第13話 サイズの違いを超えて――雹と霰をめぐって

 

  (ひょう)(あられ)は、どう違うのか?
 この疑問を解決するのは、たやすい。百科事典を調べると、大きさによって区別する、と書いてある。直径5ミリ以上のものを雹といい、それ以下のものを霰と呼ぶのだ。
 ただ、漢字という観点から考えると、事はそう簡単ではない。「雹」も「霰」も、紀元前の昔から使われている、由緒正しい漢字だ。そのはるかな歴史からすれば、「ミリ」などという西洋の単位は、つい最近になって生じたものでしかない。
 漢字として、「雹」と「霰」は、そもそもはどのように違うのだろうか?
 古い時代の漢字の意味について知りたいときには、何はともあれ、まずは『説文解字(せつもんかいじ)』という辞書を参照する。紀元後1世紀の終わりごろに許慎(きょしん)という学者によって書かれたこの辞書には、約1万字の漢字の意味が記されている。もっと古い漢字の辞書もないわけではないが、ある程度網羅的で、体系的に作られた辞書としては、『説文解字』が最も古い。
 そこでこの辞書を調べてみると、「霰」のところには、「稷雪也」と書いてある。「(しょく)」とは、粟粒のこと。昨今、雑穀米に入っている粟の粒は、米粒よりもずっと小さくて、せいぜい直径1ミリぐらいがいいところではなかろうか。また、「粟粒のように小さい」という表現もある。だから、「稷雪=粟粒のような雪」というのは、粒はかなり小さいけれどコロコロしている雪を指しているのだろう。
 一方の「雹」については、「雨氷也」とある。この「雨」は、「空から降ってくる」という意味の動詞。「雹」とは空から降ってくる氷のことだ、というのである。我々の知っている雹と大差ないと想像されるが、その大きさについての言及はない。


 中国の歴史書をひもとくと、雹に関する記録は、ずいぶんと昔からある。中でも最も古いのは、おそらく『春秋』という歴史書に出て来るもので、紀元前631年の「秋、大いに雹雨()る」という記事である。
 ただ、大きさが具体的にわかる記録となると、紀元前155年、『史記』の「孝景本紀(こうけいほんぎ)」の記事まで待たなくてはならない。『史記』のこの部分は、司馬遷自身が書いたものではなく、後世の学者の補筆だ、と言われている。が、その学者も何らかの資料に拠って書いたと思われるので、記事の内容そのものの信憑性には問題がなかろう。
 『史記』によれば、この年の秋、現在の湖南省にそびえる衡山(こうざん)という山に、雹が降ったという。そして、「(だい)なる者は五寸、深き者は二尺」とある。現在の単位に換算すると、最大のものは11センチくらい、最も深いところで45センチほど積もったことになる。
 なかなか激しい降雹だったようだが、これくらいは序の口らしい。6年後、紀元前149年に降った雹は、「大なる者は尺八寸」とあるから、1尺8寸=約40センチくらいもあったというのだ。にわかには信じがたいが、日本でもカボチャくらいの大きさの雹が降ったことがあるらしいから、眉唾ものというわけでもなさそうだ。
 広大な中国のことだ。雹なんて、毎年、あちこちで降っていることだろう。それがこうやって特別に記録されているということは、尋常ではない大きさ、尋常ではない量だったからなのだろう。
 だが、大きいから記録に残すというのは、実は近代的な発想だ。先に挙げた紀元前155年の雹の記事の前後を読むと、そのことがよくわかる。
 直前の8月には、彗星が東北の空に現れている。雹が降った後は、火星が逆行して天の北極に居座り、木星までもが逆行している。惑星が見かけの上で逆行するのは、現在ではごくふつうの天文現象として説明されているが、当時は、天変地異だと考えられていた。
 翌年の正月には、西の空に彗星が出現。続いて「天火」が宮殿を焼いたと書いてあるのは、雷でも落ちたのだろう。
 こうやって、天変地異の記事が続いたあとに、史上に「呉楚(ごそ)七国の乱」として有名な大反乱が勃発するのだ。
 つまり、天変地異のオンパレードは世の中の乱れの前兆であり、直径11センチ、深さ40センチの降雹も、その1つとして記録されているのである。雹はこのような文脈で記録されるのが、基本なのだ。
 中国の歴史書をひもとくと、はるかな昔から、雹に関する記録が続いている。それは、単なる気象の記録ではない。太古の昔から争いを繰り返してやまぬ人類の、性懲りもない歩みの足跡なのである。


