第3回 「彼女の東京地図」…②
向島小梅町の長屋から神田和泉橋のキャラメル工場まで幼い稲子は歩いて通った。

七銭の電車賃は朝の割引があって五銭だったが、その五銭が出せなかった。家を出て、三囲(みめぐり)神社から土手へ上がり、枕橋へ出て、朝日麦酒の前を通って吾妻橋を渡り、言問をすぎて和泉橋まで。まだ暗いうちに家を出て、蔵前のあたりを歩く途中で、街燈の電気が消えたという。 

同じ道のりをたどって歩いてみる。三囲神社から土手に出て、首都高速6号線の下を、墨堤の花見客を避けながら歩いていく。アサヒビール本社の前を通り過ぎるとき、『私の東京地図』の中のこの一節を思い出した。

  〈吾妻橋のそばには、何故あんな大きな、松屋などという百貨店が建ってしまったのだろう。浅草のような庶民の街に、こんな高層建築が建つと、建物そのものが威圧を感じさせるし、それが民衆の消費を狙って、恥かしげもなく子ども騙しの娯楽場を作ったり、町相応の安物をびらびらさせたりしてあったので、場違いのものに強引に割り込まれた上で馬鹿にされているような、そんな気がしたものだ〉

いつまでたっても見慣れるということがない、フィリップ・スタルクが設計したアサヒビール本社の新社屋が完成したとき稲子はまだ健在だったけど、いったいどんな感想を抱いたことだろう。できればスカイツリーについても聞いてみたいところだ。「場違い」と言われた松屋浅草店は、長引く不況から扱う品物の種類を大幅に減らして「百貨」店であることを止めてしまった。日本最古の常設屋上遊園地といわれた「プレイランド」も2010年に閉鎖されている。

吾妻橋を渡って松屋と雷門を抜けたそのあとの道のりはくわしく書かれていないので、江戸通りをまっすぐ下っていくことにする。かつて稲子は、厩橋のあたりにあった問屋に、内職の雑記帳を届けたことがある。小学生が使うノートの表紙に、絵心があった叔父の佐田秀実が簡単な絵を描き、稲子もときどきそれを手伝った。印刷代より手間賃のほうが安かった時代なのだろう。完成品を届けて、工賃と次の材料を渡されて帰る。大通り沿いには、いまも造花や仏具を扱う小さな問屋が軒を並べている。

浅草橋で神田川を渡り、右手に折れる。

和泉橋というのはいまの岩本町のあたりで、稲子が勤めていたのは柳原河岸にあった堀越嘉太郎商店の工場だった。派手な宣伝で「ホーカー液」という美白化粧水を売り出した会社で、クラブ化粧品や御園化粧品といった大手に次ぐ規模だったらしい。「ホーカースイート」というキャラメルもつくっていた。このキャラメルを包む合間に、稲子たち女工は化粧水のガラス瓶の洗浄を手伝わされることもあった。

向島から和泉橋まで、きょろきょろしながらとはいえ大人の足でも2時間近くかかった。わき目もふらずに歩いたとしても、往復するだけで小さい子どもはくたくたに疲れ果てたことだろう。まして長崎から都会に出てきたばかりの小学五年生にとっては。 東京へくるとき、稲子は東京には三輪田や跡見女学校、横浜にはフェリス女学院といった学校があることをすでに知っていたという。そういう女学校に入れるかしらという幼い夢はたちまち打ち砕かれたが、おどろきながらも環境の激変を耐えしのび、よく周囲を観察していた。

和泉橋の上に立つと、神田川の川面に白いユリカモメが羽を休めていた。

佐田秀実が25歳で死んだとき、遺骸を丸桶に入れるため、葬儀屋の人夫が彼女が見ている前で彼の脚をぽきんぽきんと折った。この叔父がかつて夢を抱き、どんな苦しさにも希望をかけて東京の街を歩いていたことを彼らは知ろうともしない。そのときに湧き上がった苦い思いを胸に、稲子は叔父にまつわるこんなエピソードを記している。

〈吾妻橋の上に立ちどまって、川上の方を眺めながら、川の上を低くまい飛んでいる鷗を指してこの叔父は、私にそれをおしえるのが自分もたのしそうに言ったことがある。 「鷗だがね。隅田川の上では、都鳥っていうんだよ」〉(『私の東京地図』)

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。