その⑤ 清方が広重とならび愛した若き画工
清方の『明治の東京』で、とくにこの一文に出合ったときは、タイトルを見ただけで、ほんとうに小躍りしたいくらいに嬉しかったおぼえがある──。「広重と安治」。
いま、われわれは歌川広重とか、また『牡丹灯籠』、『死神』の三遊亭円朝とかいうと、遠く、まさに歴史上の人物と思ってしまうが、『東海道五十三次』の浮世絵師初代・広重は明治維新を迎える、たった10年前の没。円朝にいたっては亡くなったのが1900年。明治三十年代までは活躍していた。この年に生まれたのが、物理学者の寺田寅彦の学弟、雪の結晶の研究で知られる中谷宇吉郎や、長く日本商工会議所会頭をつとめた元新日本製鉄会長の永野重雄や、石原裕次郎と吉永小百合が主演の『若い人』の作家・石坂洋次郎。
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清方描く、三遊亭円朝像。この円朝と清方が一緒に旅をしたというのだから驚く。 |
『牡丹灯籠』の三遊亭円朝の没から誕生のバトンを受けついだのが『若い人』の石坂洋二郎という事実は、かなり想像しにくい。
例によって話がどんどん横スベりしてゆくが、清方は、この三遊亭円朝といっしょに(取材)旅行しているのだ。もちろん清方は写生、円朝は土地の人の話を聞きに。ネタ集めでしょう。
いや、ぼくが記したかったのは清方随筆の中の「広重と安治」だった。
名前を見ただけでも「広重」といえば江戸の人。「安治」といえば。これは、どうしたってご維新後の明治のイメージ。その二人の名がならび称された一文のタイトル。ここで気になるのは、もちろん「安治」。清方の文を引用したい。書き出しから、いいですよ。
こがね色の |
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井上安治による「池の端雪」。もちろん上野不忍の池。遠くに赤い弁天堂が見える。 |
それと、1968年、全作品134点がなんと、高見沢版画から復刻、平凡社から五百部限定で刊行されている。これまた神保町の浮世絵関連の店の頭上の棚に見つけ、もちろん(ガンバッテ)入手した。もう二十年以上も前のことになる。自慢話はもういいでしょう。清方さんの「広重と安治」の文に戻る。かつての、よき江戸人東京人の共通した心の持ちよう。この一節、過去にどこかの文章でも紹介したが、二回でも三回でも、くりかえし、引用したい一節。
──めいめいが分を守ればものみな心やすく、長屋
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その清方さんの、この文章、こんな結びになる。
広重は世界的に知られた画人、紹介にも及ぶまいが、井上安治は本名安二郎、探景と号して、 |
じつは、この井上安治に昭和、それも戦後の時代に、注目、深い思いを抱いていた人物が、少なくとも清方さん以外、ぼくの知るかぎり二人いる。ひとりは誰あろう、先の、井上安治東京名所の版画の復刻版の解題を担った、そして、自らの随筆やラジオエッセイにも安治を登場させている、“東京随筆”ならまずこの人、名著『落語鑑賞』の著者であり、『巷談本牧亭』で直木賞を受賞した「あんつるさん」こと安藤鶴夫と──もうひとり、江戸通で知れたマンガ家(といってよいのかしら)杉浦日向子さん。
安治といったら、このお二人の名を出さずに先に進むわけにはいかなくなった。(いま、柴田宵曲の文に安治の名を見たのを思い出したが、こうなると収拾がつかない)。サラッと仕上げて、予告の泉鏡花つながりで、清方さんとご縁の深い、小村雪岱へと進めてゆきたい。
安藤鶴夫の井上安治への思いは半端ではありません。先の安治、生涯の仕事といわれる『東京名所真画図解』の解題を記し(ということは、この復刻出版をなにより喜んだのは「あんつる」この人にちがいない)、『今戸橋 雪』と題する、ラジオエッセイで、なんと、時代を超えて、安治と、すでに紹介ずみの木村荘八を同じ時間空間に登場させている。ちなみに、この文章の『今戸橋 雪』というタイトルは、安治の版画作品名なのだ。もう、それだけで「あんつるさん」の気持ちが伝わってくる。「安藤鶴夫ラジオエッセイ集」とサブタイトルの付された『昔・東京の町の売り声』(旺文社文庫)に収められている『今戸橋 雪』を見てみたい。
