第6話 マス目の向こうに雨が降る――漱石作品の名場面から

 

 甲野(こうの)さんは、帝大を卒業した若き哲学者である。哲学者らしく超然と構えていて、名声や財産には無頓着だ。とはいえ、それも亡き父の遺産で何不自由なく暮らしていけるからこそではある。
 しかし、甲野さんの継母は、実の娘・藤尾に養子を取って後を継がせたいと考えている。ことばでは義理の息子を頼りにしているようなことを言うものの、内心では甲野さんに気を許すことができないのだ。そこで目を付けたのが、藤尾に英語を教える家庭教師、小野さん。彼は、苦学の末、帝大の文科を出たばかり。卒業の際には恩賜の銀時計をいただいたほどの秀才であった。
 夏目漱石の長編小説、『虞美人草(ぐびじんそう)』である。
 漱石の華麗なまでの美文調に乗って、妖しい魅力を湛えたヒロイン・藤尾は、次第に小野さんの心を捕らえていく。しかし、実は小野さんは、恩人の娘と五年前に婚約していたのだ。
 藤尾と結婚して甲野の家を継げば、生活の苦しみから解放されて、心ゆくまで研究に打ち込むことができる。が、それでは、少年のころに目をかけてくれた恩人を裏切ることになる。野心と義理との間で、小野さんは悩み苦しむ。
 一方、甲野さんは甲野さんで、表では世間の眼を気にして自分を立てながらも、裏では追い出そうとする義母の二面性に、いらだちをつのらせていく。
 二人の青年の葛藤は、まわりの者たちをも巻き込みつつ、やがてクライマックスを迎える。ある雨の日、甲野さんがとうとう、義母に対して、今から家を出ると告げるのだ。
 そのことばを聞いた義母はいう、「こんな雨の降るのに」と。まるで、雨が降る中、義理の息子を出て行かせたとあっては、世間体が悪いとでもいうように。
 「雨は部屋を取り巻いて吹き寄せて来る。遠い所から風が音を(あつ)めてくる。ざあっと云う高い(ひびき)である。また広い響である。響の(うち)に甲野さんは黙然として立っている。」
 そこへ、小野さんが婚約者を連れてやってくる。彼は藤尾に向かって言う、ここにいるは自分の未来の妻だ、と。「藤尾さん、今日までの私は全く軽薄な人間です」と懺悔して、彼女の許しを乞うのである。
 しかし、誇り高き藤尾は、これをこの上ない侮辱だと受け取った。
歇私的里(ヒステリ)性の(わらい)は窓外の雨を衝いて高く(ほとばし)った。」
 雨音が高く広く響きわたる空を、ヒロインのひきつった笑いが切いていく。そうしてそのまま、彼女は脳の血管を破裂させて、若き命を散らせてしまったのだった。

 夏目漱石というと、現代の読者からはどんなイメージを持たれているのだろうか。日本の近代化の中で知識人が抱えることになった深刻な矛盾を、深く掘り下げた大文豪。――そんなところだろうか。
 たしかに、漱石の小説には思索的な文章も多い。そのために話がなかなか進まず、ちょっと退屈してしまうこともある。だが、その一方で、漱石はなかなかドラマチックに話を展開していく作家でもある。『虞美人草』のクライマックスなどは、現在のテレビドラマでも使われそうなくらい、ドラマチックな演出だ。
 『それから』で降る雨もまた、息が詰まりそうなほどドラマチックである。
 代助は、三年ぶりに友人の平岡に会って、彼の結婚生活がすでに破綻していることを知る。平岡の妻、三千代は、かつて、代助と秘かに思いを通わせ合った相手だった。代助はその思いを捨て去ることができず、いまだに結婚できないでいたのだ。
 悩んだ末に、代助は、三千代を奪い取ろうと決心する。
 彼は、三千代を呼び出して、どこかを歩きながらその気持ちを告げようと考えた。しかし、お天気はあいにくの雨降りだ。かといって、平岡の家へ上がり込んでこんな話をするわけにはいかない。やむをえず、代助は、書生の門野(もんの)にことづけて、三千代を自分の家へと呼び寄せることにした。
 彼女を待つ間、代助は雨を衝いて外へ出た。そして、花屋へ行って、二人にとって思い出深い白い百合の花をたくさん買って、花瓶にいけたのだった。
 やがて、三千代がやってくる。
 「雨は依然として、長く、密に、物に音を立てて降った。二人は雨のために、雨の持ち来す音のために、世間から切り離された。同じ家に住む門野からも婆さんからも切り離された。二人は孤立のまま、白百合の香の中に封じ込められた。」
 明治の末の社会において、人妻を奪うということは、どれほどまでに重いとみなされる罪であったか。夫を捨てて他の男のもとへ走るということは、どれほどまでに非難されることであったか。
 代助はこれから、その罪を背負わねばならぬ。愛する女性に対して、その非難を浴びることを強いなくてはならぬ。
 この決定的な場面を、漱石は雨で塗りつぶしていく。雨はたしかに、二人を孤立させる。それは、これから世間というものと切り離されて生きてゆかねばならない、二人の行く末を象徴しているかのようである。


