その④ 清方随筆は、よき日本の言葉の宝庫

 
 岩波文庫の清方随筆集『明治の東京』を、もう何日、鞄の中に入れて持ち歩いていることだろう。習志野の部屋から都心への電車の中や喫茶店で人を待っている時間などに取り出してはページを開き、楽しんでいるからだ。
 鏑木清方随筆の編者といえば、この人、山田肇。カバーの画は、いかにも清方ゑがく、あまりにも淡い色彩。きつい主張がないので、ぼくも特別気にも止めていなかったが、清方随筆に親しむうちに、この、さりげない挿画風の作品が、この随筆集のカバーを飾るに、どんなにふさわしいものか腑に落ちることとなる。
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岩波文庫『明治の東京』。清方随筆を文庫で読めるありがたさ。
 

 トリビアルなことでしょうが、この際、あらたまって、この絵を見てみる。
 二人の女の子が、輪まわしをして遊んでいる。ぼくの子供のころの言い方では「輪っかまわし」、令和の時代今日では、もう知らない人が多いのではないだろうか。戦後育ちのぼくなどは、この遊びはときどき見かけた。ダメになった自転車の車輪に、太めの針金を添えて、押しながら輪をクルクルまわして行く。シャリシャリシャリとかいうやかましい音がしたかな。
 友だちに、この輪っかまわしがうまいのがいて、ぼくもやってみたが、ぜんぜんだめで。すぐにパタンと輪がコケてしまう。
 絵を見ると二人の女の子は、かなりの腕前のようだ。空いている左手をうしろに、バランスをとりながら、輪はちゃんと立ってまわっている。
 その前には、明治開化のシンボルの一つ、ガス燈。左の垣には、紫色の花、紫陽花(アジサイ)と、赤い花は、これは立葵(タチアオイ) でしょう。紫陽花といえば、清方は、この花をとても愛していたようで、雅号を「紫陽花舎」とし、函に紫陽花の絵を配した『紫陽花舎随筆』というタイトルの随筆集があり、また、たしか奥付の検印(戦後しばらくまで残っていた、この習慣もずいぶん前から消えました)に、紫陽花の花が押されていた記憶があります。(労を厭ってはいけない。大きめのトランクに収納の清方本をあれこれチェック。紫陽花の奥付検印は昭和九年 書物展望社刊『築地川』でした。しかもハードボール紙の本表紙にも紫陽花が……。なんとゼイタクな、銀の箔押しで! )
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『紫陽花舎随筆』
 

 岩波文庫『明治の東京』の表紙に戻らねば。その垣根の右手、遠くに、なにやら柱に網のようなものが四、五本立っている。帆船のマストにちがいない。
 ここまで絵解きをすれば、清方の絵と随筆のファンなら、もう合点がつくだろう。そう、この画は、明治の築地明石町、居留地の一景なのだ。とすると、二人の女の子は外国から来た子? たしかに髪は赤毛っぽい。
 この文庫本の表紙の挿画は、すでにふれた清方の(ずっと幻の名品だった、そして最近、国立近代美術館に収蔵かなった)代表作『築地明石町』と同じ町、同じ舞台だったのだ。
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明治の明石町の沖、築地の海に浮かぶ帆船と手前に小舟(『明治の東京』の中の清方による挿画)
 

 ところで、さっき、紫陽花の検印をチェックする際に書物展望社からの『築地川』を手にしたのだが、岩本和三郎(戦中、清方の随筆集を出版した双雅房主人もこの人)による、この本づくりは素晴らしい。
 ちょっと寄り道をして、久しぶりに、この『築地川』にしばらく触れていたい。
 平角背、函入り。背に清方の字の、なんと流麗なことか。繊細でありつつ、どこかピンと張った強い神経があり、専門書家に往々にしてありがちな俗臭がまったく感じられない。清方という人柄そのものの書なのでしょう。
 流麗といえば、永井荷風の書も、美しいに変わりはないが、どこか華やぎ、というか花柳好みのポーズがうかがえる。淫蕩の美というか。
 荷風の書のことはいい、『築地川』を函から引き出す。表紙はボールに手()きの和紙に、すでに記したように、紫陽花の銀箔押し。別丁扉がまた美しく、水面(もちろん築地川?)に浮かぶ水泡?をバックに、著者名、タイトル、そして版元の文字。タイトルの「築地川」が背にも使われた書で朱色の、これは木版刷りだろう。
 そして、版元「書物展望社版」の文字の左に前の持ち主の四角い蔵書印が。 (?)……そうか、忘れていた! 印の文字を見ると「釋迢空(しゃくちょうくう) 」とある。そうだったのだ。この清方『築地川』の、もとの持ち主は釋迢空、折口信夫だったのか!
 この本を入手したときは気がつかなかったはずだ。折口信夫の愛蔵本が、このぼくの傍にあるというのは、なにかスゴイ! しかも、保存状態は上々。目録などでは“美本”とされるだろう。
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昭和九年、書物展望社刊『築地川』。本表紙には清方の愛した紫陽花が描かれている。
 

