第3話 そぼ降る雨にぬれながら――春雨の漢詩

 

 春はこぬか雨、夏は夕立。秋に入ると長雨が降り、冬は冷たい氷雨になる。
 四季の変化に恵まれた日本列島では、それぞれの季節にそれぞれの雨のイメージがある。そのうちで最も人気があるのは、春夏秋冬、いつの雨だろうか?
 そんなアンケートを採ってみたらおもしろそうだが、人気はともかく、ぬれて最も絵になる雨はといえば、それは春雨に違いない。春雨のけぶる中をわざわざ好んで歩くのは、別に、お芝居の月形半平太だけではないのである。

  江戸時代末期の漢詩人、広瀬旭荘(きょくそう)[1809〜63]に、「春雨(しゅんう)筆庵(ひつあん)に到る」という詩がある。春雨の降る日に、筆庵という友人の家を訪ねた折の作品だ。詩の内容からすると筆庵はなかなかの風流人らしいが、どんな人物だったか、具体的なことは伝わっていない。

  菘圃(しょうほ)葱畦(そうけい) 路を取りて斜めすれば
  桃の(もっと)も多き処 ()れ君が家
  晩来(ばんらい) 何者か門を(たた)いて至る
  雨と 詩人と 落花となり

 「菘」というのは、辞書には、トウナだとか白菜だとか書いてある。ただ、漢詩を鑑賞する場合には、博物学的に厳密に考えるのは、あまり意味がない。トウナも白菜もアブラナ科だから、菜の花を思い浮かべておけば、案外、イメージに近いのではないだろうか。
 「菘圃葱畦」とは、菜の花が咲き、ネギが植わった畑のあぜ道。その中を横切って歩いて行くと、桃がいっぱい咲いているところがあって、そこが筆庵の家だった、というのである。
 菜の花の黄色と、ネギの緑、そしてピンクの桃の花。その全体に薄いヴェールをかけるように、春雨が白くけぶる。この風景に、和傘をさし、高下駄を履いて歩いている漢詩人を置いてみると、なんとも風流な一幅の絵になるではあるまいか。
 その春景色を踏まえた上で、後半の2句は、作者と相手との問答になる。
 「今夜は、だれか門をたたいてやって来る人はありますか?」
 「雨と、詩人さんと、散りゆく花だけですよ」
 ほかにはお客さんはありません、などとあらわに言ってしまうと、野暮になる。わざわざ尋ねてきてくれた相手を「詩人」と呼び、さらには「雨」と「落花」に挟んで並べるなんて、心憎いばかりだ。
 雨と花との情趣を解する友人同士が、2人だけで過ごす、ゆったりとした春の宵。江戸漢詩の風雅な世界である。

 とはいっても、花咲くころの春雨はまだまだ冷たく、実際にぬれると、相当にわびしい気持ちになるものだ。次に紹介する「清明(せいめい)」という漢詩は、そのわびしさをうまく描き出した作品。作者は、中国は唐王朝後期を代表する詩人、杜牧(とぼく)[803〜852]だとされているが、最近の研究では、別の詩人の作品らしいともいう。
 タイトルの「清明」とは、二十四節気の1つで、現在の4月5日か6日に当たる。

  清明の時節 雨 紛々
  路上の行人(こうじん) 魂を断たんと欲す
  借問(しゃもん)す 酒家は(いず)れの処にか有る
  牧童 遥かに指さす 杏花(きょうか)の村

 まだ薄ら寒い清明のころ、あいにくの霧雨がしょぼ降っている。その中を、旅人が、切れてしまいそうな心を必死につなぎとめながら、旅路を急ぐ。前半の2句は、そんな光景である。
 ここで、詩人は旅人に次のようなセリフを言わせている。
 「ちょっとおたずねしますが、どこかに飲み屋さんはありませんかね?」
 一杯やって、冷えた体を暖めたい。そう思うのは、日本人も中国人も同じなのだ。
 問いかけられたのは、羊飼いの少年。ということは、ここは牧場が広がるような、人里からはかなり離れたところなのだろう。まわりにはなだからな丘が続き、木立は少なく、遠くまで見渡せる場所だろうか。
 この少年が「しばらく歩けばこじゃれたお店がありますよ」などとあからさまに答えてしまっては、いい詩にはならない。かといって、羊飼いの少年にオツなセリフを期待するのも、そもそもお門違いだろう。
 彼は黙って、遠くを指さすだけでいいのだ。その指の先をたどってみると、アンズの花が咲く里が見える……。
 これまた、なんとも絵になる光景ではあるまいか。羊飼いの少年のまっすぐ伸ばした指が、羊の世話によごれたその指先までが、眼の前に浮かんで来るような気がする。
 先の広瀬旭荘の詩と、この作品とを比較してみるとおもしろい。片方が、最後にオツなセリフを持って来れば、もう一方は無言の答えで絞めてみせる。片方は、白くけぶる春雨の中に、黄色と緑とピンクという鮮やかな色を配していたのに対して、もう一方は、アンズの白い花の塗り重ねだ。
 どちらが勝れているというわけではない。日本人と中国人の感性の違いというわけでもあるまい。それぞれの春雨に、それぞれの魅力がある、というだけの話である。

