第4話 余が好きなのは音楽なのじゃ――『韓非子』の嵐を呼ぶメロディ
嵐を描いた音楽といえば、まずは、ビバルディの協奏曲集『四季』のうち、『夏』の第3楽章を思い出す。いわゆるバロックの音楽だから弦楽合奏のみだが、雷が鳴り響き、雹や霰が降り注ぐようすを生き生きと表現している。
また、かのベートーベンの交響曲『田園』の第4楽章。こちらは、ティンパニやトロンボーンなどを効果的に用いて、吹きすさぶ風、しのつく雨、そして響き渡る雷鳴を次々と鮮やかに描き出していく。
どちらも、聴いているとまさに嵐に襲われているような気持ちになる、迫真の音楽だ。とはいえ、それはもちろん気持ちの上での体験であって、現実の嵐ではない。
では、演奏すると本当に嵐になる、という音楽があるとしたら、どうだろう?
紀元前3世紀ごろに書かれたと思われる中国の古典、『
紀元前6世紀、
途中、
不思議なことがあるものだ、まるで鬼神の音楽のようだ。――そう思った霊公は、次の夜、お抱えの音楽家にその曲を聴き取らせた。彼はその曲を写し取ることに成功したが、もう一度聴いて、きちんと練習したいという。そこで、霊公の一行は濮水のほとりにさらにもう一泊してから、晋の国へと出発したのだった。
やがて、晋に到着した霊公は、かの国の君主、
宴会の場に鳴り響く、嫋々としたもの悲しい旋律。
ところが、その演奏を突如、さえぎる者がいた。平公お抱えの音楽家、
「これは亡国のメロディです。これ以上、演奏してはいけません」
師曠によれば、この曲は、酒池肉林の暴政を行って王朝を破滅させた暴君、
しかし、平公は、次のように答えた。
「
「寡人」とは、君主が自分を指すことば。余が好きなのは音楽なのじゃ、というのは、国土など削られてもかまわない、ということなのだろう。そう言って音楽への限りない愛を表明した平公は、亡国のメロディを最後まで演奏させたのだった。

演奏を聴き終えた平公は、この曲は「何の
この質問に対して、師曠は「
亡国のもの悲しい旋律にすっかり魅了された平公は、ここでさらに、「清商は、最も悲しい曲調なのだろうか」と問いかけた。「
「いけません。清徴の音楽は、昔から、人徳の高い君主が聴くものと決まっております。わが君の人徳では、十分ではありません」
絶大な権力を持つ君主に対して、こんな言いにくいことをズバッと言い切ってしまうなんて! この音楽家は、ただものではない。
実は、師曠は、その演奏のすばらしさに加えて、権力に媚びない数々の言動で名を残す、伝説的な音楽家なのである。彼は盲目だったという。それが、聴覚を研ぎ澄まさせるとともに、常識に囚われない思い切った行動を可能にもしたのだろう。
だが、一方の平公も、仮にも晋という大国を支配する君主である。音楽家が直言したからといって、簡単に引き下がるはずはない。彼は、またもや次のように述べて、禁じられた清徴のメロディを師曠に演奏させてしまうのである。
「寡人の好む所の者は音なり」
平公にとっては、人徳などどうでもよい。音楽の方が大切なのだ。
師曠はやむなく琴を手に取り、清徴の曲を演奏した。すると、不思議なことが起こった。南の方から鶴が16羽も飛んできたのだ。さらに演奏をくり返すと、鶴たちはきれいに並び、3度目の演奏では、翼を広げて舞い、首を長く伸ばして歌い、その声は天高く鳴り響いたのである。
大満足の平公は、さらに尋ねる。「清徴よりも悲しい曲調はないのだろうか」と。師曠の答えは、「清徴も、清角には及びません」。
またもやそれが聴きたいという平公を、またもや師曠は止めにかかる。清角の調べは、中国文明を開いた伝説の聖王、
そうして、最後に、脅しのセリフさえ、付け加えるのだ。
「
もしその旋律を聴いたならば、必ずやたいへんな災厄が降りかかるでしょう、と。
ああ、しかし、これは逆効果ではなかったか? 〝聴いてはいけない〟と強調されればされるほど、聴きたくなるのが人の情というものだ。ましてや、相手は、音楽の魔力に取り憑かれてしまった君主なのだ。その曲を聴きたいという思いを抑えることなど、できるはずはなかろう。
あるいは、盲目の天才音楽家の脳中では、そこまで計算済みだったのか?
案の定、平公は言う。
「寡人は老いたり。好む所の者は音なり」
私はもう年老いているのだ。人生などに未練はない。ただ、その音楽を聴くことさえできるのならば、どうなってもかまわないのだ!
師曠は、再び琴を手に取り、清角のメロディを奏で始める。すると、西北の方から、黒い雲が湧き上がってきた。そして、もう一度、演奏すると……
「大風至り、大雨
強い風が吹き、続いて激しい雨が降りだした。宴会の場に張りめぐらされていた垂れ幕は引き裂かれ、並べられた料理は台ごとひっくり返って壊れ、さらには屋根瓦まで吹き飛ばされて落ちてくるという始末。参会者たちはみな逃げまどい、平公はといえば、控え室に逃げ込んで、倒れ伏して恐れをなすばかり。
この後、平公は重い病気にかかってしまった。晋の国も日照りが続き、3年もの間、赤く焼けた土が大地を覆うありさまだったという。
この話を収めた『韓非子』の十過編は、君主が犯してはならない〝10の過ち〟について述べたものだ。音楽への耽溺もその〝過ち〟の1つであり、だから、君主が音楽にのめり込み過ぎると政治が乱れるというのが、この物語の教訓なのである。
ただ、ぼくはもちろん君主ではないから、この教訓はあまり身にしみない。それよりも考えてみたくなるのは、ラストシーンでの平公の心情だ。彼は、師曠の反対を押し切って禁断の曲を演奏させたことを、後悔していたろうか?
いや、そんなことはあるまい。
国土よりも、人徳よりも、人生そのものよりも、もっともっと音楽を愛した平公のことだ。音楽が引き起こした奇跡を眼の前にして、陶酔していたのではなかろうか。
清角の調べが招き寄せた嵐は、平公が逃げ込んだ控え室にも、容赦なく吹き込んだことだろう。その中でブルブルと震えながらも、おのれの愛した音楽の力に恍惚としている1人の君主。
そうして、そのそばにかしずいている天才音楽家は、その光の宿らぬ目の奥で、何を考えているのだろうか。
二人の蒼白い頰を、大粒の雨が容赦なくなぶり続けている……