人気と実力を兼ね備えたカリスマ美術家たちはどのような学生時代を過ごしてきたのか。運命を変えた若き日の出来事とは。
延べ千人以上の美術家たちを取材してきたベテラン美術ライターが彼らの知られざるバックボーンに迫る!

第10回ゲスト 山口 晃(画家)

ひたすら描いて咀嚼する


——事前にお願いしたアンケートのお答えで、「学生時代から美術家になるまでの経緯は?」という質問に、「美術家になった認識がありません」とありますね。

山口 あ、いえ、「美術家」という語で自分を規定したことがなかったものですから、正直に答えてみました。私の場合、絵描きになりたくて美術学校に行ったわけではなく、簡単に言えば絵が上手くなりたかった。どこにも属さない「絵」という領域があると思っていたんです。むしろ「絵描き」に関しては「どうも難儀な商売だ」とすら思っていました。ずいぶん早く死んでしまったり、人に理解されない悩みでいつも沈んでいたり、ああいう生き方は辛かろうなあと。

——「美術家としてのルーツというべき体験または環境は?」という質問にも、「ないような気がします」と、キッパリ(笑)。

山口 それも前述の通りだものですから。あえて挙げれば、父親が水彩やパステルで絵を描いていたとか、小さな本棚にいつもそのスケッチブックが立てかけてあったとかになるでしょうか。

——お父様は日曜画家だったのですか?

山口 どちらかと言えば、毎日画家です。たまに奇妙なシリーズもありました。「断面」に凝った時は、年輪みたいなものに数字を書き込んで、年賀状もそれで送っていました。「これは1985年の『断面』です」と。

——子供がしぜんと絵を描き出しそうな環境ですね。

山口 絵というか、お絵かき、落書きですね。子供の頃は、鉛筆やボールペン、たまにフェルトペンで描いていました。とにかく、シャープな線を出したくて、塗りには興味がない。クレヨンなどは性に合いませんでしたね。

——その頃から線好きだったのですね。どんなものを描いていたのですか?

山口 メカ的なものが多かったですね。ロボットや飛行機、宇宙船の類。人に聞くと、その時々に見たものを描いていたらしいですけど。自分の心を占めたものをひたすら描いて咀嚼すると、こんどはそれを要素にして、自分の絵を描くという感じでした。宮崎駿の『風の谷のナウシカ』に王蟲という巨大な虫が出てきますが、あの目玉にビビッときまして、後年、中学の同級生に「山ちゃん、あの時デッカイ虫ばっかり描いていたよね」なんて言われましたから、中学になっても同じだったんですね。

——見る行為が、アウトプットの衝動を起こすのですね。

山口 インプットですね、描いて飲み込みたい。見るという、何の保証もないことに耐えられないというか。「見ていることをより強く実感したい」、そういう欲望が湧いてくるんです。今でも気になると人でも何でもジロジロ見てしまうところがあるので、気をつけていますが。見て描いて捕らえたくなるんですね。

——お絵かき少年は、中学で美術部には入らなかったのですか?

山口 陸上部に入りました、日曜日に部活がないという理由で。映画が大好きだったので、当時は入替なしの2本立てですから2回見るためには1日要るんです。
第10回 山口晃
中学2年生

——絵は描かなかったんですか?

山口 お絵かきは時と所を選ばずしていました。教科書も学校の机も落書きだらけ。机の合板がフラットだと鉛筆が乗って良いんですが、木目だと絶望的。でも、仕上げたことはほとんどない。完成させることより、行為の中に満足を見出していましたね。

——高校の時は?

