デス調でないのが二本あって、二章目の「ツマラナイ」と、もう一つがこれ。どちらも自由作文だったのか。正直、読み返してもつまらない。
だが本人には、なにごとかだったからこそ書いたのでしょう。このあいだ行った高島屋とは、日本橋のデパートです。そんなところへ行ったのか。母と二人きりで。なるほど、いくらかこれは特別なようだ。
銀座通りには、松坂屋、三越、松屋と、デパートが三つもある。ことさら日本橋へ、地下鉄で往来するまでもないはずです。
松坂屋が、ウチからも学校からもいちばん近かった。屋上にのぼると、眼下にひらたくひろがる家並みのかなたに、海がみえた。築地魚河岸のさきの、東京湾のどん尻が。風向き次第では汐の香もしました。
この松坂屋は大正十三年(1924)に、松屋は大正十四年に落成開業した。ともに鉄筋本建築の八階建て。関東大震災の焦土から復興のシンボル的にそびえ立った。
尾張町の四つ辻の、三越は昭和五年(1930)に、服部時計店は昭和七年に落成開業した。松屋松坂屋に数年も遅れたのは、銀座通りと交叉する道が震災を機に倍に拡幅され、いまの晴海通りになる。その区画整理事業に手間どったのでした。
銀座一帯のごちゃごちゃした三十二町を整理して、北の一丁目から南へ八丁目までとしたのが、昭和五年だ。ものごころついたら、世の中はこういう姿でしたが。おもえば私が育ったのは、ほぼ新品の銀座八丁であったのだな。
デパートへは、ときおり一家で揃ってでかけた。そのときは子ども一同よそゆきに着替えさせられた。ふだん着よりちょっとお洒落な服が
めあては松屋。ウチの車一台に総勢を詰めこんで、乗りつける。ご当地最大のデパートで、七階まで吹き抜けの中央大ホールが、松屋ならではの格別な景観でした。
エレベーターには、エレベーターガールがいて、頑丈なガラス戸と、折り畳みの引き戸と、二重のドアを開け閉てする。ハンドルを操作して屋上までのぼり、地階へもくだる。
どこのデパートもそれはおなじだが。松屋にだけはエスカレーターが一基ありました。脇の入口を入って、地階へ下りる階段脇に。ぜひともそれには乗らねばならぬ。広い階段を歩いておりて、乗って、一階へもどる。その乗り口にエスカレーターガールがいて、乗りなれない客の世話をやき、とっさの場合はピタと動きを止めたりするのでした。
つまり、デパートへゆくのは、街中のピクニックのようなものだ。玩具売場と食堂と、それから屋上あたりが狙い目だけれど。親たちの買い物や、ひやかしにも、しばらく辛抱しなければならぬ。
やがて六階の食堂へ到着する。子ども用の高脚の椅子があって、それに腰かけて待つほどに、小旗をたてたお子さまランチが運ばれてくる。その日のたのしみのクライマックスでありました。
あらためておもえば、両親は二十代の新婚のころに震災に遭遇している。避難し、暮らしをたてなおす日々のうちに、乳飲み子を亡くした。それから
あの高脚の子ども用椅子は、いまもあるだろうか。無いはずはないか。
ともあれ銀座松坂屋は、先年とり壊されて更地になってしまった。道路をへだてたうしろの更地ともあわせて、十三階建ての複合的商業ビルへ建て替わるのだとか。戦後の高度成長このかた、ほぼ八階程度に肩をそろえていた銀座街が、いまや十階以上へ背伸び競争に突入している。
三越は、銀座八丁のまんなかの地の利ながら、わりと小柄で店内がかんたんに一回りできた。ところが近年は周辺をとりこみ大増築、ふくざつな広さになりました。十一階十二階が有名食堂街。地下四階の駐車場への案内人たちが、周辺の道路に常時待機しています。
松屋は真四角な建物で、銀座三丁目の南の一角を占めていた。ならびに文房具の伊東屋があった。いまや増築して、銀座通りの三丁目すべてを占める。伊東屋は二丁目へ移った。銀座八丁で最大の間口はさすがだが、そのぶん奥行きが浅くみえる。往年の大ホールも消えて、上り下りのエスカレーターの空間に名残をとどめます。
百貨店と当時は言ったが。こんにちのデパートメントストアは、有名店をとり揃えた百店街でもありましょうか。
変われば変わる世の中だ。銀座通りは、舶来の高級ブランド店が軒をならべ、ゆきかう雑踏も異国語が
だけれども。服部和光の白い威容はびくともせずに、大時計が時刻ごとの鐘の音をひびかせているではないか。ならびのパンの木村屋も、山野楽器店も、真珠の
高島屋でした。つづりかたへもどります。まずクレヨンを買った。文房具には多少の優先権があったが、つねづねケチな親が、すぐに買ってくれたらしい。
つぎに買ったきんことは、貯金箱のことです。銀色のミニチュアの金庫型で、背中に硬貨を入れる口、底に鍵つきの
じつは、このくだりに、ギョッとなった。金庫型の貯金箱なんて趣味のわるいものを、ことさら選んだのはこのガキなのか!
世田谷へ越してからも、それはあって、あまりいい思い出はないのです。ときたま父が五十銭玉を名残惜しげに入れていて、手に持つとけっこうな重さになっていた。それをあるとき母がとりだして使ってしまった。敗戦直後の万事窮乏的インフレ期。せっぱ詰まった事情がなにかあったにせよ、
そして敗戦の翌年の夏の盛りに、母がふいに病没する。戦中戦後の一家の主婦の辛苦の果てに。父子一同ほとほと途方に暮れた。
何十年たとうが、思いだせばつらいことはあります。
高島屋へもどります。食堂の前にきた。食堂とみればオナカガスイタヨウとか騒ぎたてるガキだったのだな。しずかにしなさいと、そのたび叱られていたのだな。
それから傘を買い、シャツを買い、あれこれ買った。ふだんは
察するに、高島屋の商品券を、父がどこかで貰って、それを母にプレゼントしたのかな。おおかた、いや、それにちがいない。商品券は、額面の金額は使いきらねばならない。お供のガキのクレヨンからはじめて、母のささやかな豪遊の
父にせよ母にせよ、出かけると聞けばまつわりついて、折々はまんまとお供になれた。そうして見知らぬところへ行くのが大好きなガキでした。