第12話 親しい人とさしつさされつ――雪見酒の風景

 

 白楽天(772〜846)といえば、唐王朝の中期を代表する漢詩人である。代表作は、絶世の美女、楊貴妃の悲劇を物語性豊かに描いた『 長恨歌(ちょうごんか)』。この作品によく現れているように、彼の詩は、平明な語り口に定評がある。現代日本人の我々にとっては多少、理解しにくいことばも出て来るが、親しみの持てる作品が多いのだ。
 「劉十九に問う」も、そんな作品だ。「劉十九」とは、劉さんの一族のうち、年齢順に数えて十九番目の男の子、といった意味合い。詳しい経歴はわからないが、白楽天の親しい友人だったらしい。そんな相手に贈った、ごく短い漢詩である。

  緑蟻(りょくぎ) 新醅(しんばい)の酒
  紅泥(こうでい) 小火の炉
  晚来(ばんらい) 天 雪ふらんと欲す
  ()く一盃飲むや(いな)

 「緑蟻」とは、お酒のこと。お酒を醸造するときに生じる細かい泡を、密集する蟻にたとえたものだという。「醅」とはお酒を造ること。「紅泥」は、赤く燃える練炭。
 できたての緑色のお酒と、囲炉裏でちろちろ燃える赤い火。そうやって手堅く酒盛りの準備を整えたところで、後半の2句は友への呼びかけとなる。
 ――今夜は雪が降りそうだね、一杯、いかがかな?
 雪見酒へのお誘いというきわめて日常的な題材を、いたって平易にうたった、いかにも白楽天らしい小品だ。その落ち着いた気分の中に、前半の緑と紅の対比がちょっと華やかな彩りを添えているのも、なかなか心憎い。
 この詩で、ぼくがおもしろいと思うのは、第三句の「晩来 天 雪ふらんと欲す」だ。
 「欲す」とは、ここでは「○○しそうだ」という意味。ということは、今はまだ夕暮れ前で、雪は降り出してはいないのだろう。白楽天は、雪が降りそうな気配を感じただけで、雪見酒の準備をしたくなってしまったのだ。
 雪は、降る前から、人々を落ち着かない気分にさせる。
 雪国ではない地方に住む人間にとって、雪とは、確かにそのような存在だ。白楽天のこの作品は、雪に対するそんな微妙な思いを、こっそりとすくい取って示してくれているのである。


 雪は、降り出す前から、ぼくたちを別世界へと連れて行く。
 それは確かにその通りだが、一方で、実際に眼の前で降っている雪も、人々をハイな気分にさせるものだ。
 白楽天が生きた時代から、さかのぼること約450年。遊牧民族との戦いに大きな功績を挙げた、謝安(しゃあん)(320〜385)という政治家がいた。当時の貴族たちのエピソードを集めた『世説新語(せせつしんご)』という本によれば、ある冷たい雪の降る日に、彼が一族を集めて宴会を開き、甥や姪たちと文学談義をしたことがあったという。
 政治家は常に文人である、というのが中国の伝統だ。謝安も例外ではない。西暦353年に開かれたあの王羲之(おうぎし)の蘭亭の集会にも参加して、2編の詩を残しているくらいだ。文学談義をしたって、おかしくはない。
 さて、この宴会の途中で、雪が急に激しくなった。そのとき、謝安は「欣然」とした、と『世説新語』にはある。身内だけの雪見酒、公務を離れた文学談義。開放された風流な気分に、勢いを増した雪が拍車をかけたのだろう。
 上機嫌の謝安は、一族の若者たちに問いかける。
「白雪の紛紛たるは何の似たる所ぞ」
 ――入り乱れて降り続くこの白い雪を、何にたとえたらよいだろう?
 みな、文学談義をするほどに、文章表現には一家言を持つ者たちだ。まず、謝安の次兄の息子の謝朗(しゃろう)が、次のように答えた。
「塩を空中に()けば、(やや)(なぞら)うべし」
 空中に白い塩を撒いたと表現すれば、似ているのではないか、というのである。
 続いて名のりを挙げたのが、謝安の長兄の娘、謝道蘊(しゃどううん)であった。彼女は言う。
「未だ柳絮(りゅうじょ)の風に因りて起こるに()かず」
 ――それよりも、柳の綿毛が風に舞っているという方がぴったりです。
 日本で多く見られる柳の木と、中国で一般的な柳の木とは、同じ柳でも種類が異なる。中国の柳は、初夏のころ、綿毛の付いた種を空いっぱいに飛ばし、それが風物詩にもなっている。謝道蘊は、眼の前に降りしきる雪に、柳の綿毛のふわふわした情景を重ね合わせ見せたのだ。
 それは、冬の向こうに夏を描き出したといってもいいだろう。
 謝道蘊の名は、このエピソードによって、中国史には数少ない文才をうたわれた女性として、語り伝えられていくことになった。
 ただ、現在の目から見ると、雪を綿毛にたとえるのは、ちょっと月並みな気もする。
 それよりも、謝朗の「塩を空中に撒く」方が、奇抜である。当時の塩は、現在と比べればはるかに貴重品であったろう。それを、空中にまき散らすとは! いかにも貴族の青年らしい、豪快な比喩のようにも思えるのだ。
 その優劣はともかく、このやりとりを聞いていた謝安は、たいそうご満悦であったという。それはそうであろう。自身は政治家として権勢を極め、一族には才能のある若者がたくさんいるのだ。
 雪は、人々をハイな気分にさせる。謝安も雪見酒の高揚感の中で、己の幸福を心ゆくまで味わったのに違いない。


