自宅の最寄りである東急田園都市線の駅から押上までは一本である。押上駅で下車して地上に出ると、スカイツリーが見下ろしていた。ツリーに並ぶ観光客の列を回り込むようにして川沿いの道を歩き出す。
桜の見ごろはこの週末が最後と天気予報が告げていた。隅田公園は花見の客でいっぱいなのだが、川の向こう岸に比べると、にぎわいもいくぶん控えめに見える。
園内に入ってすぐのところに、目当ての堀辰雄の旧居跡を示す碑はあった。堀は、複雑な生い立ちに屈折した思いがあったと言われるけど、同人誌「
稲子が11歳のときに父、田島正文が勤め先の三菱長崎造船所を突然辞め、一家はそろって上京する。「
〈私の住んでいた長屋はこの土手下の、かたかたとどぶ板を踏んでゆく路地奥にあったのだが、今はもう見当のつけようもない。向島小梅町と、美しい名の所だった〉(『私の東京地図』)
昔日のおもかげを失った隅田川の土手の景色を稲子はそう追想する。
1946(昭和21)年、稲子がこの文章を書いたときには彼女自身、長屋の跡を見つけられなかったようだが、いまでは向島下町資料館の敷地に旧居跡を示す案内板があり、だいたいの場所がわかっている。
まだ30歳にもなっていなかった若い父親にはこれといった仕事のあてもなく、無為徒食のうちに一家はたちまち困窮してしまう。父親がたまたま新聞の募集広告で見つけた神田和泉橋のキャラメル工場で、稲子はその年の暮れから働き始める。
家を見つけてくれた佐田秀実は父の弟にあたり、姓が違うのは父方の伯母の嫁ぎ先へ養子に入ったためである。一家が上京してまもなく、栄養失調から心臓脚気になり、小梅町の長屋で寝付いてしまった。生活力のない兄一家の巻き添えになっても、キャラメル工場を辞めた稲子が今度は上野の料理屋に奉公に出るとき、「とうとういね子も落ちてゆくか」と涙をためて見送ってくれた人だ。
この叔父が死にゆくとき、奉公人の稲子は急いで帰ることができない。
〈「お前が帰ったところで、叔父さんの命が助かるわけでもあるまい」
と、善良な主人も店の忙しさには、子守娘にも暇が惜しくて、私は叔父の死に急ぐことが出来ない。次の朝掃除をすまして向島の家へ帰るとき、私は吾妻橋の上を駆けて通った。格子を開けて入ると、もう家の中はひっそりしていて、叔父の寝床は布団の裾がととのえられている。(略)叔父はもう息を引きとってしまっていた〉(『私の東京地図』)
稲子が58歳のときに発表した「水」という短編がある。料理屋で奉公している幾代のもとに「ハハキトクスグカヘレ」という電報が届く。優しい、と思っていた主人は忙しさにまぎれて家に帰ることを許さない。次の朝、「ハハシンダ、カヘルカ」と次の電報が来たとき、主人の妻は「あんたが帰ったって、死んだものがいきかえるわけでもないしねえ」というのを幾代は固い顔で聞く。佐多稲子の作品で好きなのは「水」とあげる人も多い、すぐれた短編の中に、幼い日のつらい記憶がそのままのかたちで息づいている。
いっときは小説を書いていたこともあったという早逝した叔父への思いが、稲子が窪川鶴次郎との離婚後に選んだ「佐多」(戸籍名は佐田)という名前にこめられている。