──「わたしは、安治の描いた〈今戸橋 雪〉という絵をみて、そしてこんな文章を書いた。〈ゆめ今戸橋〉と、題をつけた」──。
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「今戸橋 雪」が収められている安藤鶴夫ラジオエッセイ集『昔・東京の町の売り場』(旺文社文庫)カバー装画は三谷一馬。 |
この〈ゆめ今戸橋〉はタイトルにあるように「あんつるさん」の夢の中の世界の話。ここに、「あんつるさん」ご本人、安治、木村荘八などが登場する。夢が舞台の中の話としても、その前に井上安治にかかわる一節が何度か語られている。
去年、わたしは、井上安治の描いた葉書大の、東京スケッチの、木版画の、百何枚かまとまったものを、手に入れて、たいへん、ごきげんになった。
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古東京の叙情にあふれた版画を、百三十点以上、描いている。(中略)たいへん、うつくしい、若者であったという。明治二十二年の秋、二十六歳の若さで、死んでいる。
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そんな安藤鶴夫さんの旺文社文庫の『雪まろげ』『年年歳歳』のカバーは、この井上安治の東京名所絵で飾られている。「あんつるさん」の文庫に、これほどぴったりと寄り添う画は、まず、ない。安治装の二冊の文庫、薄い小さな本だが、ぼくの宝物だ。
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安藤鶴夫の旺文社文庫の、この二冊のカバーには嬉しくも安治の作品。
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さて、もう一冊だが、杉浦日向子の『YASUJI東京』(一九八八年/筑摩書房刊)。こちらはもう、いきなり本のタイトルに「YASUJI」つまり安治が登場する。杉浦日向子の名はマンガファンあるいは江戸時代好きの人には親しい名だろう。
はじめ、あの伝説の漫画雑誌『ガロ』に作品が掲載されて人気を博し、江戸の時代考証の学識によってNHK総合テレビの『コメディお江戸でござる』の解説コーナーのレギュラーとなる。
杉浦日向子、1958年、東京・日本橋の呉服屋に生まれるが、2005年、46歳という若さで癌のために死去。そんな彼女が、やはり若くして没した絵師をモチーフに描いたのが『YASUJI東京』。
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杉浦日向子『YASUJI東京』。カバーイラストが安西水丸描くというのもステキだ。 |
安治の世界、明治の東京を、安治を想い慕う若き女性とボーイフレンドが、時空を超えて安治と安治の描いた世界を訪ねるというストーリー。他の主な登場人物は安治の師である。明治を代表する風景絵師、“光線画”の小林清親。
ストーリーと構成は本書を手に取っていただくしかないが、ひとことで言ってしまえば、安治という若き画工と明治という時代の風景、気配への哀悼か。
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安治描く『本所御藏橋』と日向子さん描く新潮文庫『江戸アルキ帖』の中の『 |
巻末に田中優子『ぬくもりがかなしむ』、荒俣宏(著者の前夫)『東京の遠い記憶』安西水丸『安治の風景──谷中を歩く』。そして著者「あとがきにかえて」として『「東京」という夢』の文章が付されている。
清方、木村荘八、安藤鶴夫、そしてこの杉浦日向子、さらに安西水丸と──短命に終った井上安治と安治の描いた明治の寂しげな東京名所絵は、明治、大正、昭和、平成、令和の時を経て、ある人々の心と細胞、染色体にとりついてしまったようだ。なんとも、ありがたい汚染だ。なにより鏑木清方が、この若くして世を去った画工の、明治の東京を描いた作品を心にとどめていてくれたことが、うれしい。