13,たかしまや
 このあひだ、たかしまやへお母さんといった、そして五かいまでいって、ぼくのくれいよんをかったその時ぼくは、ずっと前にやくそくしてゐたきんこのことを思ひ出した、ぼくは、色々のきんこを見てようやっといいのをみつけた、そのきんこを買ってどんどんうへえいった、しょくどうの所へいったらきふにおなかがへってたべたくなった、だがおこられるからよしたそれからかさを買ったりしゃつを買ったりしてかへった。
 泰明小学校二年一組小沢信男の「私のつづりかた」十六本は、おおむねデス調で書いております。遠足とか、夏休みの思い出とか、先生がだしたお題に、お答えする気持ちか。
 デス調でないのが二本あって、二章目の「ツマラナイ」と、もう一つがこれ。どちらも自由作文だったのか。正直、読み返してもつまらない。
 だが本人には、なにごとかだったからこそ書いたのでしょう。このあいだ行った高島屋とは、日本橋のデパートです。そんなところへ行ったのか。母と二人きりで。なるほど、いくらかこれは特別なようだ。

 銀座通りには、松坂屋、三越、松屋と、デパートが三つもある。ことさら日本橋へ、地下鉄で往来するまでもないはずです。
 松坂屋が、ウチからも学校からもいちばん近かった。屋上にのぼると、眼下にひらたくひろがる家並みのかなたに、海がみえた。築地魚河岸のさきの、東京湾のどん尻が。風向き次第では汐の香もしました。
 この松坂屋は大正十三年(1924)に、松屋は大正十四年に落成開業した。ともに鉄筋本建築の八階建て。関東大震災の焦土から復興のシンボル的にそびえ立った。
 尾張町の四つ辻の、三越は昭和五年(1930)に、服部時計店は昭和七年に落成開業した。松屋松坂屋に数年も遅れたのは、銀座通りと交叉する道が震災を機に倍に拡幅され、いまの晴海通りになる。その区画整理事業に手間どったのでした。
 銀座一帯のごちゃごちゃした三十二町を整理して、北の一丁目から南へ八丁目までとしたのが、昭和五年だ。ものごころついたら、世の中はこういう姿でしたが。おもえば私が育ったのは、ほぼ新品の銀座八丁であったのだな。

 デパートへは、ときおり一家で揃ってでかけた。そのときは子ども一同よそゆきに着替えさせられた。ふだん着よりちょっとお洒落な服が箪笥(たんす)からでてきた。
 めあては松屋。ウチの車一台に総勢を詰めこんで、乗りつける。ご当地最大のデパートで、七階まで吹き抜けの中央大ホールが、松屋ならではの格別な景観でした。
 エレベーターには、エレベーターガールがいて、頑丈なガラス戸と、折り畳みの引き戸と、二重のドアを開け閉てする。ハンドルを操作して屋上までのぼり、地階へもくだる。
 どこのデパートもそれはおなじだが。松屋にだけはエスカレーターが一基ありました。脇の入口を入って、地階へ下りる階段脇に。ぜひともそれには乗らねばならぬ。広い階段を歩いておりて、乗って、一階へもどる。その乗り口にエスカレーターガールがいて、乗りなれない客の世話をやき、とっさの場合はピタと動きを止めたりするのでした。

 つまり、デパートへゆくのは、街中のピクニックのようなものだ。玩具売場と食堂と、それから屋上あたりが狙い目だけれど。親たちの買い物や、ひやかしにも、しばらく辛抱しなければならぬ。
 やがて六階の食堂へ到着する。子ども用の高脚の椅子があって、それに腰かけて待つほどに、小旗をたてたお子さまランチが運ばれてくる。その日のたのしみのクライマックスでありました。
 あらためておもえば、両親は二十代の新婚のころに震災に遭遇している。避難し、暮らしをたてなおす日々のうちに、乳飲み子を亡くした。それから幾星霜(いくせいそう)。三十代にして家業を営む身となり、数人の子らをひきつれ、復興の殿堂たるデパートを訪れる。なにかしらそれは祝祭的な、ハレの日だったのかもしれません。