 ところで、中国文学を代表する詩人の1人、杜甫(とほ)[712〜770]の作品にも、春雨をうたったものがいくつかある。その中で、ぼくにとって印象が深いのは、「衛八(えいはち)処士(しょし)に贈る」の一節だ。
 「衛八」とは、杜甫の若いころの友人だが、その経歴についてはよくわからない。「処士」とは官僚にはなっていない知識人を指すことばだから、衛八氏は何らかの事情で郷里に引きこもって暮らしていたのだろう。40代半ばの杜甫は、旅の途中でこの旧友の家に立ち寄り、20年ぶりの再会を果たしたのである。
 時は、唐王朝をゆるがす大反乱、安史(あんし)の乱の真っ最中。24句から成るこの長編詩は、そんな戦乱の世で思いがけなく再び会うことができた喜びから始まる。

  人生 (あい)見ざること
  (やや)もすれば(しん)(しょう)との如し
  今夕(こんせき)()た何の夕べぞ
  此の灯燭(とうしょく)の光を共にせんとは

 「参」は、オリオン座の3つ星。「商」はサソリ座のアンタレス。離ればなれになった友との再会がむずかしいのは、たとえるならば、この2つが一緒に夜空を飾ることがないようなものだ。なのに今夜はなんということだろう、君と1つの灯火をはさんで向かい合っているとは!
 そして、再会の感慨を語る句が、次々に重ねられていく。
 曰わく、「お互い、白髪が目立つようになったなあ」とか、「旧友たちの半分はもう死んでしまった」とか、「この前、会ったときには独身だったのに、こんなにたくさんお子さんがいるのか」とか……。現代に置き換えても十分に通用する、いわば〝20年ぶりの再会あるある〟といったような会話ばかりなのだ。
 杜甫の詩には、こういうリアリズムがある。ありふれた日常のひとこまをていねいに描いていくことで、普遍性を獲得しているのだ。
 衛八の子どもたちは、父の旧友をめずらしがって、「どこから来たのですか」と尋ねる。それに答えないうちに、そんなことよりまず酒だ、とばかりに、親は子に、飲みものを持って来いと命じる。そして始まる、宴会の準備。
 どれもこれも、いかにもありそうな場面ばかり。杜甫の筆は、約1250年の時をものともせず、中国の片田舎の家へと、ぼくたちを連れて行ってくれるのである。
 そこへ登場するのが、次のような2句である。

  夜雨(やう)春韭(しゅんきゅう)()
  新炊(しんすい)には黄梁(こうりょう)(まじ)

 「韭」は「韮」と同じで、ニラのこと。「黄梁」は、穀物の一種で、上等のアワ。
 ――春雨の降る夜だというのに、ニラの葉を刈り取りに行ってくれて、上等のアワを混ぜて、新しくごはんを炊いてくれた。
  炒めたニラはたしかにうまいが、けっして高級料理ではあるまい。黄梁の混じったごはんもおんなじで、行くところに行けば、もっといい食事にありつけることだろう。
 だが、そんなことは問題ではない。春雨にぬれるのをものともせず外に出たり、わざわざごはんを炊いてくれたりするその心配りに、杜甫は感激したのだから。
 この夜、杜甫は、旧友に勧められて、次々に杯を傾けた。しかし、いっこうに酔わない。旧友の情の深さに対する感激が、酒の酔いを凌駕しているからである。
 その熱くほてった頭の中で、杜甫は考える。

  明日 山岳を隔てなば
  世事(せいじ) (ふた)つながら茫茫(ぼうぼう)


 「世事 両つながら茫茫」とは、お互いの消息は茫々としてわからなくなってしまうだろう、ということ。明日になって自分があの山を越えて旅立ってしまったら、それが永の別れになるだろう、と言って、杜甫は詩を結んでいるのである。
 杜甫がぼくたちと異なるのは、戦乱の中に身を置いていたことだ。しかし、そんな時代にも、ぼくたちと変わらぬ日常があり、熱く長い友情があり、心づくしのもてなしの心がある。杜甫のこの詩は、そのことを、時間や空間を超えて語り続けている。
 田舎の家の一部屋で、灯火を囲んで、再会を喜び合う2人の男。それを見守る、家族の笑顔。そして、机の上には、質素ながらも心づくしの料理の数々。
 そんな場面を包み込むように、外では、春雨が音もなく降り続いているのである。