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随分前、「陶印」を作ろうと陶芸教室を探したことがあった。見つけた教室の先生は若い男性。家がお金持ちなのか大小の窯が3台もあって、先生は作家活動をしながら教室を開いている。どこの教室もそうだが、陶芸用の土を買うと、素焼き、本焼きをして完成させてくれる。私の陶印は親指大。そのかわり一回で200〜300個を作っていく。2回目で先生が根を上げた。素焼きの時も本焼きの時も、ある数の分だけ窯詰めと窯出しを繰り返さなくてはならないので、とうとう先生から「こんな手数のかかるのはおことわりです。出来たら他の教室へ行って下さい」と追い出された。
なるほど他の生徒さんの皿や茶碗、壷などは出し入れをしてもそう多くはない。毎回300個の出し入れだから、断るのも無理はないと納得したのだった。それから後、思い切って自宅に窯を作った。土も釉薬も全然わからないのに・・・。
窯も陶印を焼くのだからそう大きなものはいらない。でも耐火性だから外寸は大きい。高圧電気も引いて、小さな陶芸用の部屋も作った。それからメーカーや陶芸の材料屋さんに教えて貰いながら、陶印作りに夢中になった。だが小さい陶印ばかりだと、もう少し大きな別のものを作りたくなってくる。一般的な皿や茶碗、壷などは始めから作る気もないし、それはその道の人にまかせればよい。そこで、陶物(とうぶつ※)作りの始まりだ。
これも握りこぶし半分くらいの大きさ。陶物はせっかくだから飾るだけでなく何かに使えるものを作りたいと欲が膨らむ。例えば楊枝立ての兎。花瓶を抱えている猫。鳥がとまっている宝石箱などなどだ。年に数十回は窯をたいていた。最近は忙しいこともあって一年にひと月だけ陶物や陶印を作ろうと決めている。一年にひと月だから、次の年には土の種類も釉薬の種別もほとんど忘れている。
去年の硬くなった土をやわらかくするところから始める。そして始める前に心構えが必要だ。「さあ、この月は陶物を作るぞ」と自分に言い聞かせる。
土をこねながらその手触りを確かめる。そして一年前の感触をすっかり忘れていたことに気がつく。まあ触っていたらどうにか形になっていくだろう。作る前にもう一つすることがある。それは、一冊の本を見ることだ。私の気付け薬。中国の本、「河南民間玩具(河南美術出版社)」だ。ほとんどが土に色をつけた粗末な土人形といったようなものだが西遊記や三国志など動物で表現されていて楽しい。多分プロの人の作ったものではないだろう。中には陶のものも少し載っている。中国では陶のものは誰かが個人的に作るということは少ない。つまり景徳鎮みたいな工場で大量に職人たちが流れ作業で作ることがほとんどなのだ。しかし昔に作られた蛙や兎などの水滴や文鎮など面白いものも載っている。職人たちが手慰みで作ったのだろうか詳しくはわからない。
その本から、荒っぽさ、下手さ加減、自由さを感じて心も楽になってくる。「よし、こんな自由な自分らしいものを作るぞ」と心に決める。もともと手先が器用でないので、あまり上手っぽいものはできないが意識的に「下手なもの」と強く思わないと、なぜか綺麗なもの、面白くないものが指先から飛び出してくるようだ。
私の場合、目的を決めないと手が動かない。例えば「めでたいもの」「狛犬」「猫」とかだ。それと飾る場所などもイメージする。そういえば高校生の時、海外のインテリア雑誌から気に入ったページを切り取ってスクラップ本をつくり、よく眺めていた。 それはインテリア家具などに興味があるのではなく、そのインテリアの中に自分の作品を置いたり飾ったりしたら、いかにマッチするかをその頃から考えていたのだ。
「陶物は洋風にも和風にも合うものがいいなあ。」
古い、日本家屋の階段ダンスの上。洋風なランプの横。玄関の花瓶のそば…など、作りながらそれを飾ったときのイメージを広げていく。その時の気分まかせだ。
陶物(とうぶつ)…もぐら庵さんによる造語。
「陶でできた飾り物」という意味で、通常の皿や茶碗などと区別したもの。 |
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