 では、「霰」はどうかというと、中国の歴史書には、ほとんど登場しない。『史記』を引き継いで書かれた『漢書(かんじょ)』という歴史書の「五行志(ごぎょうし)」には、その理由に関連して、興味深い記述がある。
 「五行志」は、まず、雹と霰が生じる原因について説明する。
 ――陽の気が盛んになると、雨になる。そこへ陰の気が流入して生じるのが「雹」である。一方、陰の気が活発になると、雪が降る。そこへ陽の気が近づいて生じるのが「霰」である。
 この説によれば、雹は雨が変化したもので、霰は雪が変化したものだということになる。それを、陰陽の気という中国古来の世界観に即して言えば、次のようになる。
 ――雹は陰の気が陽の気を脅かして生まれるものであり、霰は陽の気が陰の気を脅かして生まれるものである。そういうわけで、『春秋』は、霰について記録しないのである。
 陽の気は万物を盛んにし、陰の気は万物を衰えさせる。ということは、陰の気が陽の気を脅かす雹が降ると、万物は衰え、世の中は乱れることになる。霰が降るとその逆で、世の中は安定するだろう。
 当時、『春秋』という歴史書は、孔子が世の中の乱れを記録し、それを指弾するためにまとめたものだ、と考えられていた。だとすれば、『春秋』に「霰」が出て来ないのは、当然のことなのだ。
 古代の中国においても、我々の生きる現代と同じように、「雹」は大きく、「霰」は小さい。ただ、両者の違いは、サイズだけではない。「雹」は世の乱れの兆しであり、「霰」は平和の現れなのである。


 歴史書という立場からこの世界を眺めると、「雹」という漢字は頻繁に使われるものの、「霰」という漢字を用いる場面は少ない。しかし、目を文学の世界に向けると、話はまったく逆になる。
 中国の文学も、中国の歴史と同様、紀元前数世紀からその長い歩みを始めている。それが1つの頂点に上り詰めるのは、紀元後の7〜9世紀、唐王朝の時代のこと。それまでの1000年以上もの間、中国の詩人たちが作品に「雹」という漢字を使うことは、ほとんどなかった。
 それに対して、「霰」という漢字を詠み込んだ漢詩は多い。そうは言っても、霰そのものをうたうわけではない。実例として、7世紀の後半から8世紀にかけての詩人、張若虚(ちょうじゃっきょ)の「春江(しゅんこう)花月の夜」という作品を見てみよう。この詩は、次のように始まる。
  春江の潮水(ちょうすい)は海に連なりて平らかに
  海上の明月は潮と共に生ず
 ――春の長江は海に向かって穏やかに流れ、行く手の海には明るい月が差し昇る。
 長江は、言わずと知れた中国第一の大河。その河口付近の、雄大な風景だ。
  灩灩(えんえん)として波に(したが)うこと千万里
  何処(いずこ)の春江にか、月明(げつめい) 無からん
 ――月光はきらきらと波を輝かせ、そのきらめきはどこまでも広がっていく。この春の長江のどこに、月光の届かないところがあるだろうか。
 降り注ぐ月光は水面に反射して、見る者を上下から包み込む。そして、その美しいきらめきが、見渡す限り広がっているのである。
 このなんとも耽美的な情景の中に、詩人は、「霰」という漢字を詠み込む。
  江流(こうりゅう)宛転(えんてん)として芳甸(ほうでん)(めぐ)
  月は花林(かりん)を照らして 皆 霰に似たり
 ――長江の流れは花野の間をうねうねと流れ、月光は花咲く森を照らして、花々が霰のように輝く。
 「花林」が「霰」に似ているというのは、花が散るようすを、霰が降るようすにたとえたものなのだろう。冷たく硬質な美しさを際立たせる、幻想的な比喩表現である。
 このように、花のことを「霰に似たり」とか「霰の如し」とうたうのは、「霰」を詠み込む漢詩の一つの定番である。陽の気によって生じると信じられた「霰」には、そのような華やかな側面があったのだろうか。
 もう一つ、「霰」の漢詩の定番となっている表現は、涙を「霰」にたとえるものだ。たとえば、唐王朝末期の詩人、杜牧(とぼく)(803〜852)が、なつかしい旧友に再会したときにうたった「故人に逢う」という作品が、その例だ。前半だけを引こう。
  年年、(あい)見ざるに
  相見れば(かえ)って悲しみを成す
  我をして涙は霰の如く
  君が髪の糸に()たるを(なげ)かしむ
 ――何年も何年も逢っていなかったのに、いざ逢ってみると、感じるのは悲しみばかり。私の涙は霰のように流れ、君の髪が白い糸のようになってしまったのが嘆かわしい。
 再会の喜びよりも悲しみが勝るというのは、いかにもこの詩人らしい、人情の綾をついた表現。お互いに年老いてしまったなあ、という悲しみに、涙がコロコロとこぼれ落ちるのである。
 花にせよ涙にせよ、現実としては、けっして「霰」に似てはいない。それを「霰」にたとえるのは、高度に文学的な表現なのだ。
 「雹」と「霰」の違いは、基本的には大きさだ。その点は、昔の中国でも、現在の日本でも大きくは異ならない。
 だが、「雹」は、世の乱れの兆しとして歴史書によく記録され、「霰」は、漢詩によく登場して文学的な美の世界を作り出す。この2つの漢字の間には、サイズの差とはまた異なる違いが、存在しているようである。