことに、村松梢風老がお馴染みだった」という。残念!
 専太郎も記しているが、村松梢風といっても専太郎より十歳ほどの年長だから、「このときは、まだ、四十になるか、ならぬかの壮年だったろう」とのこと。
 梢風先生、“その道の達人”として斯界で知られたしたたかな粋人。あの直木賞作家、『時代屋の女房』の村松友視とご縁のある人。その翁、「武名つとに高く、弱冠私如きの太刀打ちすべき相手ではない!」という存在。
 ところが寒い日の一夜、こんなことに。
 ──遊里では火難を恐れて、寝床での炬燵こたつなぞという便利なものはありはしない。
「もっと、こっちへ寄らない、寒いわョ、薄情ネ……」
「薄情どころか、心は燃えて、かっかしている」
「そんなら抱いて、もっと、しっかり……」
 長襦袢ながじゅばん一枚だけの女体からは、しっとりと暖かみがつたわってくる。寝床の中の冷たいうちは、それほどでもないが、お互いの体温で徐々にぬくもってくると、丸味のある乳房の下の、胸の鼓動もきこえてくる。
──濡れ場のシーンは、このへんで十分でしょう。もと文学に親しみ、常に大衆小説に接してきた、この挿画家は、床の中の喋喋喃喃のディテールも語らずにはいられない。生まれながらの、読者へのサービス精神ゆえかもしれませんけど。
 専太郎の女性遍歴は、敗戦後の闇市時代も途切れることなく続く。そんな時期の一つの述懐。
 ほこりっぽい焼跡のバラックの並ぶ街に、物も心もうつろなまま、寄り所を失ってさ迷っている数多い人の姿が、影絵のように眼に浮かぶ。手あたりまかせに絵を描いて、浪費を重ねている、自分の姿もまた、その影の一ツだった。
さらに、
 女の人を、自分たち異性と同様な哺乳類の線まで引下げずに、特別綺麗なものと思い込んでいた若いころを思い返すと、おれも年をとったなと、しみじみ考えずにもいられなかった。
 四十男の好色を、いやらしく思い、軽蔑けいべつしてはいるものの、自分だって、本質的には同じなのだと自嘲する気も起きてきた。
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これはまた、愉悦の表情? の女性。江戸浮世絵の枕絵(春画)でよく出合える顔つき
 

『溺女伝』の終章は「枯葉」と、それに続く「続 枯葉」。(編集ミスか、この見出しは、二章にダブル)「枯葉」では、前夜の、捨てばち気分からの飲み過ぎから、ついにそれまで酷使していた胃が、悲鳴をあげ、破れ吐血するはめとなる。仕事はもちろん、本を読むことも医者から禁じられる。それでも、五日が経ち、ようやく起きようかという気分になったとき、女性から電話がかかってくる。
「続 枯葉」で、その電話の主は、昔付き合った女性からの十年ぶりの連絡であった。
 専太郎先生、吐血のあとも女性との縁は切れない。こうなるともう艶富家と呼ばれても仕方がないだろう。
 きっかけは、劇作家・長谷川伸の誕生日のお祝いパーティ。若き日からの友人、山手樹一郎と旧交をあたためたりもするが、その会場で出会い、会を途中で抜け出した銀座のホステスと関係が生じてしまう。彼女との経過のあれこれは略す。専太郎の言葉を聞こう。
 ここまで書いて私は、あとを続けるのにためらい、、、、を感じている。
 据え膳には箸をつけないことを、日ごろの信条としている手前、この時のことを考えると、節を曲げたことが多少恥ずかしいからである。
こうも言う。
 ──溺れる──ということを、感情に重点を置いて考えていた私だが、想いの熟すのを待たずに、女体を抱くということは、それまでに知らなかった自分の姿であった。

『溺女伝』は、専太郎が第二回の菊池寛賞を受けたこと、そのことを新聞紙上で見た昔の女性からの電話と、その四、五日あと、デパートから送られてきた木の葉(枯葉)の柄のマフラーのことにふれ、余韻をただよわせつつ、エンディングとなる。
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サンケイ新聞系のカレンダーにも起用。描かれた女性は、当時の人気シンガー、越路吹雪にちょっと似ている?
 

