その⑬ 岩田専太郎──女人憧憬から
    溺女挿画家へのヰタ・セクスアリス


 主に江戸、明治の風俗、人物を描いて、緊張感に満ち、洗練を極めた意匠性で、いわゆる“雪岱世界”を創出した小村雪岱と、様々な画風、描線を縦横に駆使、大衆的挿画家として超売れっ子のとなり、戦前、戦後、昭和の中葉まで現役、一線で活躍した岩田専太郎──この二人の挿画家には、ほとんど、というか、まったく接点がないように思われるだろう。
 ぼくも二人は挿画に対する姿勢も異なるし、時代もかなりのへだたりががある、と、なんとなく認識していた。生まれ年でも小村雪岱1887年(明治20年)、一方、岩田専太郎1901年(明治34年)、14歳の差がある。
 「十年ひと昔」というたとえに従えば、雪岱は専太郎よりひと昔の挿画世界を担った画家といえる。これは、ぼくを含め挿画ファン一般のイメージ通りでもあるだろう。雪岱と専太郎は時代的にも、その作品世界もまったく別次元の挿画家と思われても不思議ではない。
 ところが──ここに“時間のトリック”という事情によって、雪岱と専太郎の二人は微妙に近接し、交錯していたのだ。“時間のトリック”というのは、雪岱は生まれ年こそ専太郎より14年早いが、その名が世の中に知られることとなったのは彼が30歳を迎える少し手前だから、“おくて”のデビューといえるだろう。
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小村雪岱のスナップ   岩田専太郎。なんとまぁダンディな。
 

 具体的にいえば、泉鏡花『日本橋』の、あの装丁によって名が知られるようになったのが大正3年(1914年)、28歳のとき。その後、鏡花の装丁といえば雪岱と認められるが、挿画家としての本格的デビューは、この連載ですでに記したが大正11年、里見弴『多情仏心』であり、雪岱35歳。さらに“雪岱調”によって人気挿画家として、その地位を獲得することとなるのは昭和8年、邦枝完二『おせん』の挿画によってであり、雪岱46歳。
 対して14歳年下の専太郎、そのデビューは早く、とくに大正15年(1926年)「大阪毎日新聞」連載の『鳴門秘帖』の挿画によって一躍大衆小説、挿画界のスターとなってしまう。このとき専太郎25歳。
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雪岱描く、里見弴『多情多恨』挿画(未だいわゆる雪岱風ではない)
 
専太郎の出世作、吉川英治『鳴門秘帖』挿画
 

 雪岱は、くりかえし記すが、これより4年前、大正11年、里見弴『多情仏心』の挿画を受けもつが、画風は未だ“雪岱調”を確立する前の試行錯誤の時であり、邦枝完二『おせん』の挿画が生まれるのは昭和8年(1933年)となる。
 つまり、年齢差と世間的知名度において、雪岱と専太郎の間に逆転現象が起きていたといえる。

 このような背景によって、ストイックで玄人好みのする雪岱と、大衆受けする専太郎は、画風も、挿画に対して取り組む姿勢もまったく異なり、まったく縁のないような二人なのだが、意外にも時に重なり交錯することとなる。
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専太郎描く邦枝完二(「おせん」の作家)『浮名三味線』挿画
 

 たとえば『おせん』『お伝地獄』の作家・邦枝完二の『浮名三味線』『遠島船夜話』などの挿画を岩田専太郎が描き、専太郎とは若き日からの親友であり、この作家の挿画といえば岩田専太郎といわれた川口松太郎の『元禄武士道』の挿画や『三味線やくざ』『蛇姫様』の舞台美術を雪岱が担当したりしている。
 そして、この二人、小村雪岱には随筆集『日本橋檜物町』ただ一巻があり、また岩田専太郎に、ぼくの知るかぎり、戦前、昭和13年新潮社からの『挿繪の描き方』(編著者)の技法書の他に、戦後の『溺女伝』(昭和39年読売新聞社刊)、『女・おんな・女』(昭和41年講談社刊)、『わが半生の記』(昭和47年家の光協会刊)の三著がある。