山口 上級生に強引に勧誘されて文芸部に入ってしまいましたが、そこでの活動は結構好きでした。小説だったりエッセイだったり。根気がないので短編ばかりでしたが。

——その頃、影響を受けた評論文に出会ったそうですね。

山口 教科書に載っていた中村光夫の「『移動』の時代」という評論です。日本文化の在り方について考えるきっかけになりました。明治以来、軍拡のための技術移入の流れが文化面にも敷衍されて、日本文化は「内発性」を失い、現在に至っても外国文化の表面的な模倣の繰り返しで成り立っているのではないかという批判を、文学を主な例に示した内容でした。当時の私は漠としたものながら、何か切実な危機意識を覚えました。模倣性を批判した「だから日本はダメなんだ」的なことを耳にする機会が多かったですから。ではその「内発性」とやらを、どこにどのように「内発」させるべきなのか。美術を勉強しだしてから考え続けるようになりました。そんなことをやっていたら50になってしまった感じですが。


まずはとば口にしっかり立つ


——美大受験を意識したのはいつ頃ですか?

山口 高校2年の時に渋々と。家族からも学校からも進路のことを聞かれるようになって、「藝大を受ける」と言いました。先のことを決めるのは未来を扼されるようで嫌でしょうがなかったのですけどね。

——受験対策はどうしたんですか?

山口 父の勧めで、中村善一先生という父も習っていた油絵の先生の画塾に、週に1、2度行くことにしました。

——受験専門の予備校ではなかったのですね。

山口 そういうのは市内にも近隣にもありませんでしたしね。もっとのどかな町の画塾然としたところでした。受験テクニック的なものの教授は皆無で、油彩はまったくの初心者だったこともあり、とてもベーシックなことから学ばせてくれました。

——本格的に美術を学び始めた山口さんには、合っていましたね。

山口 今にして思えば、そうですね。予備校や大学と異なる場を知れたのもよかったでしょうし。一つの静物を何週にも分けて描かせてくれて、ペースを強要されることがありませんでした。

——良い先生ですね。

山口 ある時、先生が開いた画集を私に見せて、「これ誰の絵だと思う?」と問うのです。細部の拡大でしたが、わりと色味があったので「印象派の誰かでしょうか?」と答えたら、「実はベラスケスなんだよ」って。「えっ!」となりました。印象派よりずっと前の時代に、こんなにも色彩に対する感受性が開花していたなんてと。驚いたのと同時に、色味というものに対してのアプローチをその時教わった気がします。先生は色を使うことが苦手な私に、いろんな角度から苦手対策をしてくれました。例えば、サッカーボールを色を使って描きなさいとか。

——反発心もあったという予備校の授業はどうでしたか?

山口 一からやり直す感じでした。時間内に全然仕上げられなくて描画材に慣れるのに四苦八苦。木炭デッサンは木炭が乗らないし「細部が粗い」と。目が出来ていなくて見方が浅いんですね。油彩は乾かす時間などないので、下地が塗れたまま上描きしてゆくのですが、これがまったく出来ない。ずっと乾かして描いてましたから。それも薄く延ばして塗るので、絵の具の粘性ボディーがてんで活きない。絵の具をもっと沢山使えと何度言われても薄くしか使えずにいたら、ある時、業を煮やした先生が白絵具一本分をパレットに絞り出して、「この一枚に、これ全部使え」と。「一体どうやって!?」と、随分困惑したこともありました。

—辛い修行ですね。

山口 あ、いえ、人並みに描けないもどかしさはありましたが、別に辛い訳ではなく、むしろのほほんと過ごしてきた分、初めての修行めいたものに高揚するところがありました。大量の白絵具の件だって、適量というのは過ごして初めてわかるんですね。内輪でやっていたら何時までも気づけなかった。
 自分も講師をやってみてわかるのは、合格させるのと同じぐらい、その生徒が長く絵を続けられるようになることを考えるのです。人物画の課題は手の部分を色で置けず、つい輪郭線で済ませてしまいました。これじゃいかんと思いつつも、何度も後回しにするのをやはり見かねた先生が、「いいから、このTを全部仕上げろ」と言ったまま後ろにずっと立っている。描くしかないわけです。描いてから悩めと。予備校では「まずはとば口・・・にしっかり立つ」というところから教えてもらいました。


お絵かきのバージョンアップ


——そして一浪の末、見事東京藝大の油画科に合格。どんな学生生活でしたか?

