第一回
 池畔には楊柳が風に漂い屋台が軒を連ねていた。継母の背中から眺めた浅草六区の最初の記憶である。終戦ほどない昭和21、2年であろう。始めてシュークリームを食べた日の記憶も忘れがたい。白い皿にの上の柔らかそうな物体を見つめる私の前に、中折をかぶって微笑する父がいた。幼年時代の浅草の記憶はあわく切ない。
 東京名物「十二階(凌雲閣)」の雄姿を水面に浮かべていた瓢箪池(大池)も、昭和34年、浅草寺五重塔再建のため埋め立てられてしまった。浅草六区衰退の一歩であった。
第1回
「浅草凌雲閣」
『ビジュアル台東区史』(台東区)

 瓢箪池の屋台灯りていたりけり風に白衣の 傷痍軍人 

 ところで私が生まれ育った台東区入谷は、上野、浅草まで徒歩10数分の距離。大震災後の帝都復興事業で造成された「昭和通り」を渡り、「金美館通り」をすこし行くと「国際通り」。通りを渡れば千束町、そして旧吉原である。池の周りには見世物小屋がかかったりしていた。震災時、逃げ遅れた遊女たちが折り重なって蒸し焼きとなった池である。
 中学校の級友と連れ立って吉原を歩いた。ズボンのポケット、百円札を何枚か握りしめてである。坊主頭の子供に、和服姿のお姐さんたちは、愛想よく声をかけてくれた。しかし、百円札は使わずに帰ってきてしまった。使っていたら、私の人生はまったく別の様相を呈していたであろう。
 吉原の灯が消えたのはそれから何日かが経った、昭和33年の春であった。

 1
 東に隅田川、西は上野台に続く浅草の歴史は古く古墳時代にさかのぼる。江戸に入ると「米蔵」の建造、吉原遊郭、江戸三座(中村座、市村座、河原崎座)の移転等、浅草は聖俗あいまみれながら発展をとげてゆく。わけても庶民信仰の霊場浅草寺周辺は、元禄の頃から盛場として栄え、水茶屋が小屋掛し、本堂裏手は「奥山」と呼ばれ、見世物興行、大道芸などが江戸庶民の人気を呼んだ。 
 明治4(1871)年、新政府は浅草寺境内地を没収、公園地に指定。浅草寺の敷地の多くは「浅草公園」と呼ばれるようになる。明治15年、浅草寺西方の田圃を掘って大池を造成。公園地は一区から七区に分けられた。
 一区は、浅草寺本堂周辺。二区は、仲見世一帯。三区は伝法院、四区は浅草寺庭園。五区は、奥山。七区は商業街(早々と消滅)。
 大池の土で街衢を造成、「六区」興行街が開業したのは、明治17年11月のことであった。当初は、浅草寺裏「奥山」の見世物小屋が移転興行。高さ32メートルもの人造富士が出現したのは、明治20年になってから。頂上にのぼれば、東は隅田川の向こうに国府台を眺め、西は箱根連山富岳を望み、南は東京府下を一望、北は吉原遊郭、千住、戸田近郊を見下ろした。しかし、明治23年には取り壊され、跡地に日本パノラマ館が開館。凌雲閣が開業するのは、11月になってからであった。

 追憶は雲とやなりてなやましく漂う霧の彼方よりくる

 凌雲閣、通称「十二階」は、パリのエッフェル塔を摸して設計、工費は5万5千円。8階までが8角型総煉瓦造り、11階、12階は木製。高さは雲を突く67メートル、むろん東洋一の高層である。関東大震災で倒壊するまでの33年間を、浅草の象徴・東京の一大名所として人気を博した。
 しかし、凌雲閣(旧千束2丁目)周辺、いわゆる「十二階下」は一歩路地を踏み込むと、畦道さながらに入り組み、整然と区画された浅草公園六区と好対照をなしていた。
第1回
四代 歌川国政 「凌雲閣機絵双六」
1890年(明治23年)
『ビジュアル台東区史』(台東区)
 2
 北海道流浪の日々は、石川啄木に現実への目を開かせた。「自らの文学的運命を極度まで試験」すべく、釧路から再度上京を図ったのは明治41年、22歳の春であった。本郷区菊坂町に金田一京助と同宿し、小説を書きまくるが売り込みに失敗。失意と焦燥の中で、忘れていたはずの短歌と邂逅、一夜に100首以上をなした。
 啄木が始めて浅草に遊んだのは、上京4ヶ月後の8月21日。「夜、金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。」「キネオラマなるものを見る。ナイヤガラノ大瀑布、水勢鞳鞳とうとうとして涼気起る」。「キネオラマ」は、キネマとパノラマのを合成した語で、色光線によってパノラマを変化させて見せる装置。

 凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり、此処に住むものは皆女なり、若き女なり、家々御神燈を掲げ、行人を見て、頻に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至つては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。(……)“チョイト、チョイト、学生さん” “寄つてらつしやいな”
『石川啄木全集』(筑摩書房)第五巻
「明治四十一年日誌」「八月廿一日」319頁
第1回
石川啄木
 啄木は、十二階下を「塔下苑」と名付け、この日、二人は上がらずに浅草を去った。盛岡中学校の先輩で、後のアイヌ語研究の創始者・金田一京助26歳。翌42年2月、朝日新聞社に校正係として採用決定。歓喜した啄木は、北原白秋のもとへ駆け付け黒ビールで祝杯をあげた。 
 4月3日より、日誌は、家族の上京を意識してか「ローマ字日記」に移行してゆく。人に読まれない安心ゆえか、日記は自在な流れとなって奔流してゆく。収入を得た啄木は、浪費を繰り返し、絶望的焦燥に苛まれながら浅草に繰り出し、遊蕩に束の間の夢を結ぼうとする。

 3
 4月10日の日記を引く。「いくらか金のある時、予は何のためろうことなく、かの、みだらな声に満ちた、狭い、きなたい町へ行った。予は去年の秋から今までに、およそ十三−四回も行った、そして十人ばかりの淫売婦を買った。ミツ、マサ、キヨ、ミネ、ツユ、ハナ、アキ…………名を忘れたのもある。予の求めたのは暖かい、柔らかい、真白な身体だ。身体も心もとろけるような楽しみだ。しかしそれらの女はやや年のいったのも、まだ十六ぐらいのほんの子供なのも、どれだつて何百人、何千人の男と寝たのばかりだ。顔につやがなく、肌は冷たく荒れて、男というのには慣れきっている、なんの刺激も感じられない。」「何千人にかきまわされたその陰部には、もう筋肉の収縮作用がなくなっている、弛んでいる。」と記し……。
 たった一坪の狭い部屋の中にあかりもなく、異様な肉の臭いがムウッとするほどこもっていた。女は間もなく眠った。予の心はたまらなくイライラして、どうしても眠れない。予は女の股に手を入れて、手荒くその陰部をかきまわした。しまいには五本の指を入れてできるだけ強く押した。女はそれでも眼を覚まさぬ。おそらくもう陰部については何の感覚もないくらい、男に慣れてしまっているのだ。何千人の男と寝た女! 予はますますイライラしてきた。そして一層強く手を入れた。ついに手は手くびまで入った。「ウーゥ、」と言って女はそその時眼を覚した。そしていきなり予に抱きついた。「アーアーア、うれしい! もっと、もっとーもっと、アーアーア!」十八にしてすでに普通の刺激ではなんの面白みも感じなくなつている女! 予はその手を女の顔にぬたくってやった。そして、両手なり足なりを入れてその陰部を裂いてやりたく思った。裂いて、そして女の死骸の血だらけになって闇の中に横だわっているところ[を]幻になりと見たいと思った! ああ、男には最も残酷な仕方によって女を殺す権利がある! 何という怖ろしい、嫌なことだろう!
『石川啄木全集』(筑摩書房)第六巻
「ローマ字日記」130〜131頁

 女たちの惨状のなかに、自暴自棄のおのれの心情を映し取っているのだ。自虐と加虐のあわい、残忍と憐憫の入り交じった、歪んだ微笑を浮かべる石川啄木の顔が見える。そして、その自意識を啄木はこう歌った。

浅草の夜のにぎわいに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心
 
第1回

 「ローマ字日記」に記された赤裸な一文が「長歌」であるなら、まぎれもなくこの一首は「反歌」である。一首の背後にのたうつ長大な時間を思う。

    魔窟には魔窟の花を、そしてまた小男がゆく血ィ吐いて行く

 「ローマ字日記」にこの一文を書いた3年後の明治45年4月、大逆事件に暗い情熱を燃やした一大の天才児は、父一禎、妻節子、若山牧水に看取られながら極貧のうちに、二十六歳の生涯を閉じた。その遺骨は詩友土岐哀歌の生家、浅草等光寺に埋葬された。