 本文を開く。「序」は泉鏡花。清方は鏡花の文章に多くの挿画を寄せている。
  よき男の静かなるは、名木の町の柳に、
  春の雨の晴れなむとする風情あり。
  且つものゝあはれと(さび)を知れるは、
  明石町の朝霧に、朝顔の露を見たるによらずや。
 と、鏡花一流の文飾で清方のプロフィールを語っている。
 そして、この書物展望社版『築地川』の巻頭が「築地川」と題する一文。これが岩波文庫『明治の東京』に収録されている。読んでみよう。

 築地川といえば清方を想う。
 岩波文庫『明治の東京』を手にし、「築地川」のページを開く。文庫本で、三行分の書き出し。一読、よい気持ちにさせられる名文。引用、紹介します。
(ひわ)色に萌えた(かえで)の若葉に、ゆく春をおくる雨が注ぐ。あげ潮どきの川水に、その水滴は数かぎりない (うず)を 描いて、消えては結び、結んでは消ゆるうたかたの、久しい昔の思い出が、色の()せた版画のように、築地川の流れをめぐってあれこれと(しの)ばれる。
 明治の築地川を描いた、この一文の「消えては結び、結んでは消ゆる」の一節に、(はて? どこかで出合ったような)と気が止まる。
 そうそう、鴨長明『方丈記』の冒頭に似たような文章が。高校時代、古文の授業で覚えさせられました。ご存知の方も多いと思うが、懐かしいので、この一文も引用する。
ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
 昔の人の文章は、自ずと古典と響き合って読む側を楽しませてくれる。閑話休題(それはともかく)、清方「築地川」をもう少し味わってみたい。
 先の冒頭の文につづいて
築地川というのは本も末もない堀割の一つで、(つくだ)の入江にさしこむ潮は、寒橋(さむさばし)明石橋(あかしばし)の下を(くぐ)って、新道路にかかる入船橋(いりふねばし)、続いて新富座の横を流れ、流れ流れて、新橋演舞場の(わき)で二つに分れ、一筋は浜離宮(はまりきゅう)から芝浦の海へ出る。海からはいってまた海へ出る。
 清方は幼少のころから少年、青年のころまで、ざっと二十年ほど、この築地川の近くに住んでいたという。「(なつか)しさはひとしお深いもの」というが、それがいまや「見るかげもない」と嘆く。
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散歩好きと自ら語っていた清方。晩年の散歩姿。
 

 清方の心のふるさと築地にかぎらず、東京そこここ、ほとんどすべて、往時の「見るかげもない」ところばかりだろう。逆にいえば、だからこそ昔を想うノスタルジーの気持ちが生まれ出る。いまこの現在の東京の姿と、過ぎ去ったかつての東京の光景、つまり現実と幻影が交わり乱れて、心の中を()()する。

 築地川といえば、ぼくは新橋駅から浜離宮の庭園に向かうときには、庭園の入り口に至る少し手前の深い堀割の水面をのぞき込む。あらかじめ、そんなつもりではないのに、その場所では、つい気がつくと我知らず堀をのぞき込んでいる。

