第9話 いいことの始まりと終わり――「しぐれ」をめぐって

 

 東京の10月は、秋まっさかり。キンモクセイの香りがそこはかとなく漂い、見上げれば、澄んだ青空を一筋の飛行機雲が、はるか異国を指して伸びて行く。
 とはいえ、朝夕の冷え込みは、着実に厳しさを増していく。明け方、寒さに目を覚ましてふとんを取り換えることも多くなる。暦の上では、10月の8日ごろが、二十四気の「寒露」。23日ごろが「霜降」。いかにも寒そうな節気の名前が続く。
 冬はもう、目の前まで来ているのだ。
 ところで、二十四気をさらに3つに分けた七十二候では、霜降の最初の5日間を「霜始降」という。これは、「しもはじめてふる」と読むらしい。そうして、次の5日間は「霎時施」と書いて、「こさめときどきふる」と読むのだそうだ。
 七十二候とは、もともとは中国の暦の風習だったものを、日本の気候に合うようにアレンジしたものだという。漢字ばかりで書いてあるのに日本語として読むのは、そのせいなのだろう。
 とはいえ、「霎」なんて漢字は、現在の日本語では、ほかの場面で使われることはまずなかろう。漢和辞典を調べて見ると、音読みは「ショウ」で、意味はたしかに「小雨」だと書いてある。また、「短い時間」を指す用法もあるらしい。
 漢詩文での用例を探してみると、8〜9世紀の詩人、孟郊(もうこう)の次のような漢詩がみつかった。

  昨夜 一霎(いっしょう)の雨
  天意 群物(ぐんぶつ)を蘇らす
  何物か最も先んじて知る
  虚庭(きょてい) 草 争いて()ずるを

 ――夜の間に小雨が降ったのは、万物を蘇らせようという、天のはからい。ふと気がつくと、うらさびれたわが家の庭にも、草の芽が先を争うように伸びてきた。
 というのだが、「何物か最も先んじて知る」つまり、だれが最初にそれを知ったのだろうか、というのは、自分が最初に見付けたんだよ、ということなのだろう。
 ここでの「一霎の雨」は、夜の間にさっと降る小雨を指している。なるほど、「霎」とはそんなイメージなのかと、得心がいく。
 ただ、内容からも推測できる通り、この漢詩のタイトルは、「春雨の後」。日本の七十二候の「霎時施」とは、季節はだいぶ異なるのである。

 もっとも、漢詩に登場する「霎」がいつも春先の雨だとは限らない。他の用例を見てみると、夏に涼しさをもたらす雨だったり、秋にさみしい音を立てる雨だったりもするようだ。
 では、日本ではどうなのだろうか?
 『日本国語大辞典』によれば、平安時代や鎌倉時代の古辞書では、「霎」という漢字には、「しぐれ」という訓が付けてあることが多いらしい。「しぐれ」を辞書的に説明すると、秋の終わりから冬の初めにかけてそぼ降る雨のこと。つまり、七十二候のいうところの「霎=こさめ」とは、「しぐれ」のことなのである。
 「しぐれ」は、日本人の季節感と深く結び付いている。たとえば、10世紀の半ば、平安時代の中ごろに成立した『後撰(ごせん)和歌集』には、次のような詠み人知らずの歌が収録されている。

  神無月 降りみ降らずみ 定めなき 時雨(しぐれ)ぞ冬の 初めなりける

 旧暦の10月、降ったりやんだりの時雨に、人々は冬の訪れを感じ取るのだ。
 ところで、今、書いて見たように、「しぐれ」を漢字で「時雨」と書くことも多い。ただ、『後撰和歌集』が編まれたころからこのような書き方がされていたのかどうかは、わからない。当時の歌集は手書きの写本によって伝えられていて、書き写されるときに文字遣いが変化している可能性もあるからだ。
 とはいえ、この歌から読み取れるのは、「しぐれ」とは、降ったりやんだりする、長続きしないものだ、ということだ。だとすれば、日本人が「しぐれ」を「時雨」と書き表すとき、「時」という漢字は、「一時的な」という意味合いで使われているのだと思われる。