 あの高脚の子ども用椅子は、いまもあるだろうか。無いはずはないか。
 ともあれ銀座松坂屋は、先年とり壊されて更地になってしまった。道路をへだてたうしろの更地ともあわせて、十三階建ての複合的商業ビルへ建て替わるのだとか。戦後の高度成長このかた、ほぼ八階程度に肩をそろえていた銀座街が、いまや十階以上へ背伸び競争に突入している。
 三越は、銀座八丁のまんなかの地の利ながら、わりと小柄で店内がかんたんに一回りできた。ところが近年は周辺をとりこみ大増築、ふくざつな広さになりました。十一階十二階が有名食堂街。地下四階の駐車場への案内人たちが、周辺の道路に常時待機しています。
 松屋は真四角な建物で、銀座三丁目の南の一角を占めていた。ならびに文房具の伊東屋があった。いまや増築して、銀座通りの三丁目すべてを占める。伊東屋は二丁目へ移った。銀座八丁で最大の間口はさすがだが、そのぶん奥行きが浅くみえる。往年の大ホールも消えて、上り下りのエスカレーターの空間に名残をとどめます。
 百貨店と当時は言ったが。こんにちのデパートメントストアは、有名店をとり揃えた百店街でもありましょうか。

 変われば変わる世の中だ。銀座通りは、舶来の高級ブランド店が軒をならべ、ゆきかう雑踏も異国語が(さえず)っている。
 だけれども。服部和光の白い威容はびくともせずに、大時計が時刻ごとの鐘の音をひびかせているではないか。ならびのパンの木村屋も、山野楽器店も、真珠の御木本(みきもと)も、そのさきの教文館も、それやあれやも健在ではないか。大正大震災後の区画整理このかた、道筋はなにも変わらない。歩けばやはりどことなく、旧地へもどった気分にもなります。

 高島屋でした。つづりかたへもどります。まずクレヨンを買った。文房具には多少の優先権があったが、つねづねケチな親が、すぐに買ってくれたらしい。
 つぎに買ったきんことは、貯金箱のことです。銀色のミニチュアの金庫型で、背中に硬貨を入れる口、底に鍵つきの(ふた)がある。鋳物だからこわれもせずに、多年わが家のそこらに置いてありました。
 じつは、このくだりに、ギョッとなった。金庫型の貯金箱なんて趣味のわるいものを、ことさら選んだのはこのガキなのか!
 世田谷へ越してからも、それはあって、あまりいい思い出はないのです。ときたま父が五十銭玉を名残惜しげに入れていて、手に持つとけっこうな重さになっていた。それをあるとき母がとりだして使ってしまった。敗戦直後の万事窮乏的インフレ期。せっぱ詰まった事情がなにかあったにせよ、(せがれ)の目にも母の軽率にみえた。怒りっぽい父はアタマにきただろうが、それは承知の母の抗議的行動だったのか。子どものまえで喧嘩する夫婦ではないが、険悪な気配はありました。
 そして敗戦の翌年の夏の盛りに、母がふいに病没する。戦中戦後の一家の主婦の辛苦の果てに。父子一同ほとほと途方に暮れた。
 何十年たとうが、思いだせばつらいことはあります。

 高島屋へもどります。食堂の前にきた。食堂とみればオナカガスイタヨウとか騒ぎたてるガキだったのだな。しずかにしなさいと、そのたび叱られていたのだな。
 それから傘を買い、シャツを買い、あれこれ買った。ふだんは烏森(からすもり)の夜店で安物を探している母にしては、気前のいい買いっぷりだ。シャツは父か子ども用にちがいないが、傘は、母用のしゃれた日傘であったかも。
 察するに、高島屋の商品券を、父がどこかで貰って、それを母にプレゼントしたのかな。おおかた、いや、それにちがいない。商品券は、額面の金額は使いきらねばならない。お供のガキのクレヨンからはじめて、母のささやかな豪遊の一刻(ひととき)でありました。
 父にせよ母にせよ、出かけると聞けばまつわりついて、折々はまんまとお供になれた。そうして見知らぬところへ行くのが大好きなガキでした。

 