 また、あるとき築地魚市場の近く、食器やテーブル用品などを売る老舗の、年老いたご主人と、買い物がてら世間話をしていたときに、ご主人の子供のころ、築地川の川岸の杭が立ち並んでところにみんなで牡蠣(かき)を取りに行った、と聞いて──(このへんで牡蠣が!)とびっくりしたこともある。
 ぼくにとっての築地川といえば清方。その随筆と、居留地・「築地明石町」の画が浮かぶ。浜離宮前の堀をのぞき込んしまうのも、そのせいかもしれない。
 この『明治の東京』を、気ままにページをめくり拾い読みしていると、随所に清方ならではの素敵な言葉にふれることになる。
 日清戦争(一八九四年)から日露戦争(一九〇四年)への間あたりの時代のことで、──「私が好んで明治の生活を絵にしているのも、この五、六年の間が多い」──とし、「江戸から持ちつづけた市井(しせい)の行事四時の行楽、そのころの市民は黙って働き、よく遊んだ」と記している。「黙って働き、よく遊んだ」がいいですねぇ。つづけて「私の過ごして来た一生ではこの期間が万人の住みよく暮らしいい時代だったように思える」と述懐する。戦後の昭和二十五年の記だ。
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鏑木清方展図録(1999年 読売新聞社)
 

 「わが家の歴史」と題する一文の中、──「私たちはいろいろ申合わせをしたが、一生頭の上らない人を作るまいという、そうしてこれは実行された」──ともいい、誠実に自分の力で精一杯生きる庶民の心意気というか。
 ──ところで、今日の政治家や実業家の中には「一生頭が上がらない人」生涯の借りを作ってしまって世に出た輩も少なくないのでは。ま、そんなことは余計なことでした。
 また「築地の河岸」の項。
空地がどこにもあって、下町だってそこここにこんもりした森もある。そこへ今いったように水がきれいで、煤煙(ばいえん)が町中に散ることもすくなかった。たいていなところへは素足で出て行って、そう足の裏がざらざらして気味のわるいと思うようなことはなかった──。
 これはちょっと驚く、というか意外。当時、まだ道はそんなには舗装されてはいなかっただろうに。足の裏が汚れなかったとは! 当時の下町に暮らす人々の、自分の周りの世界を大切に小ぎれいに保っていたことが想像できる。
 「江東の梅を思う」の一文では、──「早春の行楽を語れば、まず第一に、(だれ)しも指を江東に屈するのが(つね)であった」──とし、今日も梅の名所として多くの参詣者を迎える亀井戸天神を挙げ、さらに清方先生を敬し、私淑した先の『濹東綺譚』の挿画家・木村荘八のことに筆は向く。
私がまだ旧居夜雷亭(やらいてい)(※神楽坂、矢来町の住居)に在住のころ、木村 荘八(しょうはち)さんが当社社頭にある石の臥牛(がぎゅう)をハガキに写して「当所に参りてなにとなく先生を思う」とたよりを寄せてくれたのも古い思い出になる。
 と、亀戸天神を訪れ、清方に著書を書いた荘八の思い出を記している。
 もちろん、その石造の、御神牛は今日も健在で学問の神様・菅原道真の従者として、合格祈願の人たちに撫でられ、ツルツル、ピカピカに光っている。
 ところで清方の時代の梅見は
ひとりあるきは退屈な行路なので、私も、いくたりかの連れを誘い合わせて、草臥(くたび)れては(あぜ)みちの枯草を敷いて持参の行厨(こうちゅう)(※お弁当)を開いたが、元来探梅の行楽などいうものは、いわば退屈をかみしめ味わうようなものであった
 と結んでいる。
 この「退屈をかみしめ味わうものであった」──が、なるほどそういうものなのか! と、貴重な考え、さりげないが深い美意識をいただいた思いがした。
 退屈は生きてゆくうちで大切な感覚なのだと。
 それにしても、今年もそろそろ梅の季節を迎える。なんとなく尻もモゾモゾと落ち着かない気分。とまあ、天神の梅を観に行かねば。
 ほどよいところで『明治の東京』を取り上げなければと思っているのに、あれもこれもと。
 もう一篇だけ、なんとしても、この一文だけは──。
 そのあとは清方の画業に関わる“こしかたの記”にサラッとふれて、次は泉鏡花の装丁で今日もマニアの多い、小村雪岱に移りたい。
(次回につづく)