 雪岱の名随筆集『日本橋檜物町』についてはこの連載で挿画を示しつつ重ねて触れた。さて、専太郎の随筆集だが、三冊のタイトルからもうかがえるように、専太郎の描いてきた画風同様、その随筆もかなり一般読者向け筆致と思われる。雪岱随筆に接する時のような、いわば威儀を正して丁寧に、一行一行をたどり、その懐古世界を楽しませていただくというのに対し、専太郎随筆は、もっとくつろいだ気分で、傍らにコーヒーカップかワインのグラスをおいての読書、という感じになる。専太郎世界の随筆を刊行順にページをめくり楽しんでみよう。また、大正末、関東大震災で被災したため、友人の川口松太郎の率きにより大阪に移住、プラトン社より発刊された「苦楽」(戦後の大仏次郎による鏑木清方表紙画「苦楽」とは別)での本格的デビューから戦後に至る挿画も紹介してゆきたい。
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大正末から昭和初期、プラトン社の雑誌『苦楽』での専太郎の挿画。モダンで初々しい。
 

 『溺女伝』を手に取る。この一冊、今回のこの稿のために本棚の奥の列までひっくり返しさがしたのだが見つからない。函入り、装丁の姿まで頭に入っているのに、どこにしまい込んだやら、処分してしまったか。業を煮やして、再入手することに。しかし、こういう、いわゆる雑本(著者の専太郎先生ごめんなさい)ほど入手しにくいのは、これまでの経験で痛いほど知っている。
 しかし、ありがたいことに、しばらく前からインターネットで(たとえば「日本の古本屋」など)さがしている本のチェックができる。『溺女伝』は西荻窪の中野書店に在庫があった。西荻散歩がてら善福寺川を渡った少し先の倉庫のような店舗(土曜のみ開店とのこと)をさがしあてて、めでたく入手。
 愚痴とも自慢ともつかぬようなことを言いますが、ぼくのようなタイプの物書きは、小まめな体のフットワークと運動量が要求される。まず必要なテキスト(つまり雑誌や書籍)のコレクションと整理。さらには執筆にあたっての補充、入手。そしてそれらをデスクのまわりにぐるりと並べて、テキストの読み込み(何十枚ものフセンがベタベタと貼られることになる)。また関連図版の探し出し、選択、複写やコピー。それら準備が整って、ようやく原稿執筆、それも今は閉店してしまった神楽坂・山田文房具紙店の原稿用紙(あの葛西善蔵氏も常用していた)に手書き。
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大判の毎日グラフデラックス別冊「岩田専太郎の世界」(1997年 全4冊)と『溺女伝』(1964年読売新聞社刊)
 

 たとえば今回の、この岩田専太郎についての原稿でも、ぼくのまわりには、専太郎関連の本はもちろん、一旦、本置き場に戻した雪岱関連本、また挿画史関係書、特集の組まれた関連雑誌などなどが散乱することになる。専太郎本の中でも紙函入り、毎日グラフデラックス別冊「岩田専太郎の世界」(全四冊)は、全ページアート紙使用のため手にズシリ! と重く、目方を計ってみたら3キロ近くありました。(後に詳細紹介)
 こんな資料などを、「よっこらしょ」、と手にしてページをめくることから、ぼくの執筆活動は開始されるのです。
 しかも、自分の執筆原稿より、資料チェックや関連図版さがしやセレクトの方が10倍は楽しい、ということになるので、原稿(迷惑手書き)は遅々として進まず、毎回、自己嫌悪に陥ることとなるのです。

 原稿遅滞の言い訳はこのくらいにして、本道の、専太郎『溺女伝』だ。本扉、おーっ、さすが専太郎随筆、細いピンクの柔らかな曲線に小さな小豆のようなこれまたピンクの丸ぽちが二つ。単なるデザイン処理かと思うかもしれないが、ちょっと注意してみれば、女性の乳房と乳首。微笑を誘います。
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『溺女伝』の本扉絵。専太郎のシャレっ気が。
 

 「まえがき」から引用する。その書き出し。
溺女と申しましても、水死人のことではありません。また、私におぼれた女があるなぞと、うぬぼれてもおりません。
よく働いたけど、税金を払った残りを全部女のために使いはたして一文も残らなかった。つまり女におぼれた話「女溺伝」のつもりが間違ったのです。
 軽妙で、少々オトボケ気味の文章。目次は「はつ恋」「春のめざめ」「舞姫」「遊女」「まぼろしの塔」「失恋」……と続き、中ほど「昆布巻」「赤い長襦袢」「秘技」「泥の中」と山場を迎え、終り近く、「糸のもつれ」「好色」「うつろ」「流れ」「秘さめ」「残夢」等々とエンディングに向かう。

