七銭の電車賃は朝の割引があって五銭だったが、その五銭が出せなかった。家を出て、
同じ道のりをたどって歩いてみる。三囲神社から土手に出て、首都高速6号線の下を、墨堤の花見客を避けながら歩いていく。アサヒビール本社の前を通り過ぎるとき、『私の東京地図』の中のこの一節を思い出した。
〈吾妻橋のそばには、何故あんな大きな、松屋などという百貨店が建ってしまったのだろう。浅草のような庶民の街に、こんな高層建築が建つと、建物そのものが威圧を感じさせるし、それが民衆の消費を狙って、恥かしげもなく子ども騙しの娯楽場を作ったり、町相応の安物をびらびらさせたりしてあったので、場違いのものに強引に割り込まれた上で馬鹿にされているような、そんな気がしたものだ〉
いつまでたっても見慣れるということがない、フィリップ・スタルクが設計したアサヒビール本社の新社屋が完成したとき稲子はまだ健在だったけど、いったいどんな感想を抱いたことだろう。できればスカイツリーについても聞いてみたいところだ。「場違い」と言われた松屋浅草店は、長引く不況から扱う品物の種類を大幅に減らして「百貨」店であることを止めてしまった。日本最古の常設屋上遊園地といわれた「プレイランド」も2010年に閉鎖されている。
吾妻橋を渡って松屋と雷門を抜けたそのあとの道のりはくわしく書かれていないので、江戸通りをまっすぐ下っていくことにする。かつて稲子は、厩橋のあたりにあった問屋に、内職の雑記帳を届けたことがある。小学生が使うノートの表紙に、絵心があった叔父の佐田秀実が簡単な絵を描き、稲子もときどきそれを手伝った。印刷代より手間賃のほうが安かった時代なのだろう。完成品を届けて、工賃と次の材料を渡されて帰る。大通り沿いには、いまも造花や仏具を扱う小さな問屋が軒を並べている。
浅草橋で神田川を渡り、右手に折れる。
和泉橋というのはいまの岩本町のあたりで、稲子が勤めていたのは柳原河岸にあった堀越嘉太郎商店の工場だった。派手な宣伝で「ホーカー液」という美白化粧水を売り出した会社で、クラブ化粧品や御園化粧品といった大手に次ぐ規模だったらしい。「ホーカースイート」というキャラメルもつくっていた。このキャラメルを包む合間に、稲子たち女工は化粧水のガラス瓶の洗浄を手伝わされることもあった。
向島から和泉橋まで、きょろきょろしながらとはいえ大人の足でも2時間近くかかった。わき目もふらずに歩いたとしても、往復するだけで小さい子どもはくたくたに疲れ果てたことだろう。まして長崎から都会に出てきたばかりの小学五年生にとっては。 東京へくるとき、稲子は東京には三輪田や跡見女学校、横浜にはフェリス女学院といった学校があることをすでに知っていたという。そういう女学校に入れるかしらという幼い夢はたちまち打ち砕かれたが、おどろきながらも環境の激変を耐えしのび、よく周囲を観察していた。
和泉橋の上に立つと、神田川の川面に白いユリカモメが羽を休めていた。
佐田秀実が25歳で死んだとき、遺骸を丸桶に入れるため、葬儀屋の人夫が彼女が見ている前で彼の脚をぽきんぽきんと折った。この叔父がかつて夢を抱き、どんな苦しさにも希望をかけて東京の街を歩いていたことを彼らは知ろうともしない。そのときに湧き上がった苦い思いを胸に、稲子は叔父にまつわるこんなエピソードを記している。
〈吾妻橋の上に立ちどまって、川上の方を眺めながら、川の上を低くまい飛んでいる鷗を指してこの叔父は、私にそれをおしえるのが自分もたのしそうに言ったことがある。 「鷗だがね。隅田川の上では、都鳥っていうんだよ」〉(『私の東京地図』)