 これは懐かしい。家族一同が松屋へ乗りつけたのは、まさにこの型の車でした。
 ごらんのように後ろの客席がだんぜん広い。運転席のうしろに畳みこみの補助椅子が二つあって、それをパタンとひきだせば坐れる。大人には窮屈だが、詰めればけっこう何人でも乗れた。
 当時の乗用車は、おおかたこんなスタイルで、車体の両側に踏み台があり、背中に補助のタイヤをつけていた。
 運転席には、運転手と助手と、営業車は二人が乗るのが通例でした。  

 このスタイルは、馬車に由来するのでしょう。馬の代わりにエンジンを先頭にとりつけた。馭者(ぎょしゃ)台が運転席に。馬丁(ばてい)の助手は駆け足では追いつかぬから隣に乗せた。客席はたっぷり広かった。
 そこで馬丁あらため助手の仕事は、出発にあたり馬に水を飲ます代わりに、エンジン冷却用の水を車の先頭の穴へ注ぎ込む。手回し棒を突っこんでエンジンを始動させる。ゆく先々では、飛びおりて客席のドアをあける。ようやく車庫へもどれば、運転手は悠々と休憩室で一服なさるが。助手は、馬の脚ならぬタイヤの泥を洗い落とし、車内も清掃して、やっとひと息つくのでした。

 車が右折するときは、運転手が右の窓から片手を出す。左折のときは助手が左の窓から手を出す。助手はやはり欠かせなかった。
 矢羽式のウインカーが現れたのが、昭和十年代のこのころだ。運転席の左右に耳のようにとりつけ、スイッチ一つで赤い矢羽が、右へ、左へ、ピッと立つ。わが家の四台の車は、あるとき一気にこれをとりつけた。助手の必要が一つ減った。
 上掲の絵の車には、まだそれが付いていない。この絵にはサインもないが、やはり昭和十年、二年生のときの絵にちがいないです。

 ほどなく、流線型という言葉が流行りだして、四角い自動車が、みるみるモダンに丸みをおびてきた。上掲の車は、あきらかに旧式です。
 営業用の車は、おおかたアメリカ製の中古車でした。まずはフォードが定番だが。わが家では、ダッジ、ビュイック、テラプレーンなどでした。流線型が流行るとなれば、借金しても買い換えねばならない。
 あるとき、格安の中古良品が神戸に出たと聞き、父はそれを落札した。運転手一名をひきつれて汽車で神戸へゆき、交代で運転しながら帰ってきた。たいへんな苦労だなぁと、子ども心にも忘れないが。
 いまにしておもえば父は、あの時代に、流線型のビュイックかなにかで、東海道のドライブ旅行をやってのけた。楽しい苦労。どこか道楽っ気のある稼業だったのか。

  上掲の絵は、いまや疾走中で、後ろにちゃんと排気ガスを描いている。運転しているのが父で、客席にいるのは幼い妹を抱いた母かもしれない。
 写実的……のようですけれども。こんなカラフルな車が、バス以外に当時あったものか。わが家の車はすべて黒いボディでした。道路は、アスファルト道はたしかに黒めだが、銀座界隈ならばおおかた白っぽい。
 つまり写実ならば、白い道路に黒い車だ。しかしせっかく買ってもらった新品のクレヨン箱には、緑や青や茶や、いろいろ揃っているのだもの。この二年生はあいかわらず、デフォルメが平気の平左らしいのでした。



 この絵も二年一組のとき。ひとまず写生なんだろうが、ダルマにしては目鼻立ちが、わりとイケメンですなぁ。
 がんらいダルマの目玉は空白だった。なにごとか願いをこめて片方に黒い目玉を描きこむ。そして願いが叶ったら、もう片方にも墨を入れて、両目が開眼、めでたしめでたし。この風習は、現に健在でありましょう。
 こんな目付きのダルマがいたもんだろうか。そういえばダルマ型の貯金箱があったな。後頭部に硬貨を入れる口だけがあって、どこにも蓋はない。いざ出すときはぶちこわす。貯める一方の玉砕主義みたいな。つまり軽便な安物ですが。まさかこれが、それだろうか?

──作者敬白

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