山口 多摩美では各課題を古典、印象派、キュビスムといった様式を踏襲して描いて、西洋絵画の流れを追体験するというのを勝手にやっていました。今みたいに校地や周辺が開発される前で、山越え通学の帰りの丘から橋本の町を見下ろして「どうなっちゃうんだろう」と先行きを不安に思ったことをおぼえています。落ちたのが悔しくて入学の頃から藝大を受け直そうと決めていましたが、多摩美で過ごすうちだんだんその気が薄れてきて、ああいう気持ちですら薄れるのかと自分のあてにならなさが恐ろしい気がしました。
 藝大には運良く入れましたが結構怠け者でして、ゲームばっかりやっていたような(苦笑)。「信長の野望」という国取合戦シミュレーションゲーム、これが面白くて仕方なかった。とにかく時間がありましたので、とりとめもなく思案を巡らし、落書きを描き散らかしながらだらだら過ごすというのを心ゆくまでやりました。

——大学1年の時に描いた《洞穴の頼朝像》という作品が、会田誠さんの目に止まったそうですね。

山口 洋画の変遷を辿ると、範に取った欧州が非常な変革期にあったため、その欧州随所に起こった変革の波を日本一国で受けようとした弊害が見て取れます。世代交代の速度より早く次の波が来るので、成果を成さぬうち先行世代が押し出されてしまう。つまり世代間に相克のないまま日本人が日本人を外発したムーブメントによって生き埋めにしてきたという断絶の歴史。しかも変革されるべきアカデミズムや行き詰った写実表現など日本にはハナから無いわけで、空虚に向けてカウンターを打つようなものです。そういう流れは今に至るまで源泉を変えながら続いていているように見えたので、流れを断ち切って「生き埋め」にならずにすむ絵は描けぬものかと考えました。多摩美で体感した西洋絵画の流れを一枚に圧縮して変革の波を超えた地点の技術とし、それを使って日本人のメンタリティで江戸まで遡って描くという体で大いに気負って出来たのが《洞穴の頼朝》です。今日び、武士の絵でしたからそれを会田さんが見て、「このバカは誰だ!」って。
第10回 山口晃
《洞穴の頼朝》 1990年 カンヴァスに油彩 116.7x91cm 撮影:長塚秀人
©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

——学内での反応はどうでしたか?

山口 お侍を描いたのがいけなかったんでしょうね。「こういうのは歳をとってから描きなさい」と。

——それはまた厳しい(笑)。しかし先見の明は会田さんの方にあったわけですね。その後、《洞穴の頼朝》はどんな風に展開したのですか?

山口 2年の時はそれを焼き直したような絵を描いてましたが、3年になった時、全く描けなくなりました。絵を描こうという気がてんで起こらない。「これはなんだろう」と自問するけどわからない。茫然と日々を過ごすんですが、ふと気づけば部屋で落書きをしだしている自分がいる。「あれ?、こっちは描けるじゃないか」と。で、どうも学校で描く絵にはこの落書きみたいな「内発性」が無いんじゃないかと思い当たりました。「生き埋めにならないための日本的内発性」による絵を「描こう」としている時点で内発などしていないわけです。美術の側のこうあらねばを絵にしようとして、自分の側がお留守になっていた。予備校の頃、裸婦像の背景に江戸川乱歩とか好きだった自分はドロッとした赤い月を描いたことがありました。先生は「こういうのはちゃんと描けるようになってからな」と別に怒るでもなく言ったのですが、どこか自分の中で絵を「ちゃんと」やろうとしたら、抑えねばならぬものがあるという認識が生まれた気がします。美術たらねばと思うことが自分に蓋をすることと同義になってしまった。予備校や大学などの「外」で描く絵と部屋で一人で描く絵がどんどん別れてゆき、結局「外」の絵が干上がってしまったわけです。

——冷静な自己分析ですね。その後はどうされたのですか?

