第2回 「彼女の東京地図」…①
3月最後の日曜日、隅田公園まで足を伸ばしてみた。

自宅の最寄りである東急田園都市線の駅から押上までは一本である。押上駅で下車して地上に出ると、スカイツリーが見下ろしていた。ツリーに並ぶ観光客の列を回り込むようにして川沿いの道を歩き出す。

桜の見ごろはこの週末が最後と天気予報が告げていた。隅田公園は花見の客でいっぱいなのだが、川の向こう岸に比べると、にぎわいもいくぶん控えめに見える。

園内に入ってすぐのところに、目当ての堀辰雄の旧居跡を示す碑はあった。堀は、複雑な生い立ちに屈折した思いがあったと言われるけど、同人誌「驢馬(ろば)」創刊のころに出会って親しくなった佐多稲子が同じ向島育ちと知り、なにかと親切にした。家庭の事情で小学校を中途でやめて働かざるをえなかった彼女のために、アテネ・フランセの入学手続きをとり、月謝を払い、通学の定期券まで買ってくれた。月謝を払ってやる余裕がなくなると、向島の自宅に呼んでみずからフランス語を教えた。 稲子が窪川鶴次郎と結婚したあとのことである。堀辰雄は稲子と同じ1904(明治37)年生まれで、わずかな期間ではあるけど、稲子も堀と同じ牛島小学校に通っていた。

稲子が11歳のときに父、田島正文が勤め先の三菱長崎造船所を突然辞め、一家はそろって上京する。「三囲(みめぐり)神社」に近い長屋の一軒を見つけてきたのは、稲子にとっては叔父にあたる佐田秀実である。

〈私の住んでいた長屋はこの土手下の、かたかたとどぶ板を踏んでゆく路地奥にあったのだが、今はもう見当のつけようもない。向島小梅町と、美しい名の所だった〉(『私の東京地図』)

昔日のおもかげを失った隅田川の土手の景色を稲子はそう追想する。

1946(昭和21)年、稲子がこの文章を書いたときには彼女自身、長屋の跡を見つけられなかったようだが、いまでは向島下町資料館の敷地に旧居跡を示す案内板があり、だいたいの場所がわかっている。

まだ30歳にもなっていなかった若い父親にはこれといった仕事のあてもなく、無為徒食のうちに一家はたちまち困窮してしまう。父親がたまたま新聞の募集広告で見つけた神田和泉橋のキャラメル工場で、稲子はその年の暮れから働き始める。

家を見つけてくれた佐田秀実は父の弟にあたり、姓が違うのは父方の伯母の嫁ぎ先へ養子に入ったためである。一家が上京してまもなく、栄養失調から心臓脚気になり、小梅町の長屋で寝付いてしまった。生活力のない兄一家の巻き添えになっても、キャラメル工場を辞めた稲子が今度は上野の料理屋に奉公に出るとき、「とうとういね子も落ちてゆくか」と涙をためて見送ってくれた人だ。

この叔父が死にゆくとき、奉公人の稲子は急いで帰ることができない。

〈「お前が帰ったところで、叔父さんの命が助かるわけでもあるまい」
 と、善良な主人も店の忙しさには、子守娘にも暇が惜しくて、私は叔父の死に急ぐことが出来ない。次の朝掃除をすまして向島の家へ帰るとき、私は吾妻橋の上を駆けて通った。格子を開けて入ると、もう家の中はひっそりしていて、叔父の寝床は布団の裾がととのえられている。(略)叔父はもう息を引きとってしまっていた〉(『私の東京地図』)

稲子が58歳のときに発表した「水」という短編がある。料理屋で奉公している幾代のもとに「ハハキトクスグカヘレ」という電報が届く。優しい、と思っていた主人は忙しさにまぎれて家に帰ることを許さない。次の朝、「ハハシンダ、カヘルカ」と次の電報が来たとき、主人の妻は「あんたが帰ったって、死んだものがいきかえるわけでもないしねえ」というのを幾代は固い顔で聞く。佐多稲子の作品で好きなのは「水」とあげる人も多い、すぐれた短編の中に、幼い日のつらい記憶がそのままのかたちで息づいている。

いっときは小説を書いていたこともあったという早逝した叔父への思いが、稲子が窪川鶴次郎との離婚後に選んだ「佐多」(戸籍名は佐田)という名前にこめられている。

佐多稲子年譜(敗戦まで)

1904年(明治37年)
6月1日、長崎市に生まれる。戸籍上は父方の祖母の弟に仕えていた奉公人の長女となる。
1909年 5歳
養女として、実父母の戸籍(田島家)に入籍。
1911年 7歳
母ユキ死去。
1915年(大正4年) 11歳
一家で上京。小学5年生の途中で学校をやめ、キャラメル工場で働くことに。その後、料亭の小間使い、メリヤス工場の内職などを経験。
1918年 14歳
前年単身赴任していた父正文がいる兵庫県相生町に移転。
1920年 16歳
単身で再び上京して料亭の女中になる。
1921年 17歳
丸善書店洋品部の女店員となる。
1924年 20歳
資産家の当主、小堀槐三と結婚。
1925年 21歳
2月に夫と心中を図るも一命を取り止め、相生町の父に引き取られる。6月、長女葉子を出産。
1926年(昭和元年) 22歳
上京。カフェー「紅緑」の女給になる。雑誌「驢馬」の同人である中野重治、堀辰雄、窪川鶴次郎らを知る。9月、離婚成立。窪川とは恋愛し、やがて事実上の結婚状態となる。
1928年 24歳
最初の小説「キャラメル工場から」を窪川いね子の名で発表。全日本無産者芸術連盟に加盟。
1929年 25歳
日本プロレタリア作家同盟に加盟。窪川に入籍。
1930年 26歳
長男健造誕生。最初の短編集『キャラメル工場から』刊行。
1931年 27歳
女工もの五部作を翌年にかけて発表。「働く婦人」の編集委員となる。
1932年 28歳
社会主義・共産主義思想弾圧で窪川鶴次郎検挙、起訴され刑務所へ服役。次女達枝誕生。日本共産党に入党。
1933年 29歳
「同志小林多喜二の死は虐殺であった」を発表。窪川が偽装転向で出所。
1935年 31歳
戸塚署に逮捕されるも保釈。「働く婦人」の編集を理由に起訴。
1936年 32歳
父死去。
1937年 33歳
懲役2年、執行猶予3年の判決。
1938年 34歳
『くれなゐ』を刊行。窪川と作家・田村俊子の情事が発覚。
1940年 36歳
初の書き下ろし長編『素足の娘』を刊行。
1941年 37歳
銃後文芸奉公隊の一員として、中国東北地方を慰問。国内では文芸銃後運動の講演で四国各地を回る。
1942年 38歳
中国や南方を戦地慰問。「中支現地報告」として「最前線の人々」などを発表。
1943年 39歳
「空を征く心」を発表。
1944年 40歳
窪川と別居生活に入る。執筆がほとんどできず、工場動員で砲弾の包装などをする。
1945年 41歳
健造と達枝を連れて、転居し、窪川とは正式に離婚。
※参考文献=佐多稲子『私の東京地図』(講談社文芸文庫)収録の年譜(佐多稲子研究会作成)

筆者略歴

佐久間 文子(さくま あやこ)

1964年大阪府生まれ。86年朝日新聞社に入社。文化部、「AERA」「週刊朝日」などで主に文芸や出版についての記事を執筆。 2009年から11年まで「朝日新聞」書評欄の編集長を務める。11年に退社し、フリーライターとなる。