 一方、「時雨」は、漢文にもよく出て来る熟語で、その場合は音読みして「ジウ」と読む。だが、日本語の「しぐれ」とは、意味はだいぶ異なる。
 紀元前4世紀の終わりごろ、中国の北方にあった(えん)という国で、暗愚な王が出て内政が大いに混乱したことがあった。お隣の(せい)という国はこれにつけ込み、軍隊を送って燕を滅ぼしてしまおうと考えた。
 このとき、斉の王に政治顧問として仕えていたのが、思想家として有名な孟子であった。孟子は、道徳を体現した王による理想的な統治を説いたことで知られる。彼に言わせれば、暴政を行う王は王ではなく、その地位を奪われてもしかたない。いわゆる、孟子の「革命」思想である。
 彼は、燕への出兵を、自らの考える理想の政治を実現する機会ととらえて、積極的に賛成した。ところが、斉の軍隊は燕王を血祭りに上げるやいなや、乱暴な占領政策を行い始めた。それを知った孟子は、ひどく失望する。そこで、彼は王をいさめて、占領をやめさせようとした。
 そのときのことばが、『孟子』の中に残されている。
 孟子は言う。古の聖王も戦争をしたが、それは暴虐な君主を滅ぼして人々の暮らしに平和を取り戻すためだった。
 「其の君を誅して其の民を(あわれ)むこと、時雨(じう)の降るが(ごと)し。」
 暴君を倒して、憐れみの政治を行ってくださる。そう思えばこそ、人々は聖王の軍隊を大歓迎したのだ。
 それなのに、今、斉の軍隊は、占領地で反感を買うようなことをしている。こうなったらただち占領をやめ、燕の民の望むような君主を立てて、軍隊を引き揚げるべきです、と。
 この経験は、孟子にとって、理想と現実の違いについて深く考えさせる、人生のターニング・ポイントとなった。やがて彼は、斉王の政治顧問という名誉ある地位を捨てて、諸国放浪の旅に出ることとなる。
 それはともかく、ここで孟子が使っている「時雨」とは、降って欲しいと願っている時に降ってくれる雨を指している。ここでの「時」は、「ちょうどよい時」という意味なのだ。
 人々が待ち望んでいるちょうどその時に、恵みをもたらしてくれる雨。漢文の世界では、「時雨」はそういうイメージを持つ。そうして、この熟語は、皇帝が庶民に施すお情けの比喩として、定着していくのである。


 もともとは季節を問わない小雨を指す「霎」を、日本人は「しぐれ」に限定して用いる。また、ちょうどよい時に降ってきてくれる恵みの雨を表す「時雨」も、日本人の手にかかると、「しぐれ」と読まれてしまう。
 どうやら、日本人の「しぐれ」へのこだわりは、格別なものがあるようだ。
 そこには、中国と日本の風土の違いがあることは、言うまでもない。気候が違えば、四季折々の雨に対する思いが異なるのも、当然のことだ。
 では、日本人は「しぐれ」に、どのような思いを抱いているのだろうか。今度は『万葉集』から、詠み人知らずの歌を引いてみよう。

  時雨の雨 ()なくし降れば 真木の葉も あらそひかねて 色づきにけり

 時雨が降り続くようになると、槇の葉もその冷たさに負けて、色づいてくる。
 この歌が示しているように、日本人にとって、「しぐれ」とは、木々の緑を赤や黄色に染め替える雨であった。そうして、それは楽しい紅葉狩りの季節の始まりを告げるものなどではなく、むしろ、紅葉が散ったあとのさびしさを予感させるものだったようだ。
 だからこそ、『古今和歌集』で、名の伝わらぬ歌人は、次のように詠む。

  我が袖に まだき時雨の 降りぬるは 君が心に あきや来ぬらむ

 ――私の袖は涙でぬれて、まるで早くも時雨が降ったみたい。これは、あなたの心にはもう秋が来て、私に飽きてしまったからなのでしょうね。
 あるいは、同じく『古今和歌集』で、凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)は、母の喪に服する胸の内を、次のようにうたう。

  神無月 時雨に濡るる もみぢ葉は ただわび人の (たもと)なりけり

 過ぎ去ってしまった恋と、この世を去ってしまった母。こんな歌を読むと、「しぐれ」とは終わりの象徴なのだ、と思えて来る。
 漢文の世界では、「時雨」とは、人々が待ち望むものであり、平和な暮らしを期待させるものであった。ここでの「時」は、何かいいことが始まる瞬間である。
 それに対して、日本語の「しぐれ」は、否応なく訪れるものであり、人々はその悲しさを耐え忍ばなくてはならない。日本人が「しぐれ」を「時雨」と書き表すのは、一時的な雨だからなのだろう。しかし、漢文の「時雨」と比べてみたとき、ぼくは、そこに、何かいいことが終わる瞬間という意味合いを見出してみたくなる。
 いいことが始まる時と、それが終わる時。
 そんなあまりにも対照的な二つの世界が、「時雨」という漢字二文字の中には、背中合わせになって同居しているのである。