山口 もちろん、修練修学には虚心になって己を組み替えねばならぬところがありますが、同じ自分を抑えるのでも抑えるべきは惰性的な部分であって、止むに止まれぬ欲動の部分は抑えちゃいけないんですね。むしろ、己が組み変わって変容すれば、その部分が出てきやすくなる。結局そういう止むに止まれぬ「内発」する部分を出すしかないので、油絵とキャンバスを水性ペンとクラフト紙に替えて、「お絵かき」全開で制作したんです。とはいえ、アクリル絵具を使った日本画の学生が講評で無視されたなんて話も聞く頃でしたから、こんな「お絵かき」を出したら修練の場から退場させられるのではないかと、無性に怖かった記憶があります。

——そこで描いたのが《大師橋圖畫》という作品ですね。

山口 はい。たたみ一畳分くらいのクラフト紙に、住宅が橋を侵食しているような絵を描きました。その年だかの中村先生宛の年賀状に描いたテーマです。行き詰まったことで、絵というのはどういう部分から湧いてくるものなのか、どういったものを描かざるを得なくなるのかが、ちょっとはわかった気がします。美術というものと自分との距離。そこに対しての主客が変わるといいますか。美術になる前の、生な絵というものがあって、そこから美術っていうものに敷衍していく。そういう野生の絵っていうのがあったとして、その領域は犯さずに美術という制度の側に連結していく方法ですね。そこらへんを混同すると、自分が制度の一環になってしまう。内発の原理を他人に委ねてしまうことになるわけです。そうすると簡単に一個人は枯れるんですね。
第10回 山口晃
《大師橋圖畫》 1992年 紙にペン、油彩 116.5x181cm 撮影:長塚秀人
©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

——その作品は、学内ではどんな反応だったのですか?

山口 それが講評会でかつてなく反応があったものですから、やっぱり嘘のないことをやった方が、見る人にも響くんだなあという実感を得ました。


古画の世界に身を浸す


——学生時代、日本の古画も沢山ご覧になったそうですね。

山口 行き詰まったのは、古画の素養に欠けていたことにもよります。「日本人のメンタリティ」なるものを安易に想定して、様式を飲み込めば自分でも古画のように描ける気でいたんですね。そのタイミングでまるで目を覚まさせるように、古美術研修があったり大規模な大和絵展が催されたりしました。なんとなく図版などで見慣れていて、画材や描き方の違いくらいに思っていたけれど、油絵を学んだ後に改めて日本の古画を見ると、まぁ、とんでもないんですね。地面は起き上がってるし物のまわり込みはない。影なんか一切つけなくて、大体逆パース。予備校で怒られそうなことを全部やっているのに、絵が強くてグイグイ迫って来る。デッサンもヘロヘロじゃないかって思うんだけど、油絵とは著しく異なる絵画原理による紛うことなき絵。とにかくやたら良く思えちゃって、もう訳がわからない。そう大層に見て回ったわけではありませんが、求め歩くようなところがありました。でも、この訳のわからなさは、油絵をある程度学んだから見えてきたものなんですね。そういう古画的なものが民族的発露というか、自分にも自然と備わっていればよし、もし無いとしたら、それはその断絶から始めるしかないと。とにかく日本の古画の世界に身を浸してみようと思い立ったんです。

——そこでまた腹を括った。

山口 こういう時、それがわからない人間の頭で考えちゃいけないんです。分析してからアプローチじゃなくて、とにかくやってみて初めてわかる。それは予備校でデッサンを勉強していて気づいたことです。春から木炭デッサンをやっていて、秋も過ぎ、冬に差し掛かろうというある日、フランスパンをモチーフに渡されました。その時不意に、「あ、描ける」って思ったんです。あの感じは、子供の頃に自転車に乗れるようになった時とおんなじでした。「あ、今日乗れる」っていう感覚。技術って、階段を一段ひょいっと上るように、あるとき会得するんですよね。それまで全然わからなくても、ある時ふと「ここを見れば良いんだ、見えたここを描けいいんだ」って、モチーフがありありと描くところを示してくれる。言ってみれば、答えの書いてある試験のような状態です。その時、フランスパンの教える通りに描いたら先生が、「やっと来たな!」と言ってくれました。そういう体験があるので、まずはアプローチして身を浸すという方法をとるようにしています。

——日本の古画に身を浸して、具体的にしてみたことは、どんなことでしたか?