 雪の気配に、いそいそと友を招く準備を始める白楽天。
 冷たい雪が降りしきる中、一族を集めて宴会を催す謝安。
 どうやら雪には、親しい人と会いたいという気持ちを起こさせる作用があるようだ。雪景色は美しいが、人々の外出を困難にする。その閉ざされた感覚が、親愛の情を確認したい気持ちを、かえってかき立てるのだろうか。


 謝安とほぼ同時代に生きた王徽之(おうきし)(?〜386?)は、かの書聖、王羲之の第五子である。この人には何かと逸話が多いのだが、先の謝安のエピソードと同じく『世説新語』に記録されている次の話は、とりわけ有名だ。
 ある冬の夜、王徽之がふと目を覚ますと、外は雪の気配である。そこで彼はやおら起き出すと、部屋の窓を開け放して、お酒の準備をさせた。さすが風流人、夜中であっても雪見酒としゃれこんだのである。
 ただ、彼の風流は、俗人の常識を超えていた。
 雪見酒の杯を重ねているうちに、彼の口から、ふと、次のような詩句がもれた。
「白雪は陰岡(いんこう)(とど)まり
 丹葩(たんぱ)陽林(ようりん)(かが)やく」
 ――北の岡には白い雪が残っていて、南の林には赤い花が咲いている。
 1世紀ほど前の文人、左思(さし)の「招隠詩(しょういんし)」の一節である。そして、隠者に会いに行くというその内容に触発されて、友人で隠者のような生活をしている戴逵(たいき)に会いたくなったのである。
 真夜中なのにもかかわらず、王徽之はすぐさま、戴逵に会いに行くために船を仕立てて乗り込んだ。とはいえ、彼が住んでいるのは、例の蘭亭がある山陰という土地で、戴逵の住まいのある 剡県(せんけん)までは、直線距離で50キロほどもある。間には会稽山(かいけいざん) という山がそびえているから、水路伝いに行くとなればその倍近くにもなるだろうか。
 この雪景色を眺めながら、友と酒を酌み交わしたい。
 王徽之の胸に灯ったその思いの火は、はるかな距離などものともしない。雪は親愛の情をかき立てるのだ。
 冴えた月の光を受けて、一面が白く輝く夜の底を、王徽之を乗せた船はすべっていく。そして、一晩かかって、船は剡県にたどりついたのである。
 ところが、ここで王徽之は奇妙な行動に出る。戴逵の住まいの門前まで来て、くるりと向きを変えて帰ってしまったのである。
 ある人がその理由を尋ねると、彼は次のように答えたという。
(われ)(もと)より興に乗じて行き、興尽きて返る。何ぞ必ずしも戴を見んや」
 彼のいう「興」とは、なんなのだろうか?
 それは夜の雪景色を愛でる気持ちであり、夜明けとともに消えてしまったというのだろうか。
 あるいは、戴逵の住まいに着くころには雪はやんでいたとか、もう溶け始めていたとか、そんなことなのだろうか。
 そういうふうに読むのは、合理的な解釈である。が、あまりおもしろくはない。
 王徽之が「興」を感じたのは、一面の銀世界に船を浮かべはるばると隠者に会いに行くということそのものだったのではなかろうか。
 隠者とは、俗世を避けて、隠れ住んでいる者のことだ。『三国志』では、隠者のごとき暮らしをしている諸葛孔明(しょかつこうめい)に会うために、劉備(りゅうび)は何度もその草庵へと足を運ぶ。また、唐詩の中には、隠者を訪ねていって会えなかったことを題材とする一連の作品がある。隠者とは、簡単には会えない存在なのだ。
 冬の真夜中、見渡す限りの雪景色を前にして、王徽之は、今こそが隠者に会いにいくべき時だと感じたのではなかろうか。なぜなら、雪は人に会いたいという気持ちをかきたてる一方で、会いに出かけることを困難にするからだ。
 訪ねていくのが困難であればあるほど、隠者のもとに出かけるのにはふさわしい。それは、逆に言えば、簡単に会えるようでは隠者ではない、ということだ。
 だとすれば、王徽之が戴逵の住まいの門前まで来て、くるりと向きを変えて帰ってしまったのも、不思議でもなんでもない。