 巻頭の一章「はつ恋」では専太郎の幼少のころの記憶が語られる。彼は「東京の下町浅草」の生まれ。その「場所の四辺の空気は」
常盤津ときわずのお師匠さん、公園の芝居に出ている役者、落語家の前座、芸者あがりのおめかけさん、なぞという人達の住む家が並んでいた。
おやっ、これは小村雪岱『日本橋檜物町』で語られている、雪岱が育った檜物町の町の一隅の光景と、ほとんど同じではないですか! ここでも、まるで無縁のイメージの雪岱と専太郎の世界がダブる。ま、日本橋と浅草の違い、また14年の歳月の開きがあったにせよ、関東大震災前、同じ東京の下町情景が似ていても不思議ではないかもしれない。
 さて、その専太郎坊ちゃん、
まだろくに口もきけない時から、隣りのお婆さんに抱かれるよりも、お妾さんや、常磐津のお師匠さんに抱かれる方が気持ちよかったが、はっきり女の子を好きになったのは五ツの時だと思う。

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「溺女伝」本文中の専太郎による挿画
 

で、その小僧(失礼!)
常磐津のお師匠さんに抱かれた時の女体の印象も、いまだにはっきりおぼえている。(中略)くちびるほおに、柔らかな女体を感じながら、私の眼の前には、真白な広野が、はてもなくひろがっていた。
このときのお師匠さんは
風呂ふろあがりでお化粧を仕かけていたのだろうか? そのころの女の人は、えりから胸まで白粉を塗るならわしだったから、化粧の時には肌ぬぎになっていた。
という状態であったのだ。坊ちゃんにとって、「真白な広野」とは、お師匠さんの胸の白い肌であったわけですね。まさに“栴檀せんだんは双葉より芳し”。

 長じて専太郎、二十代を迎え、大阪プラトン社の仕事をきっかけとして仕事量も増え、画料も多く手にするようになる。
 もともと女性好きという育ちだから、フトコロが潤うようになると女性との交流も多彩に。しかし──「夢」の一文、

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生涯の親友・川口松太郎作『紅梅曾我』の専太郎による挿画。デッサン力の確かさをうかがわせる?
 

私だって、人並みに助平だから、惚れる以上は一緒に寝ることを希望しないはずはないのだが、やたら寝てしまうと、せっかく惚れたのが極めて当たり前の哺乳ほにゅう類同士のつき合いなり終るのが惜しかった。いくら背のびをして現実派らしくふる舞うつもりでいても、若い時だから、夢を大切にしたかったのだろう。
そんな、ロマンチスト(もっと、今日的に言ってしまえば、自意識的過剰気味の面倒くさいタイプ?)友だちからは
「お前はいったい何をしてるんだ! えさだけいて魚は一匹もかからないじゃァないか……」
さらに
ひどいのになると
「お前は片輪か?」
と、までいうのがあった。
若き専太郎の悩み。そんな“頭でっかち?”青年ほど、得てして後に確信犯的に、女性に入れ込む人間となることがあるようだ。

 「厭な奴」の章は、  
過去を思い返すと自己厭悪の念がわく。
と書き出される。  
十八歳の時から描き出した挿絵さしえは、三十歳のころまで売れ続けた。どうせ長くは売れないと思っていたのが、思いがけなくそうなって、小づかいにも困らなくなると、浅ましいもので欲が出たらしく、仕事を大切にする気になった。

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これも『溺女伝』中の挿画。豊満な女性の裸像と、バックの黒い馬の影はどのような意味が。
 

手八丁、来る仕事は拒まず、依頼者の納得するレベルの仕事を才を頼りに仕事をし、女人を描くという理由もあってか、また愛読書の荷風作品を見習ってか、あれこれの女性と接してきた専太郎だが、三十代に至って、「仕事を大切にする気になった」という。結構なことではないか。
 ところが、この『溺女伝』の著者は、またまた、中途半端な? 自己内省の人となる。はたして──。
 余談を許さぬ決死の女人遍歴? 専太郎のわが「ヰタ・セクスアリス」は次回につづく。