山口 線遠近法を使わない、影をつけない、そういうことからです。それから当時、古画に出てくる雲が全然理解できませんでした。地上5メートルぐらいのところに浮かぶ金雲は違和感でしかなかった。そう感じるということは、つまり自分にないものだから、率先して取り込んで考えずにやってみる。傍から見ると単なる様式の模倣にも見えるかもしれませんが、要は形稽古なんです。形に身を浸すことで一旦自分を解体し、自分のどこをどう使えば良いのか会得するつもりの。外側から形だけつまみ食いして、それっぽさをだすというのはどうにも嫌いです。金雲に感じたような謎めいた違和感は、わかってるつもりの時は感じないんですよね。
第10回 山口晃
《山乃愚痴明抄》 1995年 カンヴァスに油彩 91x436.2cm
所蔵:中川諭吉 撮影:宮島 径
©︎YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery

——形稽古は卒業制作に生かされたのではないですか?

山口 卒業制作は何かを会得して描いたというより、まだ「これで良いのかな?」という、大きな疑問符の中でやっていました。修了制作はその時点での集大成だったと思います。絵巻のように右から左へ時間が流れ、橋や楼閣、百貨店、地上げにあう住宅街、合戦の場面などが続き、骸骨になった私の分身がその中を経巡へめぐるという絵でしたが、私個人の内発的なものが、絵として拡大された時に普遍性と両立するのか。それと油絵を咀嚼していくという部分ですね。その二つの交差点として描いたF30号の6枚組でした。果たして断絶に断絶を接続してきた日本で、油絵の咀嚼し残した部分を咀嚼し、現代美術というよりは現代の美術たりえているだろうか、そういうことを考えながら描いてました。

——部分的に、マンガのコマ割り風になっていますね。

山口 マンガがメインカルチャーになりつつあるこの国で、間借りしてるにすぎないハイカルチャー席にふんぞり返って「いつまでマンガを無視していくの?」っていう問題意識を含ませて、作品とその言説についての問答を漫画にしてみました。「見ても解らぬ人向けに、あらかじめ説明書をつけといてやるのさ」みたいなことも書いてあって、漫画仕立てのステイトメントを作品自体に刻んでしまう、という体でした。怒れる若人が割と八方にケンカを売る内容ですが、今読むと頷けない部分や、自分への冷や水の浴びせ方が生ぬるいところがあります。わざわざ言質を取られにゆくようなものなので、おすすめできないスタイルですね。
第10回 山口晃
大学4年生 《深山寺参詣圖》(卒業制作)の前で
群馬県立館林美術館蔵

———1点1点が山口さんの絵画思想の具現化であり、日本美術史全体を視野に入れての挑戦だったことがわかります。そして今もその姿勢を崩さない。そんな山口さんのありように憧れる人が多いことも頷けます。最後に美術の道を目指す人へのメッセージをお願いできますか。