 漱石作品に降るドラマチックな雨といえば、『行人(こうじん)』の暴風雨も、忘れるわけにはいかないだろう。
 『行人』の語り手は、長野二郎という青年である。彼には、極度に神経質な兄、一郎がいる。一郎は、近代知識人特有の自我をもてあました挙げ句、だれも信頼することができなくなる。特に、妻のお直が信じられない。こともあろうか、自分の弟の二郎に気があるのではないかと疑っているのである。
 そこで、一郎は、妻の気持ちを確かめたいと考えた。二郎に向かって、彼女と一晩過ごしてみてくれ、と持ちかけたのだ。当然ながら、断る二郎。しかし、平素から兄夫婦のことを心配していた二郎は、家族旅行で和歌山を訪れた際に、義姉と二人で和歌山の町に出かけ、彼女と話をしてみることにした。
 食事をしながら、「兄さんにだけはもう少し気をつけて親切にして上げて下さい」という二郎。対するお直は、それは無理だ、自分は「本当に腑抜け」だから、と答える。「(あたし)のような魂の抜殻(ぬけがら)はさぞ兄さんには御気に入らないでしょう」と。
 そうこうしているうちに、雨が激しく降り始めた。この日、和歌山地方を暴風雨が襲ったのである。一郎たちと一緒に滞在している和歌の浦に帰れなくなった二人は、和歌山市内の宿で一泊せざるを得なくなった。
 薄暗い行灯の光の中で、荒れ狂う暴風雨の音を聞きながら、お直は妙なことを語り出す。嵐で和歌の浦の宿が流されてしまうなら、「本当に惜しい事をしたと思う」と。
 「妾死ぬなら首を(くく)ったり咽喉(のど)を突いたり、そんな小刀細工をするのは(きらい)よ。大水に(さら)われるとか、雷火に打たれるとか、猛烈で一息な死に方がしたいんですもの」
 このものすごいことばを聞きながら、二郎は、無気味な思いにかられる。義姉の眼の中に「意味の強い解すべからざる光」を認めたのだ。
 そして、翌朝、晴れ渡った空の下で思い返しながら、「すべての女は、男から観察しようとすると、みんな正体の知れない(あによめ)のごときものに帰着するのではあるまいか」などと考え込んでしまうのである。
 漱石の胸の奥には、女性に対する不可思議な思いが、嵐をもたらす黒い雲のように巣くっていたのだろうか。


 小川三四郎は、数え年で二十三歳。熊本の高等学校を卒業して、上京して帝大へと入学したばかりである。はるか九州から出て来た青年の眼には、東京で日々めぐりあうあらゆることが新しい。驚いたりあきれたりをくり返す中で、三四郎は美しい女性、美禰子(みねこ)に出会う。そして、恋に落ちるのである。
 『三四郎』は、漱石の作品の中でも随一の青春小説だといっていいだろう。恋する青年が相手の一挙手一投足に振り回されるようすが、なんともういういしい。
 この作品の中にも、雨が印象的に降る場面がある。
 三四郎は、友人に貸した金が返ってこないので、困っている。それを知った美禰子は、その金を用立てようと申し出た。しかし、三四郎は彼女に思いを寄せているがゆえに、素直にその申し出を受けることができない。
 なんとなく気まずい思いを抱えたまま、二人は博物館へと展覧会を観に行った。そうして、博物館から出て来ると、外は雨が降っている。
 「少し待てば()みそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐには都合のよくない樹である。けれども二人とも動かない。濡れても立っている。」
 二人のわだかまりなどとは無関係に、雨は降り続ける。
「雨はだんだん濃くなった。(しずく)の落ちない場所は僅かしかない。二人はだんだん一つ所へ(かた)まって来た。肩と肩と擦れ合うくらいにして立ち(すく)んでいた。」
 なかなかいいシーンである。いかにも青春小説らしい、あまい場面だ。
 しかし、ここで漱石は、ヒロインに次のようなセリフを言わせるのだ。
 「さっきのお金をお遣いなさい」
 美禰子はどうしてそこまでして、三四郎に金を貸そうとするのか。恋の力で相手を虜にするだけでは、もの足りないとでもいうのだろうか。
 漱石にとって、未婚・既婚を問わず、女性は眼に「意味の強い解すべからざる光」を湛えた存在だったのだろうか。
 漱石が原稿用紙に「雨」という漢字を書けば、その作品世界には雨が降る。若い男女の上にも、雨が降る。その雨は、二人の物理的な距離を、少しずつ縮めていく。しかし、精神的な距離は、いっこうに縮まる気配がない。
 このときの漱石は、あまい感傷とはまったく異なる世界を見つめていたように思われる。