 そして、この『溺女伝』にみる岩田専太郎のヰタ・セクスアリスは、好色、快楽の雰囲気よりも、常に自己内省、また、女性に対する自己犠牲──いってみれば、哀感ただよう恋の、というか、愛の殉教者の回想記を思わせる。日々、四六時中、締め切りに追われる挿し絵の仕事も、なんとか時間をやりくりしつつ、溺れ込む女性との関係のあれこれも、まさに「イノチガケ」と感じてしまう。いわば”無頼派”と称していい表現者だったのではないかと。しかも、心優しき、女人崇拝の。

 すでに重ねて記しているように、岩田専太郎には、戦後、三冊の回想記があるが、三冊、すべて、女性にかかわるもの。『溺女伝』のあと、『女・おんな・女』そして『わが半生の記』が刊行されるが、重複する内容や表現も少なくない。ただ『わが半生記』では長谷川一夫との縁が比較的くわしく語られているので紹介しておきたい。貴重なエピソードといっていい。一代の美貌の人気俳優・長谷川一夫の家に、岩田専太郎が住んでいたというのだ。終戦直後のこと。「温かい手」の章──
 寝るところも食べるものもない秋だったが、それは、
「専ちゃん、困っているなら、家へ来たらどう……?」
と親切にいってくれる長谷川一夫の言葉で救われた。(中略)
 戦時中の、建築制限のときに建てた新しい家だから、二軒建で、真ん中を長い渡り廊下でつないだ、木口も吟味してある、住み心地のよい家だった。
その家の奥の茶室を、岩田のために空けて提供してくれたのだ。敗戦後の宿なし絵描から一変して、茶室の庵の主である。
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煙草を手にする岩田と腰をかがめて岩田に話しかける一代の二枚目俳優・長谷川一夫
 

 つぎの章の「まどい」も長谷川とのことが記される。長谷川家の食堂となって居が定まると「さし絵や口絵、表紙などの仕事が、つぎつぎと来るようになった」という岩田を見て、長谷川一夫はこうも言ってくれる。
「表札を、はっきり出しておかないと、雑誌社の人が困るだろう」
 そういって、私の名も、あるじと同じ大きさに書いて、門の柱にかけてくれていたから、知らない人は、
 「結構なお住いで……」
 などといって、私の苦笑をさそった。
 長谷川一夫という不世出ふせいしゅつの典型的二枚目俳優の懐ろの深さを語る回想ではないか。もちろん、岩田の方にも、彼から、そう遇されるだけの人間的な何かがあったのだろう。

 もう一つ、呆然とするような話。岩田は、女性にバーの店を持たせる。まぁ、それ自体は、かつての売れっ子画家や作家なら、さほど珍しくもないことだったかもしれない。しかし、専太郎先生の場合、別々の女性に三軒も!
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さまざまな現代女性の表情を描き留める。時代の風俗に敏感
 
専太郎画伯、成熟期の画風。バーかクラブのママ風の女性の“大首絵”(顔アップ)を喜んで描いた
 

 本人の弁を聞こう。
銀座に次々三軒もバーをつくったのも、その愚かしさのあらわれだろう。といって、店を持たしてやることを条件に、女を口説いたわけではない。なんとなく、わけ、、ありになってしまった女たちに、それぞれの事情ができて、そうなった次第に過ぎない。

「そうなった次第に過ぎない」ったてねぇ。想像するだに、こちらの気も重くなる。案の定、
──「八方走りまわって金策に疲れる。(中略)が、疲れるくせに、それをしている最中は妙に、生きがいがあった。
というのだから、絶句するしかない。そして、
もうかるでしょう、なぞとは、勝手に他人が思うことで、バーのあかりを気にするようでは、ろくな絵は描けないと思っていた。
苦労して手に入れたバーも、「私自身は自分の店だと思ってない」。
苦労や無理をして女につくす気持ちの張りが、仕事にプラスする。それだけがとりえだった。
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岩田の売れっ子ぶりは、各社からの雑誌の表紙に作品が求められた。“女専科”の岩田が腕をふるう。「週刊朝日」の女性は北原三枝?(のちの石原裕次郎夫人)
 

 岩田専太郎の女性との関わりを記した自伝的、回想的文章を読んだあと、彼の挿画に接しているとき、こちらの気分の変化に気づかされた。それまでは、とかく、これ見よがしの技巧や奇抜な構図が鼻につき、ぼくにとっては、どちらかといえば苦手なタイプの挿画家だったが、時代時代、画風の変化は大いにあるものの、どれもが、それぞれ、岩田作品として、愛しいものに見えてくる。こちらも、その挿し絵、一点一点をていねいに味わい、楽しむようになった。
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左右2点とも江戸川乱歩『魔術師』に寄せた岩田の挿画。右は口絵、左の大時計と首の絵は本文中。(創元推理文庫より)
 

 それにしても、今思えば、雑誌界は夢のように活気のある時代でした。その背景あって、挿画界の寵児・岩田専太郎も生まれたのだろう。その意味では、岩田の女性遍歴の回想録は、大正、そして昭和・戦前、戦後の風俗を記した貴重な記録となっている。
(岩田専太郎の項、完)

 次回は、ぐっと趣きを変えて、谷崎潤一郎とコンビを組んだ小出楢重。