山口 持ち上げられても、それにヌケヌケ答えるくらいの図太さは必要かもしれません(笑)。「表現する」以上に、「表出させる」ことを考えるのは大切だと思います。「表出」を「させる」というのも変ですけど、要はリミッターの外し方ですね。大体自意識で失敗するわけですから。考えるのは描く前にしこたまやって始まったら即興ですね。以前、作品講評で学生さんの映像作品を見せてもらったんですが、編集途中の出来たところまでのものでしたから、他の先生が「編集してないのもある?」って聞いたら、「ある」と。で、その子は躊躇いながらも見せてくれて、そしたらそっちの方が断然面白かったんです。一つテープに撮りためてゆくっていうことで、カットが始まり作者が撮影対象に集中して、よし!って止めるまでの呼吸や意識の流れが全部写っていた。自然なんですね。見る方もそれに同期させられて凄く引き込まれるし、カットとカットが脈絡なく続くようでいて、むしろイメージを膨らませる絶妙のモンタージュになっている。「もの」や「こと」に導かれて「自身が意識してない作者その人」が「表出」していて、断然リアルでイメージ豊かだったんです。一方の編集したものは、呼吸や流れを寸断して映像の意味だけ繋いだので、「作品」として整えようとする意識が見えすぎて苦しそうだった。作者が事前の完成イメージに囚われて、作品の側に起こったこと、すでに出来ていることを見逃すと、含むところの少ない痩せた作品になるんですね。人間に未来は見えませんから意識すると過去が見える。でもその過去に未生のものを見た時、作品として逆照射され制作が始まる。過去と未来が二重写しになったような妙なイメージです。ところが、そのイメージを求めて制作を始めた途端、実体化した作品がイメージを裏切り始める。あまりにも裏切りが続くのでついにはイメージを捨て作品自体に聞くことになる。「あなたは一体どうなりたいのか?」。たぶんその時、作品の声として聞くのが自分の無意識の声なんでしょう。そこでようやく制作が過去でない方を向く。過去の側には大学とか美術界とかの制度や社会があって、「良い作品とはこういうものだ」「美術とはこういうものだ」と唱えてくる。「ちゃんとやらなきゃ」と自意識で考えると、ついそちらの声に沿って「編集」してしまうんですね。私たちは内面に根っこはあるけれど、そこに繁らせるべきものを過去からの借り物で間に合わせている。未生の作品の声を聞き、過去でなく未知に向かって制作する時、借り物が振り払われ初めて自分の未生の部分も繁りだすんだと思うんです。「そのままでいいんだよ」というのは根の部分。借り物の部分は「変わらなきゃ」繁がらない。内発するものが表出する「流れ」を整えるのが大切で、表出は副次的になされるんですね。ただ、そうやって表出したものが、振り切られた社会や制度の側に受け入れられるとは限らないし、時には作者の立場を危うくするかもしれない。そういう怖さが制作には付き物ですが、未生のものが見えてしまったら、やっぱり作るしかないんでしょうね。

——「表現すること」以上に「表出させる」ことが大事であるという、それはとても興味深い考察ですね。表出されたものにこそ、作者のアイデンティティが宿るのかもしれません。長いこと画面と向かい合って格闘してこられた山口さんだからこその貴重なメッセージですね。芸術の道を歩くには相当の覚悟がいるということも思い知りました。今日は本当にありがとうございました。

(2021年12月6日、オンラインにて)



■美術家略歴

山口 晃 YAMAGUCHI Akira

画家。1969年東京都生まれ、群馬県桐生市に育つ。94年東京芸術大学美術学部絵画科油画専攻卒業。96年東京芸術大学大学院美術研究科絵画専攻(油画)修士課程修了。日本の伝統的絵画の様式を用い、油絵という技法を使って描かれる作風が特徴。都市鳥瞰図・合戦図などの絵画のみならず立体、漫画、インスタレーションなど表現方法は多岐にわたる。近年の展覧会に、12年個展「望郷TOKIORE(I)MIX」(銀座メゾンエルメス フォーラム、東京)、15年「山口晃展 前に下がる 下を仰ぐ」(水戸芸術館現代美術ギャラリー、茨城)、18年個展「Resonating Surfaces」(Daiwa Foundation Japan House Gallery、ロンドン)等。成田国際空港や東京メトロ日本橋駅などのパブリックアートを手がける一方、新聞小説や書籍の挿画・装画など幅広い制作活動を展開。東京2020パラリンピック公式アートポスターを制作。2013年『ヘンな日本美術史』(祥伝社)で第12回小林秀雄賞受賞。



■インタビュア略歴

㓛刀知子 KUNUGI Tomoko

1969年、山梨県甲府市生まれ。92年慶應義塾大学文学部卒業。出版社で25年間美術雑誌の編集に携わり、ジャンルを問わず多くのアーティスト達を取材。インタビュー回数は1000回超。現在は株式会社以心伝心の代表として美術書の編集、原稿の執筆をする他、NOBUKO 基金ARTコンクール「絵と言葉のチカラ」展の運営など、アートコーディネーターとして様々な活動を行う。

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